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2024年11月 1日 (金)

海の歌、マラの苦い水(15章)

<海の歌>
聖書の箇所は、出エジプト記15章1節から21節です。
●1節.モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
●2節.主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
●3節.主こそいくさびと、その名は主。

 

主の救いの御業、エジプト軍とたたかわれる主の御業を自分の目で確認したイスラエルの民は、主を「わたしの力、わたしの歌、主はわたしの救い」とたたえて、主を「主こそいくさびと、」とし、「わたしの神、わたしの父の神、」とあがめます。

 

 

モーセとイスラエルの民は、ここで主がどのような方であるかを歌っています。
つまり彼らは、神を体験、つまり、神を知ったのです。

 

その結果、父祖の神として認識していた方を、「わが神」として認識するようになったのでしょう。

 

●4節.主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込みえり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
●5節.深淵が彼らを覆い彼らは深い底に石のように沈んだ。
●6節.主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
●7節.あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。
●8節.憤りの風によって、水はせき止められ流れはあたかも壁のように立ち上がり
大水は海の中で固まった。

 

4節以降で主によってエジプト軍が海におぼれて滅びるさまを歌います。
イスラエルの民が紅海を渡り終えると、エジプト軍の「戦車と軍勢を海に投げ込み」ですから、分けられた水が元に戻り水深は相当深くなっていたのでしょう。

 

●9節.敵は言った。「彼らの後を追い捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」
●10節.あなたが息を吹きかけると海は彼らを覆い彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
●11節.主よ、神々の中にあなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き
ほむべき御業によって畏れられくすしき御業を行う方があるでしょうか。
●12.あなたが右の手を伸べられると大地は彼らを呑み込んだ。

 

エジプト軍は、イスラエルの後を追うのですが、イスラエルの民の持ち物を「ほしいままに奪い取ろう」と言っています。
エジプト軍が、海がわけられて陸地となっているところをイスラエルの民を追いかけて渡りますが、イスラエルの民が渡り終ると、そこで主が「息を吹きかけると」、分けられた水が元に戻り、エジプト軍はその水の中に 「鉛のように沈んだ。」のです。

 

「神々」というのは、他国の神ですから、主なる神と他の神々と言われているものを比較して、「あなたのような方が誰かあるでしょうか。」、すなわち、主なる神がはるかに優っているとうたっているのでしょう。

 

しかし、紅海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が渡ったのです。信じられない事態が起こったのです。

 

●13節.あなたは慈しみをもって贖われた民を導き御力をもって聖なる住まいに伴われた。
「聖なる住まい」とは、約束の地、カナンのことでしょう。
●14.諸国の民はこれを聞いて震え苦しみがペリシテの住民をとらえた。
●15節.そのときエドムの首長はおののきモアブの力ある者たちはわななきにとらえられ
カナンの住民はすべて気を失った。
●16節.恐怖とおののきが彼らを襲い御腕の力の前に石のように黙した
主よ、あなたの民が通り過ぎあなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。

 

紅海にイスラエルの民を追いかけてきたエジプト人が沈み込んだ話は、すぐに地域の住民に広まったことでしょう。

 

海を渡り終ったイスラエルの民は、約束の地カナンに向かって進むのですが、14節から16節には、それを聞いた諸国の民は、歩むイスラエルの民を見て、自分たちも滅ぼされると思い、「恐怖とおののきが彼らを」襲ったのです。

 

主の「御腕の力の前に石のように黙した」とも表現されています。

 

●17節.あなたは彼らを導き嗣業の山に植えられる。
主よ、それはあなたの住まいとして自ら造られた所主よ、御手によって建てられた聖所です。

 

「嗣業の山」とは、エルサレムのことでしょう。そこに神殿も建てられるのです。
主は、イスラエルの民が紅海を通過するのを見守り、「嗣業の山」イスラエルに導かれ、そこに神殿を建てると約束されているのです。

 

●18節.主は代々限りなく統べ治められる。

 

18節は、永遠の御国を指すのでしょう。
主は、カナンの地にイスラエルを導かれたあと、エルサレムの神殿に住まわれ、そこから地上世界を永遠に統べ治められます。

 

これをヨハネの黙示録から読み解くと、今のイスラエルという国は1948年に建国されましたが、まだ、キリスト者は少なく御国としては未完成です。

 

この御国は、終わりの日のイエス・キリストの再臨によって完成します。
そして、エルサレムに神殿が建てられ、イエスはその神殿から世界を治められる、ということでしょう。

 

●19節.ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。
●20節.アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。

 

19節は、「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に」歌い踊った歌の歌詞ですが、イスラエルの民の出エジプトにおいて重要な役割を果たしたのはモーセとアロンですが、ミカ書6章4節を見ると、アロンの姉である女預言者ミリアムもまた指導的な役割を果たしていたと思われます。

