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2024年1月10日 (水)

アブラハム、イサクをささげる(創世記22章)

聖書の箇所は、22章1節から19節です。
アブラハム信仰の天王山です。

 

アブラハムにとって、数々の試練の中で最大の試練が訪れます。
それも晩年になってです。

 

その試練は、神がひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたことから始まります。
21章で、待ちに待った約束の子イサクが、アブラハム100歳の時に誕生しました。(21章1~3節)。

 

そして、アブラハムは「永遠の神」(神の約束は永久不変であるという意味も含めて、21章33節)を意識して祈っていたでしょう。
イサクを通して子孫が天の星の数のように増え広がるという神の約束も、永遠の神にあって信じていたのでしょう。

 

 

●1節.これらのことの後で、神はアブラハムを試された。
神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

 

21章の出来事から10数年を経ていますから、イサクは十代前半の子どもで、アブラハムは百歳プラス十数歳というところでしょうか。
主が、「アブラハムよ」と呼びかけ、」られます。

 

●2節.神は命じられた。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」と主は呼ばれています。
イシュマエルがいるのに、「独り子」と呼んでおられるのです。

 

それは、アブラハムに与えられた約束を相続する子、という意味でしょう。
主がアブラハムに命じられたのは、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを・・わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」です。

 

アブラハムは思ったでしょう。
まさに、あなたの子孫を祝福するといわれた主の約束を疑いたくなるような命令、いや、試みではなかろうか・・と。

 

神への犠牲のささげものが、穀物や動物であればわかりますが、人間がささげものとして求められている、それも主によって天の星の数のように子孫が増えていくと約束されていた独り子であるわが子です。

 

当時、カナンの地の土着信仰ではそのようなこともあったのでしょうが、アブラハムは、そのようなことはし来なかった。

 

それなのに主は「彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と言われるのです。この「焼き尽くす献げ物」は、生け贄の獣の肉を、皮以外はみな焼き尽すという捧げかたです。

 

アブラハムにとっては、主に対する信仰が試されている、その信仰を守るうえで最大の試練です。

 

もし、これによって、主に対するアブラハムの信仰が試されているのならば、主は、ご自分への信仰になんと厳しい試練をお与えになるのであろうか。主はそういう方だとしか言いようがありません。

 

実際には、この時アブラハムはどのような反応をしたのでしょうか。

 

●3節.次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所「モリヤの地」に向かって行った。

 

この3節を読むと、「次の朝早く、」アブラハムは主辰していますから、アブラハムに迷いはなさそうです。

 

2節の、「焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」との主の声を聞いたアブラハムは、迷うことなく、「次の朝早く」、アブラハムはろばに鞍を置き、献げる物(いけにえ)に用いる薪を割り、二人の若者とイサクを連れて、神の命じられたモリヤの山に向かって行ったのです。

 

●4節.三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

 

「神の命じられた所」まで、三日間かかりました。遠くにその場所というのは「モリヤの地」で、そこに将来神殿が建てられるエレサレムで、「誓いの井戸」があるベエル・シェバ方面から出立して、今、モリヤの山からエルサレムを見ているのでしょう。

 

しかし、アブラハムはこの三日間いろいろと思いをはせて悩んだのではないでしょうか。試みの三日間でしょうね。・・人間的に考え

 

●5節.アブラハムは若者に言った。
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

 

アブラハムは、「礼拝をして、また戻ってくる。」と言っていますが、本当にイサクを連れて戻って来るという確信があったのでしょう。
主の、子孫を祝福するという約束を固く信じていたのでしょうね。

 

アブラハムは、息子イサクにはもちろん、従者たちにも真実を話していないようです。
アブラハムは狂信者ではなく理性的な人間で、神の論理と人間の論理をわきまえていたでしょうから、葛藤はあったと思います。
そこのところの描写はないですね。

 

●6節.アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

 

「薪を取って、息子イサクに背負わせ、」とありますが、このことからイサクのこの時の年齢は、たきぎを負うことができたということで、少なくとも、十代前半の子どもであったと思われます。

 

アブラハムは百歳プラス十数歳という年齢ですからね。
問題は、自分を焼く尽くす薪を息子に負わせた、それもアブラハムが負わせたのです。アブラハムの固い意志が伝わってきます。

 

イサクも従順ですが、7節を読むと、息子は自分が犠牲の捧げものになるとは思っていなかったのです。。
こうしてみると、 薪をイサクに負わせるというのは、十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かうイエスの姿を思い浮かべてしまいます。
罪なき自分を処刑するための道具を自ら背負って運ぶのです。

