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« ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する(創世記48章) | トップページ | ヤコブの死(創世記49章) »

2024年7月24日 (水)

ヤコブの祝福(創世記49章)

聖書の箇所は、創世記49章1節から28節です。
先にヨセフの二人の息子を養子として祝福したヤコブは、ここでは十二人の息子たちを呼び寄せて祝福しています。

 

ヤコブの祝福の特徴ですが、一つは、十二人の息子たちについて託宣(神の言葉を述べる)すると同時に彼らから誕生するイスラエルの十二部族(28節)の将来を預言しています。

 

その内容は1節にあるように「後の日」(終わりの日)に起こることです。
二つ目は、託宣の内容は、祝福だけではないということです。

 

7節には、「呪われよ」が、シメオンやレビの兄弟については使われています。
三つ目は、祝福は均等ではないし誕生順でもありません。

 

 

●1節.ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。
●2節.ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。

 

ヤコブは、息子たち全員を枕元に集めました。
そして、これから「後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。」と告知します。

 

「後の日に起こること」ですから、ヤコブの遺言であり、神の預言です。
「ヤコブの息子たちよ・・お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。」ですから父としてのヤコブは、イスラエルとして権威をもって預言するのです。

 

なお、この「後の日」は、新改訳によれば「終わりの日」としています。
ヤコブがこれから語ろうとすることは終わりの日のことです。

 

すなわち、12人の子供達によるイスラエル12部族の誕生から始まって、後のイスラエルの将来、そして、終わりの日のイスラエルの祝福を預言します。

 

28節でヤコブは彼らからイスラエルの12部族が誕生することを預言していますから、同時にその12部族の将来を預言することになります。

 

●3節.ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。

 

ルベンは、長子で「わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。」と表現しています。
聖書では、長子に跡継ぎの権利が与えられていますが、「権利」には「責任」も同居しています。

 

中には、長子であるプレッシャーに悲鳴を上げる子供もいるでしょう。
しかし、権利に責任が伴う分、大きな「祝福」も約束されています。
そして、それを与えたのは、親を超えた全能の神御自身です。

 

●4節.お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。

 

ルベンは、父の後を継ぐべく家督権を与えられた長男でした。
父ヤコブ(イスラエル)の権威を引き継ぐのですから、イスラエルに対する神の約束の言葉を引き継ぐ立場にあるわけです。

 

「わたしの寝台に上り/それを汚した。」は、35章22節のことを言っているのでしょう。
それは、「水のように奔放」ですから、一時の情欲に負けたのか、父が留守の時に父の側めビルハと関係を持ったことを指しているのでしょう。

 

その結果として「長子の誉れを失う」とヤコブはルペンに預言します。
ルペンがそのようなことをしたのは、単に一時的な情欲に負けたのか、それとも父ヤコブを憎むべき何かがあって屈辱を与えようとしたのかもしれません。

 

このようにして長子の権利は、腹違いの弟ヨセフのものになりました。
それで公式の系図には、ルベンが長男として記されていないということです。

 

歴代誌には、ルベン族・ガド族・マナセの半部族はワンセットとして記されています。この三つの部族はやがてアッシリアによって捕え移されてしまい、その消息は今日においても依然と不明のままだということです。

 

なお、「水のように奔放 」ですが、ルペンは、一時的な情欲に負けたこともあるでしょうが、大切なときに決断力がないことがわかります。
例えば、長男なのにヨセフが兄弟たちによってエジプトに奴隷として売られたときに、それを止めることが出来ませんでした。

 

また、ベニヤミンをエジプトに連れて行こうとするときも父ヤコブを説得する事が出来ませんでした。
つまり、ルペンは、長男であっても決断力がなく、責任感もない奔放な性格であったのでしょう。

 

歴代誌上5章1節には「ベンは長男であったが、父の寝床を汚したので。長子の権利を同じイスラエルの子ヨセフの子孫に譲らなければならなかった。」とあります。

 

●5節.シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。

 