 

ミリアムは、主によってエジプト軍の馬や戦車、騎兵が紅海に沈むのを見て、歩きながら、この歌を踊り歌ったのでしょう。
なお、ミリアムは、このとき90歳を越えたおばあさんでしたが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえたのではということです。

 

しかしミリアムは、「アロンの姉、女預言者ミリアム」とあります。
なぜ「モーセの姉」ではなく、「アロンの姉」と書かれているのでしょうか。

 

それはおそらくモーセは小さいころからエジプトの王家で育ちましたから、エジプトの民の中ではあまり知られてなくて、弟アロンの方が民に知られていたからではないかと思います。

 

●21節.ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。
主に向かって歌え。
主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。
ミリアムの歌が続きます。

 

「音頭を取って」ですから、この歌はミリアムが音頭を取ったコーラスになっていたのでしょう。
しかし、このお祭り騒ぎも三日しかつづきませんでした。
荒野を歩むイスラエルの民に厳しい現実が待っています。

 

<マラの苦い水>
聖書の箇所は、15章22節から27節です。
シナイ半島(荒野)での最初の出来事は、エジプト軍に追われて紅海に突き当り、絶体絶命に追い込まれたとき、神はその紅海を分けて、イスラエルの民を渡り通らせたことです。

 

イスラエルの民を追ってきたエジプト軍は、イスラエルの民が渡り終えたとき、隔てていた水の壁が崩れておぼれて全滅しました。
その喜び、神への賛美も、その3日後に起こった水が苦くて飲めないという出来事で終ります。主の最初の試みです。

 

●22節.モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。

 

イスラエルの民は、エジプト軍の追跡を逃れ、紅海(葦の海)を渡りシナイ半島の砂漠(荒野)を通り約束の地カナンの地に向かって旅立ちます。

 

民はこれからその荒野を40年間さ迷うのですが、「荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。」とあるようにお祭り騒ぎも三日でおわります。

 

探していたオアシスも見つからず現実に引き戻されます。
荒野を歩む現実は、灼熱で、草一つ生えていない砂漠です。

 

体力のある男性もいますが、女子供と老人もともに歩いています。
もちろん、砂漠ですから手持ちの水もつきます。

 

●23節.マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
●24節.民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。

 

探してやっとありつけた水も苦くて飲むこともできませんでした。
イスラエルの民はモーセに対し、「何を飲んだらよいのか」と詰め寄ります。

 

文句が出るのも無理からぬことです。

 

●25節.モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。

 

その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、
さっそくモーセは主に向かって民の不満を叫びます。

 

しかし、一本の木を水に投げ入れれば水は甘くなると言われても普通は信じられませんが、モーセは、主の言葉を信じてそのようにしたのです。

 

●26節.言われた。
「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

 

このようにイスラルの民は不平不満をモーセにつぶやいていますが、確かに、砂漠を歩むときは水は命です。
その水が苦くて飲めなければ命にかかわります。

 

それで主は、モーセの祈りを聞かれ、マラの水を甘くされました。
そこでよく考えると、主が彼らをエジプトから救い出されたということは、民に対して主が全責任をもっているということです。

 

そのようにかんがえると、主がこのまま民を捨て置かれるはずがないのに、イスラエルの民は出エジプトというすごい救いの体験をしたにも関わらず、水が苦いということだけで、神に対して、また指導者のモーセに対してつぶやくという不信仰を明らかにしたことになります。

 

それに、マラの水が苦かったのは、実は、彼らに対する主の信仰のテスト、神を信じるかどうかの試みだったのではないでしょうか。

 

ところで、このあと40年間も荒野をさまようのですが、その理由を考えてみますと、神の約束を信じられない民、という不信仰という理由が一つと、もうひとつは、次の世代に神を信じて従うということを新たに学ばせるためであったのではないでしょうか。

 

40年もたてば、出エジプト時の第一世代ではなく、その世代が死に絶えた後の次の世代の者たちの世代です。
そのときに主は新たな指導者ヨシュアを与えて約束の地へと導かれたのです。

 

●27節.彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。

 

イスラエルの民は、砂漠のオアシスに到着しました。
彼らはマラで苦い水という体験をしましたが、エリムまで来て恵みの水にありつけました。

 

人間が生きていく上での最も必要なものは、著名人によると、「生存の保障」で、それは、「生存の欲求」、第二は「安全の欲求」、第三は社会的欲求、第四は(自分を認めてもらいたいという)自我の欲求、そして最後の第五は「自己実現の欲求」だということです。

 

イスラエルの民は、最初の、「生存の欲求」、第二は「安全の欲求」が脅かされていたのです。

 

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