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2024年11月26日 (火)

岩からほとばしる水・アマレクとの戦い(17章)

<岩からほとばしる水>
聖書の箇所は、出エジプト記17章1節から7節です。
●1節.主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。

 

主の命令により、イスラエルの民全員は水を求めてシンの荒野を出発し、レフィディムに宿営しましたが、そこには水はありませんでした。

 

●2節.民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。
「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」

 

 

 

主の命令で水を求めてレフィディムに来たのですが、民はモーセに「我々に飲み水を与えよ」と詰め寄ります。
モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」と言っていますから、モーセの言葉が本当で、主が共におられるならば、主は我々を助けてくれるはず、早く主にお願いしてくれ、ということでしょうか。

 

その意味は、7節の「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」ということでしょう。モーセにとっては、なぜ主を信頼できないのかということでしょう。

 

●3節.しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
●4節.モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、

 

民の主を試す言葉は、単なる不服ではなく、モーセを殺そうと威嚇さえしています。
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。」と尋ねます。

 

●5節.主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。

 

主は、モーセの問いに「イスラエルの長老数名を伴い、(ナイル川を打った杖をもって)民の前を進め。」と言われています。

 

●6節.見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

 

モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
モーセは杖をもってホレブの岩に来たところで主はモーセにその杖で「その岩を打て。」と言われたので、岩を打つと水が出たのです。

 

●7節.彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

 

モーセはその場所を、「マサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。」のです。
詩編105の41には、「主が岩を開かれると、水がほとばしり大河となって、乾いた血を流れた」とあります。

 

なお、この40年後のツィンの荒野でも、イスラエルの民は主を試みていますから(民数記20章2節から13節、27章14節)、やはり、イスラエルの民が40年も荒野を放浪したのは、そういう神に対する信仰に問題があったのでしょう。

 

ということは、結果的に第一世代の者たちは約束の地カナンに入ることはできなかったのはそれが原因なのでしょう。しかし、40年もの間不信仰のままでよく荒野の苦難の旅が続けられたものです。

 

<アマレクとの戦い>
聖書の箇所は、出エジプト記17章8節から16節です。
●8節.アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、

 

イスラエルの共同体が、水を求めてレフィディムに宿営したとき、アマレク人がイスラエルの民に戦いを仕掛けて来ました。

 

●9節.モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」

 

モーセはヨシュアに、アマレク人との戦いに備えるよう命じます。

 

●10節.ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。
●11節.モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。

 

ヨシュアはアマレク人とたたかっていますが、モーセは、「神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」のです。
それで、「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」とあります。
主が共に働かれています。

 

●12節.モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。

 

モーセは、手を挙げたままにしておきたいのですが、手が重くなりますので、何と、「アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置」き、モーセをそこに座らせて自分たちはモーセの両側に立って手を支えたのです。

 

「その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」とあります。

 

●13節.ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。

 

それでついにイスラエルはアマレクを打ち破りました。
不思議ですが、主は人間のために働かれるときは、ご自分が一方的に働かれるのではなく、何らかの人間側の働きも必ず求められます。

 

み言葉の伝道にしても、言葉を伝えるのは人間の仕事で、み言葉に働かれるのは御霊ということです。神と人間の共同作業です。
わたしたちが主にお願いしても、私たちが何もしなければ何事も進みません。主は、なまけて寝ている人間は放置されます。

 

●14節.主はモーセに言われた。
「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」

 

主は、アマレクの記憶を「天の下から完全にぬぐい去る」と言われています。
そして、この事をモーセに「文書に書き記して記念」とせよと命じられます。

 

アマレク人は、イスラエルにとって脅威の存在で、常にイスラエルの敵であったそうです。アマレクの記憶が消し去られるのはそれが理由なのでしょう。

 

●15節.モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて、
●16節.言った。
「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」

 

「主はわが旗」は軍旗です。主が共に戦ってくださることでもたらされる勝利の旗です。

 

なお、アマレク人はエサウ(イサクの子、ヤコブと双子の兄弟)の子孫で死海の南からシナイ山の北部の比較的広範囲にわたって住んでいた遊牧民ですが、後にはカナンにも定住しています。

 

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