葦の海の奇跡(14章)
聖書の箇所は、14章1節から31節です。
●1節.主はモーセに仰せになった。
●2節.「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。
イスラエルの民は、スコテを旅立って、エタムに宿営しました(13章20節)。
エタムは荒野の一部で端に位置します。その先は荒野(シナイ半島)です。
その「エタム」に宿営していた時に主がモーセに「引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」と告げられたのです。なお、この海は「紅海」のことでしょう。
「引き返して」というのは、13章20節に「荒れ野の端のエタムに宿営した。」とありますから、せっかくエタムに宿営したのに主はそこから引き返せと言われるのです。
引き返して「ミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営」するように命じられたのです。
「バアル・ツェフォンの前に、それに面し」とありますから、そこは海に面していたのでしょう。
こうして、イスラエルの民は、エジプトを出て、約束の地カナンに向かって旅立つのですが、折角、エジプトから出て来て、「さあ、これからだ」と言う時に、主は「引き返して」というのです。
それは、エジプトの王ファラオをおびき出すためでした。14章3節、4節を読めば分かります。
そこは、海と山に囲まれて、道は狭く行き止まりのようなところであったので、そのイスラエルの民の行動をファラオは見て、「イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。」と主は言っておられます。
●3節.するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。
●4節.わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。
主はファラオにイスラエルの民が道に迷ったと思わせ、イスラエルの民の後を追わせるのですが、主はその追ってくる「ファラオとその全軍を破って栄光を現す」と言われます。
このように主は、イスラエルの民に今来た道を引き返せと命じたことの真意をモーセに告げられました。
そう、主がモーセに彼らを、「引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。」(2節)と言われたのは、ファラオがイスラエルを追ってくるようにするためだったのです。
そして、主は「ファラオとその全軍を破って栄光を現す」と言われています。
主は、イスラエルをおとりにして、エジプト軍全軍を連れだし、私が滅ぼすと言われたのです。
主の目的は、「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」です。
主がどのようにしてエジプト軍に栄光をあらわしたかですが、一つは雲の柱で、19節と20節を読むと「彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。」です。
もう一つは、21節と22節で「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。」です。
水が分かれて陸地になったところをイスラエルの人々が渡り終わったあとに、エジプト軍が追いかけるように海の中に入って行きましたが、全軍が海の中に入ったとき、モーセが再び手を海の上に差し伸べたとき、海が元の状態に戻りました。
それで、エジプトの全軍勢は「一人も残らなかった」とあります。
●5節.民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」
元に戻って、ファラオがイスラエルの民が逃亡したと報告を受けます。
ファラオは自分がイスラエルの民を去らせたのに、再びかたくなになり、民は道に迷って行き詰まり困っていると見るや考えを変えました。
●6節.ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、
●7節.えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。
●8節.主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、
●9節.エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。
それでファラオは、さっそく、「戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、・・意気揚々と出ていくイスラエルの民の後を追い、・・バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。」のです。
イスラエルの民は、前は海、横は山々、そうした状況に追い込まれたとき、「荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです。」(14章12節)とモーセに叫んでいたのです。
そのようなときに、思いがけない神の導きがあり、イスラエルの荒野の旅は始まります。
●10節.ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、
ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵が背後に、間近に迫ってくるのを見てイスラエルの民は恐れたでしょう。
エジプトを出て北上するならペリシテ人が待ち構えているし、南下すると海に阻まれ、引き返すならファラオの戦車隊がいます。
まさに身動きが取れなくなったイスラエルの民は非常に恐れて「主に向かって叫んだ」とありますが、11節と12節を読むとモーセにもかみついています。
●11節.また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
●12節.我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
「エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。」と10節にありますが、そのような状態でイスラエルの民は非常に恐れて主向かって叫んだのです。
それでモーセに言ったのです。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。・・ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」といったのです。
この主に向かっての叫びは、主に助けを求めているのではなく、主への不信仰からくる不満なのでしょう。
本心は、そのあとのモーセに対する非難でしょう。
しかし、彼らのモーセに対する非難が、「エジプトに墓がないから」ですから、イスラエル人は多いためエジプトではどれだけ墓があっても足りないので荒野に連れてきたのか、ということでした。
つまり、荒野で死ねば、埋葬の心配はいらないので、そのためかということでしょう。
そのあとに「荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がまし」というには、主の導きにゆだねて出エジプトよりも奴隷でもよいからエジプトで安全に暮らす方がよいと言っているのでしょう。
