マナ(16章)
聖書の箇所は、出エジプト記16章1節から36節です。
16章と17章のテーマは、試みでしょう。
最初の試みは、苦い水でした。モーセが、言われたとおりにすると、水が甘くなりました。
15章25節で、主はモーセを「その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試み」とあります。
ということは、主が定めた「掟と法」を守ることを求めておられるのです。苦い水の試みもそのためであったのです。
●1節.イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
イスラエルの共同体全体は、エリムから旅立ちエジプトの地を出て、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に向かったとあります。
イスラエルの民がエジプトを出たのは第一の月の15日でしたから、「エジプトの国を出た年の第二の月の十五日」ですから、出エジプトからちょうど一ヶ月たったことになります。
●2節.荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
彼らがエジプトを出た時に持って来た種なしパンも、そろそろ尽きてきた頃でしょう。
●3節.イスラエルの人々は彼らに言った。
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
「イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。」とあります。
しかし、民はエジプトで「肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」と言っていますが、本当でしょうか。
よく考えれば、彼らはエジプトでは奴隷であったのです。
奴隷生活があまりにも酷く、日々苦役で死にそうになっていたので、その場から逃げ出したかったのです。
主は民の不満に対し、マラで苦い水が甘い水に変え、エリムで十二の泉と七十本のなつめやしの恵みを与えました。
民の不満は、今度は、シンの荒野で食糧が尽きたので、モーセにつぶやきました。
「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」です。
それにしても「飢え死にさせようとしている」というのはひどいです。
パンはなくても、彼らにはエジプトから連れて来た大量の家畜がいたはずですから、その肉を食べようと思えば食べられたはずです。
●4節.主はモーセに言われた。
「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
イスラエルの民の3節のつぶやきに対して、主からの答えです。それは4節と5節です。
主は、「天からパン(マナ)を降らせる。」といわれ、それに対する民の態度によって、「わたしの指示どおりにするかどうかを試す。」、つまり、民がご自分の指示を守るかどうかで信仰を試すと言われています。
民が守るべき主の指示は、天から降ってきたパンを「毎日必要な分だけ集める」(4節)・一人当たり1オメル・自分の天幕にいる家族の数だけ(16節)・朝ごとに必要な分を(21節)・6日目は二倍の量、すなわち、翌日の分も含め「一人当たり2オメルのパン(22節)」を集める、です。
この命令に従うかどうかで主は民の信仰を試すと言われているのです。
●5節.ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
6日目は二倍の量というのは、安息日の前日には二日分与えるということでしょう。7日目は安息日で、主が休まれる日ですからマナは降ってきません。
●6節.モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。
「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、
●7節.朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
主は、イスラエルの民のご自分への不平を聞かれ、イスラエルの民はこれから、『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。』(12節)と言われています。
●8節.モーセは更に言った。
「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
6節から8節は、イスラエルの共同体の人々に対するモーセとアロンの言葉です。
それは、民の不平に応えて主がなされたことで、「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。」ためです。
つまり、夕方と朝、つまり、夕方には肉が与えられ、朝にはパンが与えられることを言っているのでしょう。そのことによって、主の恵みに感謝するようにということでしょう。
●9節.モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、
●10節.アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
6節から8節は、主がイスラエル共同体の人々の不平を聞かれたからで、それでモーセはアロンに共同体に対し「主の前に集まれと命じなさい」と命じ、アロンはその言葉に従ったのです。
「主の栄光が雲の中に現れた。」というのは、主の臨在のしるしでしょう。
そのことによって、主は、先のモーセとアロンの言葉が真実であることを裏付けられたことになります。
●11節.主はモーセに仰せになった。
●12節.「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
主はモーセに、イスラエルの民が毎日「夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹」しているのは主の恵みであると教えています。
だから、民はそのことをもって主を知るようになるのです。
これは、主に対して民がこぼした不平を、主が聞かれたからです。
●13節.夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
●14節.この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
うずらは、臆病な性格で飼い主さんに懐いてくれる可愛い鳥ですが、「宿営を覆」うほど飛んできたということですから、手でつかむことができたのでしょう。
そのため、イスラエルは肉を食べることができました。
また、朝には「宿営の周りに露が降りた。」とありますが、それは14節で、「蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。」とあります。
●15節.イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
イスラエルの民は、飛んできたうずらと朝露が蒸発いた後に残る「地表を覆って薄くて壊れやすいもの」を見て「これは一体何だろうと」と驚きます。
民はそれらを神様からの贈り物、すなわち、マナと名付けます。
こうして、イスラエルの民は、神様からのマナを食べる四十年間が始まります。
●16節.主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
1オメルは2.3リットルだそうです。