5節は、34章2節に記されている、ヤコブの娘ディナが土地の娘たちに会いに行ったときにヒビ人ハモルの息子シケムに辱められた事件です。

 

彼女の二人の兄シメオンとレビは、妹の受けた辱めに対する復讐で、シケムの男たちを殺し略奪しました(34章25節・26節)。
5節から7節は、カナンの地の相続において実現しました。

 

7節に「わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。」とある通りです。
シメオンの相続地は、ユダ族の相続地にあり(ヨシュア19:1)、レビには相続地はありませんでした。

 

それは、二人は似た者兄弟で、「剣は暴力の道具」ですから、彼らは忍耐できない短気な性質を持っていたのでしょう。
激しい怒りは、繁栄を失います。
こうして、ヤコブは、神の二人の兄弟に対する裁きを預言しました。

 

●6節.わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。

 

ヤコブは続けます。
「わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。」です。

 

「彼らの謀議に加わるな。」「彼らの仲間に連なるな。」とするとても強い警告です。
この彼らは、シメオンとレビを指しますから、二人の行為は神を非常に悲しませたのです。

 

後に、シメオンの子孫はユダ族の南に接する地を領地としますが、部族としては、ほとんど聖書に登場してきません。
一方、レビ族は、この強い警告にもかかわらずモーセやアロンが出てきて、彼らは祭司の部族として、12部族の中で大事な役目を果たします。

 

二つの部族の違いはどこにあったのでしょうか。
解説では、レビ族は、ヤコブの預言の言葉を真剣に受け取り、深く悔い改めた。一方のシメオン族は、悔い改めず暴虐の仲間に連なったからだとしています。

 

●7節.呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。

 

彼らの母はレアで、名前の意味は、シメオンは「神が聞いてくださる」、レビは「親しみ・結びつき」です。
この命名は、神への信仰からでなく、夫のもう一人の妻・妹ラケルへの競争心からのものだとされています。

 

ヤコブの「呪われよ」という言葉は、彼らの人格でなく、彼らの罪(奔放な性格、怒り・憤り)を指しているのでしょう。

 

●8節.ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子たちはあなたを伏し拝む。

 

二つ目の預言は、メシヤの到来を預言します。8節から12節までです。
すなわち、ヤコブのユダに対する預言です。

 

ユダは、兄弟の中で責任ある行動をとりました。
ベニヤミンの代わりに自分が奴隷になろうとし、ヤコブがヨセフに会うときは、まずユダがゴシュンに送られました。

 

「敵の首を押さえ」ですが、首ですから首には頸椎(けいつい)があり、その頸椎には全ての神経が集中していますから人間にとって最も大切な個所です。

 

そこにダメージを受けると背骨と背筋の強さに致命的な結果をもたらします。
ユダの手は、その頸椎を押さえますので、敵の力の中心を抑えて敵を決定的な敗北に至らしめるということでしょう。

 

すなわち、ユダ族は、王なるキリストをもたらす部族となることを預言しているとします。
「父の子たちはあなたを伏し拝む。」は、この後ユダ族はイスラエル王国を構成する12支族の中心的な存在となります。

 

イスラエルの中心地エルサレムを相続し、ダビデなど歴代の王はユダ族から輩出されます。
そして、イエスが、ユダ族から出るという預言が語られます。(創49章10節・ミカ書5章2節参照)。

 

このようにヤコブの子たちの中でユダがイスラエルの子孫として用いられたのは、彼に罪がないのではなく、主に忠実で、最も悔い改めた人だったからでしょう。

 

なお、後にイスラエルは、ユダ族を含む2支族によって構成されるユダ王国と、10支族によって構成される北イスラエル王国に分裂します。

 

北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、民はアッシリアに捕囚となりますが、アッシリアは滅びましたが捕囚にあった民に行方はいまだにわかっていません。

 

