あぶの災い、疫病の災い(8章・9章)
<あぶの災い>
聖書箇所は、出エジプト記8章16節から28節です。
●16節.主はモーセに言われた。「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。
●17節.もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。
●18節.しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。
このあぶの災いは、「ゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。」と言われていますので、そのとおりになれば、あぶの災いは主によるものと明確になります。
●19節.わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる』と。」
ファラオは、ナイル川の恵みに感謝するために、毎日早朝、ナイル川の水辺におりてきて礼拝します。
主はモーセらに対し水辺におりてきたファラオに、「もしあなたがわたしの民を去らせないならば、・・見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。」告げるようにいいます。
●20節.主がそのとおり行われたので、あぶの大群がファラオの王宮や家臣の家に入り、エジプトの全土に及んだ。国はあぶのゆえに荒れ果てた。
ファラオは、モーセらが告知したにもかかわらず、イスラエルの民をさらせなかったので、主は、今度はあぶの災いをもたらせます。
「あぶの大群がファラオの王宮や家臣の家に入り、エジプトの全土に及んだ。」ので、「国はあぶのゆえに荒れ果てた。」のです。
このあぶですが、「サシバエ」という蝿の一種と言われていて、家畜や人体を刺して痛いそうです。
このような蠅がエジプト全土に満ちるというのですが、これまでと違う点は、イスラエルの民がとどまっていたゴシェンの地にはいないようにするということです。
●21節.ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と言うと、
とうとうファラオは、モーセらと妥協を考えたのでしょうか。エジプトの国の中で主に犠牲をささげることを認めます。
●22節.モーセは答えた。「そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲は、エジプト人のいとうものです。もし、彼らの前でエジプト人のいとうものをささげれば、我々を石で打ち殺すのではありませんか。
エジプト人は牛を神聖なものと考えていたので、ほふったりすれば一大事になります。
そのことを知りながら、ファラオは、「この国の中で犠牲をささげるがよい」といったのです。モーセらが、国民の殺されるのを願っての言葉でしょう。
だから、エジプトから出て、いけにえをささげなければいけない、とモーセは言ったのでしょう。
●23節.我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」
モーセらは、ファラオの申し出を拒否します。理由は、下記の二つです。
主に犠牲をささげることは、イスラエルの神を忌み嫌っているエジプトの民によって自分たちは打ち殺されること、また、主の命令は、主に犠牲をささげるところは、「三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」の二つです。
●24節.ファラオが、「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」と言うと、
今度は、荒れ野で主に犠牲をささげるのを認めますが、「あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」と言っています。
●25節.モーセは答えた。「では、あなたのもとから退出しましたら、早速主に祈願しましょう。明日になれば、あぶはファラオとその家臣と民の間から飛び去るでしょう。ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください。」
ファラオの再度の願いにモーセは「二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください。」と念を押しています。
でも、やっぱりエジプト王は欺きます。
●26節.モーセはファラオのもとから退出すると、主に祈願した。
●27節.主はモーセの願いどおりにされ、あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。
モーセは、ファラオと約束した通り、主に対し「あぶはファラオとその家臣と民の間から飛び去る」ように祈ります。
その願いは聞かれ、「あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。」のです。
●28節.しかし、ファラオは今度もまた心を頑迷にして民を去らせなかった。
モーセとの約束にも関わらずファラオは、今度もかたくなになりイスラエルの民をエジプトから去らせませんでした。
ファラオは、何としてでもイスラエルの民をエジプトから去らせたくないというのもありますが、やはり、主がファラオの心をご自分の計画のためにかたくなにされているのが原因でしょう。
<疫病の災い>
聖書箇所は、出エジプト記9章1節から7節です。
●1節.主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。
●2節.もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、
●3節.見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる。
●4節.しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。
五番目の災いは、「家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊」が疾病にかかることです。
それも、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別して、「イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。」と言われます。
なお、エジプト人は当時、家畜を神々として拝んでいたそうです。
愛の神「ハサー」は、雌牛で、牛の頭をもった女です。「ムネビス」も牛で、太陽神「レイ」と関わりを持っていました。
ということは、主はエジプトの神々に対して災いをもたらされるということです。
●5節.主はまた時を定め、明日、この地でこの事を行われる。」
●6節.翌日、主はこの事を行われたので、エジプト人の家畜はすべて死んだが、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。
主は、エジプト人の家畜を疾病にかからせると宣言され、5節では、それを明日だと宣言されます。
その翌日、主が言われた通り「エジプト人の家畜はすべて死んだ」のです。
もちろん、イスラエルの民の家畜は死にませんでした。
●7節.ファラオが人を遣わして見させたところ、イスラエルの家畜は一頭といえども死んではいなかった。それでも、ファラオの心は頑迷になり民を去らせなかった。
ファラオは、イスラエルの神、主が言われたことが気にかかっていたようです。
イスラエルの地に使いを送って、主が言われたこと、イスラエルの民の家畜はどのようになっているか確かめさせています。
それでも「ファラオの心は頑迷になり民を去らせなかった。」のです。
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