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2024年12月28日 (土)

挨拶、異なる教えについての警告(1章)

<挨拶>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一1章1節から2節です。
●1節.わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
●2節.信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。

 

「救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、」とパウロは書いています。
通常救い主はイエス・キリストですが、パウロが父なる神を救い主と書いているのには理由があるのでしょう。

 

それは、自分が神の前では一瞬たりとも生きていくことはできない罪人であるという強い自覚があり、神のあわれみにすがる以外に救いはないという強い認識があったからではないでしょうか。

 

 

キリスト・イエスは、罪びとである私たちのために父なる神に執り成し、全人類の罪を贖うためにご自分が十字架にかかり生贄となってくださいましたが、それが成就するのは、父なる神が我々を哀れみキリスト・イエスの執り成しを受け入れてくださったからです。

 

また、イエス・キリストのことを「わたしたちの希望」と言っていますが、この希望は、主イエスが終わりの日(キリスト者の救いの完成のために来られる)のキリスト再臨を指しているのでしょう。

 

よって、イエス・キリストは我々の救い主であり希望なのです。
なお、パウロはイエス・キリストをキリスト・イエス」と呼んでいますが、これは、キリストのところをメシヤと言い換えれば、救い主イエスとなり、なんとなく言葉として筋が通り理解できます。

 

パウロはテモテを「信仰によるまことの子」と呼んでいます。
ということは、テモテは、おそらくパウロの宣教によって救われた人であり、またテモテにとってパウロは年齢的に父親のような存在であったようですが、霊的にパウロと同じものを持ち、パウロの宣教旅行の同行者、かつ同労者でもあったのでしょう。

 

また、パウロは当時の手紙の書式にしたがって、差出人としてパウロ自身を「キリスト・イエスの使徒」とし、受取人を「信仰によるまことの子テモテ」とし、あいさつを述べてから祝福の祈りを加えています。

 

このようにパウロは自分を「キリスト・イエスの使徒」と言っていますから、この手紙がテモテ個人だけではなくすべてのパウロの教会で呼んでもらいたいという意図があったのではないでしょうか。

 

<異なる教えについての警告>
聖書の箇所は、テモテへの手紙一1章3節から11節です。
●3節.マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
●4節.作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。

 

パウロはマケドニア州に出発するときに、おそらく、パウロに同行することを望んでいたテモテに、「エフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。」と頼んでいるのでしょう。

 

パウロは、第三回目の宣教旅行で、エフェソに長期間滞在していますが、出立の際にテモテにエフェソにとどまるように依頼したのかもしれません。

 

パウロは長期間滞在していたエフェソを出立したのは、エルサレムにある教会が経済的に窮していたので、献金を集めるためにマケドニヤとアカヤの地域に行くためでしょう。

 

テモテをエフェソの集会にとどまるように言ったのは、「ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」と言っています。

 

ある人々が、パウロが教えていることと「異なる教えを説い」ていたからだ、と言っています。
テモテは、この異なった教えを説く者たちに、どのように対処すればよいか苦慮していたのでしょう。

 

異なった教えは、「作り話や切りのない系図に心を奪われたり」とありますから、救いにイエス・キリスト以外に何らかの人間的なもの(作り話とか切りのない系図)を必要とする異なった教えのことでしょう。

 

7節を読めば、律法(口伝律法)に関わることなのでしょう。
聖書はキリストを信じる以外に救いの道はないと教えています。

 

●5節.わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。

 

「この命令」とは、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように」命じてきたことを彼らに命じることです。

 

その目標は、わたしたちの信仰が「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すもの」なのか、律法の教師でありたいと思い、無益な議論を重ねることなのかと問うています。
わたしたちの目標であるキリスト信仰は、もちろん前者によるのです。

 

●6節.ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。
●7節.彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。

 

ある人々は5節の愛を目指す信仰からそれて、律法のこともわからないで「無益な議論」を重ね迷い込んでいる者、すなわち、自分の主張している事柄も理解していないで、律法の教師であることを願っているのです。

 

●8節.しかし、わたしたちは、律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。
●9節.すなわち、次のことを知って用いれば良いものです。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
●10節.みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。
●11節.今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。

 

「律法は正しく用いる」とパウロは言っています。
そして、正しく用いるというのは、9節と10節に書かれたすべての人は有罪であるということを示している罪のリスト、すなわち、「健全な教えに反すること」のために与えられている事を知って用いることです。

 

この事は、「祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。」とパウロは言っています。
律法の教師であることを願っている偽教師たちは、律法をよく知っていましたが、行うこともなく、律法を与えられた目的を理解していませんでした。

 

ガラテア書3章22節から24節に下記のようなパウロの言葉があります
21節.それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。

 

22節.しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。
それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 

23節.信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
24節.こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

 

 

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