こうして残ったユダ王国はやがてバビロニアによって滅ぼされ、北イスラエルと同じように民は捕囚、すなわち、バビロン捕囚となりますが、やがて民は捕囚から解放されイスラエルは再建(神殿も再建、第二神殿)されます。

 

●9節.ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。

 

「ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。」ですが、獅子は百獣の王と言われ、生まれながら獲物を倒す能力が備えられていてます。したがって、征服の象徴となっています。

 

その百獣の王も最初は弱い子獅子ですが、ユダ族も訓練を受け、獲物を倒すたびに強い獅子になって成長する姿をあらわしているのでしょう。

 

「雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。」は、百獣の王でも、最初からたてがみを立てたり、吼えたりして獲物に近づくのではありません。

 

最初は、地にうずくまり身を低くして近づきます。そして一気に襲いかかって獲物の咽に噛み付いて倒します。

 

●10節.王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

 

「王笏はユダから離れず」ですが、やがてイスラエルは滅び、民は世界中に離散するのですが、ユダ族から王族が出てきてダビデ王を生み、キリストにつながります。

 

「統治の杖」とは、すべてを支配する権威のことを意味し、黙示録には、メシヤ・イエスが、「自ら鉄の杖で彼らを治める。」(19章15節)とあります。

 

彼等とは、諸国の民ですから全人類です。

 

「ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」ですが、「シロ」とは、エレミヤ書26章6節によれば滅ぼされる象徴の町となっていますから、ツロのように破滅、荒廃があり、それから諸国の民がキリストに従うと言う事でしょう。

 

歴史的にみると、紀元70年にユダヤ戦争でイスラエルは敗戦、民は全世界に離散し国はなくなります。
イスラエル国は期限70年から1948年まで国はなく地は異邦人に支配されて、荒廃します。

 

イスラエル国家は1948年に建国されますが、やがて、キリストが来られてエルサレムのシオンの丘に降り立ち、その地から世界を支配されます。

 

諸国の民はこの方に従う日が来るのです。
もう少し、ツロについて調べると、シロは旧約聖書に登場するエフライム族〈北イスラエルの中心的な部族〉の相続地にある町の名で、エルサレムが建設される前はイスラエルの宗教的政治的な中心地であったようです。

 

テルの北北東およそ15kmにある、セイルンの遺跡がシロだとありました。
このように、シロとはもともと町名に過ぎませんでした。

 

それがなぜ救い主と関係するかと言いますと、「シロ」とは「安息」の意味で、いくさに疲れた男たちの休息の場であったそうです。
それがシロで、人間の名となると「平和をもたらす者」という意味になるそうです。

 

パトモス島のヨハネが、幻の内に再臨の主を見た時、彼を「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ(切り株、新しい芽」(ヨハネ黙示録5:5)と呼んでいます。

 

もちろん、「ダビデのひこばえ」は、救い主イエス・キリストであります。
その啓示を、このときヤコブは、幻の内に神から受けていたのでしょう。もちろん本人は、それがやがて来られるイエスキリストだとは想像もしなかったでしょう。

 

●11節.彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。

 

イスラエルは「ぶどうの木」に例えられています。(エレミヤ2章21節・ヨハネの福音書15章)。
「ろば」は、忠実な動物ですが、シロの日(救い主到来の日)にメシアを背に乗せてエルサレムに入る動物として描かれています(ヨハネの福音書12章14節・ゼカリヤ9章9節参照)。

 

ということで、イスラエルは「ぶどうの木」であり「ろば」でもあります。

 

「彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。」ですが、この「彼」は、救い主を指しますので、ヤコブのユダへの預言は、いよいよ救い主到来を預言します。

 

シロの日は、救い主到来の日ですが、同時に、血の匂いが立ち込める日でもあります。
事実、民衆に「ホサナ」の歓呼で「ろば」に乗ったイエスがエルサレムの住民に迎い入れられましたが、そのイエスは、数日後に不当な裁きで十字架刑に処されました。

 

その血は「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。・・彼が受けた傷によって、わたしたちは癒された。」(イザヤ53章5節)のです。