 

●7節.イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。
「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
●8節.アブラハムは答えた。
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。

 

「神が備えてくださる。」は、本来、「見出す」を意味し、神が「計らう」とも訳されているそうです。
神はアブラハムの信仰によって、最善を成してくださる。必要を備えてくださるとなるのでしょう。

 

この「アブラハム、イサクをささげる」物語は、主が御子キリストを捧げる姿に合わせて、イサクが木を背負っているのは、イエス様が十字架を背負わされて歩かれている姿を表しているとします。

 

イサクがアブラハムと一体であったように、主は、御子キリストと一体であったので、「神がご自身を、いけにえの羊を備えられる。」とも言えます。

 

つまり、父と一つであられるイエス・キリストが、いけにえの羊となられるという預言なのです。
また、神の計らいは、供えられる焼き尽くす献げ物である小羊と「イエスの復活」でしょう。

 

人間の罪の贖いのために父なる神は、ご自身のかけがえのない御子を人類の罪を贖うために捧げられ、実にそれも十字架の死による贖い(身代わり)としました。それは誰も想像しえなかった、唯一、神にのみ許された御業、死からの「復活」です。

 

この出来事によって、人類には御子イエス・キリストを通して神の祝福を回復する道が開かれたといえます。

 

●9節.神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

 

イサクは、自分が縛られて「祭壇の薪の上に載せ」られたのを知り、どのようの思ったのでしょうか。抵抗をしないで素直に父の行動に従ったのです。父を信頼していたのでしょう。

 

「モリヤの地」、すなわち、アブラハムがイサクをささげようとしたまさにその場所に、ダビデが神殿を建てようとしたと言っています。(歴史家ヨセフスの言)

 

もちろん、イエス・キリストは、このエルサレムで、十字架という祭壇の上で、全焼のいけにえとなったのです。だから、イサクは、イエス・キリストの型であるとされています。

 

イエス・キリストの十字架の意義は、神が全人類の罪を贖いということです。そのための捧げものとして御子キリストを十字架上にささげられたのです。神と御子キリストは一体であるから、そのつらさはいかほどのものか・・・。

 

しかし、この世界を創造された神とは、そういう方なのですね。本当に身近な、人間的な、そうですね、人間をご自分の型に似せて作られたのですから当然ですね。

 

9節からアブラハムがわが息子を献げる場面、クライマックスです。
この場面をレンブラントが描いています。

 

●10節.そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

 

アブラハムは、この段になってもたじろがずに「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」のです。実際には迷ったかもしれませんが、そのようなことは書かれていません。
この物語も伝承でしょうから、書き手が、ドラマ的に書いたのかもしれません。

 

●11節.そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

 

主のみ使いが「アブラハム、アブラハム」と、二度も呼んでいます。
そしてアブラハムは再び「はい。」と、従順に答えています。

 

●12節.御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 

この箇所を、御子キリストの十字架の型とするならば、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ書8章32節)」となります。

 

御使いのことば、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」は、アブラハムはこの試練に勝利したことを表しています。

 

私たちであれば、到底そのようなことはできません。やはり、わが子がかわいいです。
それでもアブラハムは、誰かの罪を贖うために犠牲を捧げようとしたわけではなく、ただ神がそうしろと言ったからという単純な理由で息子を犠牲にしようとしていたのでしょう。信仰に理屈はいらないのです。

 

●13節.アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

 

主は、いけにえのささげ物をイサクに代え「一匹の雄羊」を用意されました。
アブラハムは、それを「息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」のです。

 

神は、人間であれ羊であれ、誰かが血を流し続けないと、人間を赦されないのでしょうか。ふと、疑問にもいました。
なんとも血なまぐさい宗教と思いますが、これはあくまで旧約聖書の時代の話です。

 

当時は神の御霊がまだ下っていなかった時代ですから、そのようにするのが御霊の助けがない人間にとって最も安心できるのかもしれません。
つまり、定期的に儀式を続けていると、当時の人は、何か凶事があったとしても「それはちゃんと儀式を行なっていなかったからだ」と理解するのでしょうが、その都度必要なときに儀式を行うよりはよいかもしれません。

 

この無限に続く犠牲を遂に終わらせたのがイエス・キリスト(十字架で最後の犠牲となった)であり、聖霊です。
御霊がこの地上に下り信じる者の助け手となりますので、そのような儀式は必要なくなりました。

 

●14節.アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

 