すべての人が「それぞれ必要な分、一人当たり一オメルを集めよ。・・天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』と主は言われています。
ですから、すべての人が平等に同じ量のパンを集めることになります。
もちろん、各人が自分の分、自分の家族の分だけ集めるのです。
●17節.イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
●18節.しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。
17節を読むと、彼らは、だいたいの目分量でパンを集めたのでしょう。
それで、「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。 」とあるのでしょう。
ところが不思議なことに、各人が目分量でパンを集めたのですが、「オメル升で量ってみると、」、すべての人が1オメルずつ集めていたことになっているのです。
これは、各人は必要以上の分をとってはいけないということでしょう。
それで、「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、」と書いてあるのでしょう。
●19節.モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、
●20節.彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。
この主からのパンは、朝まで残しておいてはいけませんでした。
それは、主が日々の糧を供給してくださると約束しておられるからです。
ところが、彼らはモーセの言葉に従わないで、「何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。」のです。
その何人かは、翌日もマナが供給されることを信じていなかったというか人間的に不安であったのでしょう。
ところが、そのマナは翌朝には「虫が付いて臭く」なっていたのです。そう、腐っていたのです。
●21節.そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。
主からのマナは朝毎にその日に必要な分、すなわち、1人に1オメルを集めるのです。
余分に集めても、翌朝には「虫が付いて臭く」なります。
●22節.六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。
●23節.モーセは彼らに言った。
「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
ただし、「6日目は安息日の分まで2日分を集める」とありますから、この場合は翌日に持ち越すことを主は認めておられるのです。
民がモーセのそのことを確認すると、モーセは、「主が仰せられたことである。」とし、「焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」と指示しています。
●24節.彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。
週に一回、6日目だけパンを保存することができた、というか、保存しなければなりませんでした。それは、その翌日は主の安息日だからであります。
安息日には、仕事から離れて主を礼拝しなければなりませんので、パンを集める必要はありませんし、パンも降ってきません。(25節)
「余った分は明日の朝まで蓄えて」とありますから、焼いたり煮たりしなかったパンも腐らなかったのです。
●25節.モーセは言った。
「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。
●26節.あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」
●27節.七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
●28節.主はモーセに言われた。
「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。
●29節.よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」
●30節.民はこうして、七日目に休んだ。
モーセが「今日は何も野に見つからないであろう。」と言われた主の安息日である七日目に「民のうちの何人かが集めに出て行った」とありますから、民のうち何人かはモーセの言葉を信じなかったのです。
それを見て主は、「いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。」とモーセに問い、改めて命じられています。
そのために主は六日目には二倍のパンを集めるようにと言われています。
それは、七日目が主の聖なる安息日だからマナは降りません。
だから、六日目のマナを七日目まで保存しておくことができたのです。
これらのことがあって、民は「七日目に休んだ。」ですから、民は主の安息日を守るようになったのです。
●31節.イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
「ウェファース」は、アイスクリームと共にだされるウエハースのことなのでしょう。甘くておいしそうです。
●32節.モーセは言った。
「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」
主は荒野を歩むとき一人当たり1オメル(2.3リットル)のマナを朝毎にとって持ち越してはいけないと言われました。事実、蓄えていくと二日目には腐っていました。
ここでは、その正味一オメルのマナを「代々にわたって蓄えよ。」と言われています。
主は、マナを二日分腐らずに保存できるようにしてくださる、それは「あなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。」とされています。
「彼ら」というのは、約束の地カナンイ住む子孫のことでしょう。
つまり、イスラエルが約束の地カナンに住んでからも腐らずに残るようにされ、子孫がマナを見ることができるようにするためなのです。
それは、子孫がイスラエルの民の荒野での主の恵みを忘れないようにするためなのでしょう。
●33節.モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、
●34節.アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
「掟の箱」は、幕屋の至聖所にある契約の箱のことでしょう。
その前に1オメル(2.3リットル)、一日分のマナを壺に入れて置き蓄えなさいと言われているのです。もちろん、腐らないように主が保存してくださるのです。
このようなことを命じられたのは、やはり、荒野です主の働きを思い出させるためでしょう。
●35節.イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
●36節.一オメルは十分の一エファである。
イスラエルの民の荒野の旅は40年でした。
その間主は約束の地カナンの地の境にくるまで休むことなく彼らにマナを与え続けられました。
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