 

よって、シロの日は、罪が赦される喜びの日(来臨・十字架)であり、罪が裁かれる恐れの日(再臨・裁き)でもあるわけです。

 

●12節.彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

 

「彼」はイエスであり、「ぶどうの木」はイスラエルと記しましたが、そのぶどうの木からとられるぶどう酒は、罪を贖うための血を指すのでしょう。

 

イエスは、全人類救済の御計画を達成するためにこの世に来られ、そのイエスの働きの担い手となるぶどうの木であるイスラエルによってイエスは十字架で殺されてしまいます。

 

イスラエルというぶどうの木から作られるぶどう酒は、全人類救済の御計画を達成するため担い手であったのですが、真の神から離れ使い物にならなかったのです。

 

ルカの福音書19章41節に、シロの日が来て、ろばに乗って「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスは、その都のために泣いて、言われた。」「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし、今は、それがお前には見えない。」とあります。

 

イエスが濁ったぶどう酒であるイスラエルの中に来臨され十字架上で殺されて流される血、そのイエスの血は、全人類の罪をあがなうために流す贖いの血となったのです。

 

ということで、この箇所はキリスト再臨の預言と言えます。

 

なお、「歯は乳によって白くなる。」ですが、口の中の歯は食物を噛み砕き、舌は言葉を話しますが、舌は大言壮語し、多くの偽りを言うので、舌を制御できる人は一人もいません。(ヤコブ3章6節参照)、

 

反対に、歯は口を開ければ、それの良し悪しが一目瞭然です。

 

「歯は乳によって白くなる。」ですが、この表現は、人々が古代から歯の美しさを重視していたことを示していて、当時は、歯の美しさを保つためには、乳製品を摂取することが重要であるとされていたのでしょう。現代の歯科医学では、歯の色は乳製品の摂取量とは関係なく、食生活や遺伝子などの要因によって決まるとされています。

 

8節から12節はユダ族ですが、このようにユダ族からダビデへとつながり、ユダ族はイスラエルの中心的な存在になります。

 

●13節.ゼブルンは海辺に住む。そこは舟の出入りする港となり/その境はシドンに及ぶ。

 

今度は、ゼブルンです。
ゼブルンは、ヤコブの第10子で、レアの第6番目の子供です。その子孫がゼブンルン族です。

 

イスラエル十二部族の一つゼブルン族の領地は、アシェルの領地の内陸部に位置し海辺ではありませんが、彼らは内陸から海辺に出て、さらに北方の貿易港シドンにまで出て行ってより豊かな発展を求めたとされています。

 

ゼブルンは貿易の盛んなところであったのでしょう。(申命記33:18、19)

 

しかし、シドンはカナン定住後のイスラエルを偶像礼拝に誘い、堕落させる地となります(列王記上16章)。
それは、イスラエルが定住を求めてカナンの地に入るが、シドンは、その領域の北限(創世記49章13節)です。

 

イスラエルは、シドン人を駆逐できず他の偶像と共にシドンの神を崇めたと記載があります。イスラエルが堕落に陥る原因ともなったのでしょう。

 

●14節.イサカルは骨太のろば/二つの革袋の間に身を伏せる。

 

4つ目は、ヤコブ の第9子で、 レア がヤコブに産んだ5番目の子供で、12部族の一つイッサカル族の開祖です。
イッサカル族は、ガリラヤ湖の南西に相続地を得ます。

 

イスラエルは、カナン定住後は、ユダ族とエフライム族とマナセ族がイスラエルの中心部族となりますが、北方の敵が攻めて来る時は、イッサカルが決まって真っ先に攻め込まれることになります。

 

「骨太のろば/二つの革袋の間に身を伏せる。」ですが、危険地帯に住む人は、荒野でも生きるたくましい「骨太のろば」のようになる、すなわち、どっちが自分に最善かを探り「二つの鞍袋の間に伏す」とする「処世術」です。

 