●13節.モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
モーセは、エジプト軍に追い詰められたことの恐怖から出た民の非難と叫びに対し、答えます。
「恐れてはならない。・・主の救いを見なさい。・・もう二度と、永久に彼らを見ることはない。」です。
●14節.主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
さらにモーセはイスラエルの民に、「主があなたたちのために戦われるから・・静かにしていなさい」です。
●15節.主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
モーセは主に叫んでいたのです。まさか不信仰から出た叫びではないでしょう。
おそらくモーセは、叫ぶようにして祈っていたのでしょう。
そのモーセに対する主の答えは、「イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」です。
しかし、背後から敵が迫ってくるこのような状態で出発と言われても・・・。
前進、つまり、前に進みたくても前は海です。
そのような状態で出発ですから、民も困惑したことでしょう。
●16節.杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
戦車隊が背後に迫ってきました。前は海です。
しかし主は出発せよと言われる。(15節)
イスラエルの民は敵の剣で死ぬか、海でおぼれ死ぬか、または、主を信じて前に進むかのどれを選ぶように迫られました。
●17節.しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
主は後ろから迫ってくるエジプト軍は「エジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。」ので、「ファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。」言われます。
●18節.わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
●19節.イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
主が、「ファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現す」と言われます。
それは、雲の柱は、昼は前に立ち民の移動を導いてきましたが、いま、その雲の柱を民の後ろ(エジプト軍の民の間)に立ち民を守ると言われているのです。
●20節.エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
真っ黒な雲の柱が「エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。」ので、両軍は一晩中たがいに近づくことができなかったとあります。
真っ黒な雲の柱であったので、前が見えなくなり、進行方向もわからなくなり右往左往するだけであったのでしょう。
●21節.モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
主は働かれるが、そのために人間は何もしないのではなく、人間も一応の役目を仰せつかります。
それが、「モーセが手を海に向かって差し伸べる」でしょう。
それで、主は「激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。」のです。
しかし、このような奇跡が本当にあったのでしょうか。信じられません。
聖書はあったと言っているのです。
この奇跡も事実でしょうが、この時から約1500年後のキリストの死者からの復活の奇跡が起こります。
奇跡は、科学的に実証できないから奇跡ですから、信じるしかありません。
●22.イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
●23節.エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
イスラエル人は、主がわけられ陸地が見えた海の水の間を進み海を渡ります。
エジプト軍は、イスラエルの民の後を追い、海に入ってきたのですが・・・。
●24節.朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
エジプト軍は、イスラエルの民を追いかけて海に入って行きましたが、主はその様子をしっかりとご覧になっていました。
そして主は、「エジプト軍をかき乱された。」とありますが、それは次節です。
●25節.戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
主がエジプト軍の進行をかき乱された方法は、「戦車の車輪をはずし、進みにくくされ」たのです。
エジプト軍は戦車の車輪がはずれて前に進めなくなり、「主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」から退却しょうと言っています。
●26節.主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
●27節.モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。
主はモーセに、左右に分かれえた海に「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」と言われます。
エジプト軍は、左右に分かれた海を渡るイスラエルの民の後を追って同じように海を渡ろうとしますが、「モーセが手を海に向かって差し伸べると、」海は「海は元の場所へ流れ返った。」のです。
それで、エジプト軍は海の中に投げ込まれることになります。
●28節.水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。
「水は元に戻り」エジプト軍全軍は海に沈み「一人も残らなかった。」ですから、ファラオも含めて死んでしまったのです。
●29節.イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。
●30節.主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
イスラエルの民は、海の水が左右に分かれたので、それによってできた乾いた陸地を渡ります。
イスラエルの民は、海を渡り終わって振り返ると、後を追ってきたファラオを含めエジプト軍全員が元に戻った海の中で死んでいるのを目撃します。
●31節.イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
この主の御業を目にしてイスラエルの民は、主を信じ、主の言葉を語るモーセを信じたのです。
イスラエルの民は目の前で主の御業を目撃して主を信じたのですが、今を生きる者は、主の言葉聖書の言葉を信じで主を信じなさいと言われているのです。
もちろん、そこには主の言葉に働きかけられる御霊の働きがあるのです。
主を信じる信仰も賜物であって御霊の働きの結果なのです。
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