●15節.彼にはその土地が快く/好ましい休息の場となった。彼はそこで背をかがめて荷を担い/苦役の奴隷に身を落とす。

 

彼(イッサカル族)は、「その土地が快く/好ましい休息の場となった。」とあります。

 

どちらか楽な方を選ぶ処世術にたけたものは、自分で自分を追い詰めないで、自分が疲れない程度に働き、相手の力を利用し、二つを天秤にかけて、労せずして良い方をとるのを旨としますので、信頼を得ることはできません。

 

イッサカルの相続地は、豊かな土地であったと言われていますが、アッシリアによって苦役を強いられていたようです。、
しかし、イスラエルは独立国家なのに、民が他国によって苦役を強いられることがあるのですね。

 

●16節.ダンは自分の民を裁く/イスラエルのほかの部族のように。
●17節.ダンは、道端の蛇/小道のほとりに潜む蝮。馬のかかとをかむと/乗り手はあおむけに落ちる。

 

5つ目は、ダン族です。
イスラエル12部族の一つであるダン族は、士師の時代には「そのころ、ダンの部族は住み着くための嗣業の地を探し求めていた。」(士師記18章1節と2節)とありますから、まだ相続地を得られず、土地を探っていたようです。

 

ダンは「自分の民を裁く」ですから、裁き司になるのでしょう。
ダンは士師記18章31節によれば、「神殿がシロにあった間、ずっと彼らはミカ(カナンの土着民族)の造った彫像を保っていた。」とありますから、偶像崇拝を続けていたようです。

 

それがここでは蛇として象徴されているのでしょう。
士師記17章・18章によれば、彼らは、カナンの地エフライム山地に住む土着民族ミカの家に着きます。

 

ミカは自分で神の像を造り、流れ者のレビ人の青年を祭司にしていました。

 

それを見たダン族は、ライシュを攻め取って定住の地とし、ダンと名づけます(士師記18章29節)。
そこにミカの家の像と、ミカの家に雇われて祭司をしていたレビ人を連れてきて宮を造り礼拝します。

 

●18節.主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。

 

ヤコブは改めて神に祈っています。

 

●19節.ガドは略奪者に襲われる。しかし彼は、彼らのかかとを襲う。

 

そして、ガド族です。
ガド族はヨルダン川の東に置かれた部族で、東からの略奪者の襲撃にいつもさらされていましたので、備えておかなければならなかったようです。

 

「彼らのかかとを襲う」とはその強さを表す言葉でしょう。

 

●20節.アシェルには豊かな食物があり/王の食卓に美味を供える。

 

アシェルの地は肥沃な地でした。
申命記には「アシェルのため彼は言った。アシェルは子らのうちで最も祝福される。兄弟に愛され、その足を油に浸す。」(33章24)とあります。

 

アシェル族は、イスラエル北部の海岸地方に住み、そこにはツロやフェニキアという貿易港が造られ、経済的に豊かな地域であったようです。
港には多くの外国人も出入りし、物質的に豊かな所は、多くの情報や人々が集まり、誘惑と危険が満ちる場になります。

 

事実、彼らに割り当てられた所は、ダビデの時代が終わると、シリアのフェニキアと呼ばれ、12部族の中で一番早く異邦人が支配する国となりました。

 

●21節.ナフタリは解き放たれた雌鹿/美しい子鹿を産む。

 

「ナフタリは・・美しい子鹿を産む。」ですが、終わりの日の千年王国でナフタリ族は、「美しい子鹿を産む」ですから、彼らは、解放された喜びの歌を歌うのです。

 

ナフタリ族の相続地は、アシェル族の東に位置して、ガリラヤ湖の西岸、ヨルダン川までである。南はイッサカルとゼブルンに接していた。主な町は、キネレテ、ケデシュなどであり土地の多くは山地であったとありますが、豊かな地で繁栄していたようです。

 

ナフタリは、他国の支配下に置かれ、異邦人の宗教・偶像礼拝に抵抗し、神殿(礼拝・エルサレム)からも離れた所で救い主を待ち続けましたが、そこに「美しい小鹿」が生まれます。

 

ガリラヤは、主イエスが来られた時代には、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、ローマ帝国の支配に反抗する熱心党の拠点でした。
それはエルサレムから離れていたから、ユダヤの律法主義から「解き放たれた雌鹿」のようでした。

 

「美しい子鹿を産む。」ですが、鹿は、谷川の水を慕う、神を求めて止まない人々を指すのでしょう。
なお、イエスが公生涯に歩み出された後、ここを中心に活動されましたし、ペトロやアンデレ、ヨハネやヤコブなどもこの地域の人々でした。

 

このようにナフタリは、他国の支配下に置かれ、異邦人の宗教・偶像礼拝に抵抗し、神殿(礼拝・エルサレム)からも離れた所で救い主を待ち続けましたが、そこに「美しい子鹿」が生まれたのです。

 

●22節.ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる。
●23節.弓を射る者たちは彼に敵意を抱き/矢を放ち、追いかけてくる。

 

最後は、ヨセフです。(26節まで)。

 

●24節.しかし、彼の弓はたるむことなく/彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により/それによって、イスラエルの石となり牧者となった。

 

「実を結ぶ若木・・」ですから、神による繁栄(22節)と「イスラエルの石となり牧者となった。」ですから、保護(24節)と祝福が約束されています。

 

「その枝は石垣を越えて伸びる。」は、人間だれでも乗り越えられない「垣根」を持っていますが、それらの垣根を超えるのですから、「神の愛」を指すのでしょう。

 

「弓を射る者たち」は、その者らによってヨセフは苦境に立たされても、「彼の弓はたるむことなく/彼の腕と手は素早く動く」、たゆむことなく、まけることなく、すばやくエジプトの支配者になりました。

 

そのようにイスラエルの最後も終わりの日の大艱難を経て、たゆむことなく、すばやく大いなる国となるのです。
そして、それは、イスラエルの神、全能者、岩なるキリストによるのです。

 

●25節.どうか、あなたの父の神があなたを助け/全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福/下は横たわる淵の祝福/乳房と母の胎の祝福をもって。
●26節.あなたの父の祝福は/永遠の山の祝福にまさり/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり/兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。

 

25、26節でもヨセフの「祝福」が強調されていて、彼が受ける祝福は彼の父祖や彼の兄弟たちが受けた祝福にまさるとしています。

 

ヨセフの生涯の祝福を説明することによって、イスラエルの将来の祝福、すなわち、神がアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福の約束が、終わりの日に成就する事が預言されているのでしょう。

 

同時にそれは、イスラエルによって全ての民が祝福されることが預言されているのでしょう。
それにしても、「祝福」という言葉が、わずか2節で7か所に使われています。

 

ヤコブの息子ヨセフに対する感謝の気持ちが伝わります。
ヤコブは、その感謝の気持ちは、「あなたの父」、すなわち、イスラエルの神の祝福であると伝えます。先祖のアブラハムやイサクを祝福された神と同じ神です。

 

26節で、その祝福が「兄弟たちから選ばれた者の頭」の上にもあるように、ヤコブは祈ります。
この「兄弟たちから選ばれた者」は誰を指すかですが、ある解説ではイエス・キリストとしていました。

 

すなわち、聖書は、ヨセフの生涯をイエス・キリストと重ね合わせて扱っているということです。詳細は省きます。

 

●27節.ベニヤミンはかみ裂く狼/朝には獲物に食らいつき/夕には奪ったものを分け合う。」

 

ベニヤミンは、ヨセフと同じ母を持つ兄弟で弟です。ヨセフは特別にかわいがっていました。
ベニヤミン族からイスラエルの初代王サウルがうまれ、南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族から構成されていました。

 

ヨセフの実の弟ベニヤミンは、兄弟の中でヨセフ殺しの大事件に関わっていませんでしたが、他の兄弟のようにヨセフ殺しに関与していないのですが、その分、彼には「罪の苦しみと恐れ」がわからなかったと思います。

 

ここではベニヤミン族を「かみ裂く狼」と表現しています。

 

●28節.これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。

 

ヤコブが預言した「これらすべて」ですが、「父」は、主なる神ですから、主なる神が祝福したヤコブ(イスラエル)の子孫で、またイスラエルの12部族です。

 

「これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。」ですが、ヤコブは、主の言葉を受けて子たちを祝福しました。

 

その言葉には厳しい言葉もありますが、父なる神は「おのおのにふさわしい祝福をもって祝福した」のでした。

 

最後に主な人物のみ取り上げて簡単にまとめて捕捉します。
49章は、ヤコブは、その生涯の最期に自分の力を振り絞って息子たちを呼び寄せて主から預かった祝福の言葉を語ります。

 

それらは預言で、「終わりの日に」に息子たちに起こることが、一部でしょうが預言されています。
ヤコブの最初の妻レアから生まれた息子たちの中で、特に注目すべき人物はユダです。

 

ヤコブもそのユダに王権が与えられて、やがてイスラエルの民のリーダーシップを取ることになることを預言しています。(10節)
イスラエルが神を礼拝する民となってから、その礼拝を司る祭司職を担うことになるレビについては、そのことには触れていません(5節)。

 

レビはシメオンと共に、やがて「イスラエルの間に散らす」という預言についてはやがて成就します。
その成就の仕方は、前者のレビは神の礼拝を司るために各部族の中に配分されます。

 

後者のシメオンについては、やがてその数が少なくなり、他の部族の中に吸収されてしまいます。
しかし、レビ族は後に重要な部族、すなわち、幕屋をつかさどる祭司となります。

 

レビ族からは、イスラエルの民をエジプトから救いだすモーセ、その兄の大祭司となるアロン、預言者サムエル、そしてダビデ時代の霊的賛美リーダーとなるアサフ、ヘマン、エタンなどが出ます。新約時代のバプテスマのヨハネはレビ族の末裔です。

 

ユダは、エジプトに飢饉の救いをもとめたとき、ヨセフがベニヤミンを求めたときに、ベニヤミンの身代わりを買って出る人物ですが、この部族が頭角を表わすのは王制時代からで、やがて南ユダ王国を統治します

 

ユダヤ教はこの名から来ているということです。

 

南ユダ王国のバビロン捕囚後、イスラエルの民は帰還しますが、もはや王制はなくなり、ユダ族の一人エズラが活躍し、ユダ族からやがてイエス・キリストが登場します。そしてその王権は永遠に堅く立ちます。

 

10節には、「王笏はユダを離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う・」とあります。

 

「シロ」とはヘブル語の動詞に由来し、「栄える、引き出す、抜き出す」という意味だそうですから、「シロ」はユダ族から引き出されるメシアを表わす特別な名前となります。

 

ヨセフは長子の権利をヤコブから受け継ぎ、「実を結ぶ若木」(22節)とし、祝福されます。

 

エジプトのゴシェンの地において、やがてイスラエルの息子たちは部族へと成長し、やがてイスラエルの民として国家を形成していくのですが、その要となった人物がヨセフです。

 

ちなみに、ヨセフの二人の息子のひとり(弟)エフライム部族からは、モーセの従者となってカナンの地にイスラエルの民を導くヨシュアが登場します。

 

ベニヤミンですが、この部族からは、士師時代に登場する左利きのエフデ、イスラエルの最初の王となったサウル、ペルシャの地でユダヤ人滅亡の危機を救ったエステル、そして新約時代には使徒パウロを輩出します。

 

こうしてみると、長子の権威は、ヤコブからヨセフへ、そしてレビ族のモーセへ、そしてエフライム族のヨシュアへ、そして士師の時代を経て、ベニヤミン族のサウルへ、そしてユダ族のダビデ、ソロモンとつながって行き、イエス・キリストにまでつながって行きます。

 

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