アブラハムは、イサクの代わりとして、一頭の雄羊を備えてくださったその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。

 

その場所を人々は「主の山に、備えあり」と言っているのですが、主はそういう方なのですね。主は御自分を信じる者を決して見捨てられないのです。

 

「ヤーウェ・イルエ」の意味は、「主が備えてくださる」で、「ヤーウエイ」は「主」で、「イルエ」は、「備える」とともに「見る」という意味があるそうです。

 

この「見る」ということばは、気を配って配慮する、という意味を含んでいるということですから、「見ておられる」とも訳せるそうです。
このイサク物語も最終的には、シケムやベテル、ヘブロンやベエル・シェバのように、聖所の起源説話に落ち着いているのではということです。

 

つまりもともとは、どこかの聖所に伝わっていた伝承物語だったのでしょう。
この「主の山」ですが、エルサレムのことを暗示していると思うのですが、明確ではありません。

 

●15節.主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
●16節.御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。
あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

 

信仰のテストに合格したアブラハムに主が御使いをもって語られました。
アブラハムは、イスラエルの祖父と呼ばれ、「信仰の父」ともなるのです。

 

それは、「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかった」からだということでしょう。
それでは、どうして神の要求する愛する息子イサクをいけにえに捧げるという神の命令にアブラハムは従うことができたのでしょうか。

 

新約聖書で、それが述べられています。ヘブライ人への手紙第11章17~19節です。
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。

 

つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。

 

アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

 

●17節.あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

 

アブラハムが主の命令に従って自分の息子イサクを惜しまずにささげたことによって、主は御使いを通して「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」と約束しています。

 

「豊かに祝福し」は原文では「祝福に、祝福する」となっていて、その「祝福する」という動詞がピエル態(強く表現する場合)だと言うことです。

 

神が人をあるいは被造物を「祝福する」と言う時には必ずこのピエル態が使われているそうです。
神はすべての生き物を祝福し、特に、神のかたちに似せて創造された人を祝福されました。

 

繰返された「子孫繁栄・土地授与」の約束が再確認されています。
息子イサクを殺せという酷な命令をした後だから、もう一度契約内容を確認しておこうということでしょうか。

 

もちろんこの二つの約束の背景には、帝国の狭間でもまれ、ついにバビロン捕囚にいたって存亡の危機におかれたイスラエル民族の哀しい希望があるのでしょう。

 

●18節.地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

主は、御使いを通じて「わたしの声に聞き従ったから」、つまり、「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」と言われました。

 

主は、アブラハムにこれまでの契約と約束の確証を与えられたのです。

 

「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。」という約束の意味は、子孫(キリスト)が、敵(悪魔)の門を勝ち取る。」ということでしょう。

 

そして、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」ですから、地上のユダヤ人以外の異邦の諸国が祝福を受けるという約束もあります。

 

なお、「あなたの子孫によって」の「あなたの子孫」は単数形であるということで、これはイスラエル民族を指すのではなく、「ひとりの子孫」として受け止めイエス・キリストとしています。

 

イエス・キリストを通して聖霊によって生まれた霊的子孫(クリスチャン)が数多く誕生するという約束がアブラハムに与えられ、現在、この約束は現在進行形です。

 

●19節.アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

 

アブラハム一行は20章から、パレスティナ南部のネゲブ砂漠やその周辺をうろうろしていましたが、モリヤの地からベエル・シェバに帰ってきて、そこに住み着きます。

 

ベエル・シェバは、アブラハムが神を「永遠の神」(21章33節)と呼んだ地です
神は真実な永遠の神である。神の約束は永遠に不変です。

 

その信仰によってアブラハムは、愛するひとり子イサクをささげたのです。
神はこれまで、アダムを祝福し、ノアを祝福し、アブラハムを祝福し、続いてイサクを祝福されました。

 

本来、神はこの天地万物を創造し、その被造物世界にエデンの園を置き、人間を置き、そして人間を祝福しておられましたが、天使の一部が神に背き人間を唆し、神と人間との正しいかかわりを妨げてしまいました。

 

そにためにこの地上が悪で満ちてしまいましたので、神はご自分に忠実なノアの一族と動物の一つがいを残し、この地上の生き物を洪水ですべて一掃し、残されたノアとその子孫を祝福し、その子孫が再び神と共に歩むように道を整えましたが、それを阻む罪の力、すなわちサタンの働きが再び増大し、神は全人類をその罪から救済するために、その担い手としてアブラハムを召し出され、その子孫を祝福されます。

 

このように、神がアブラハムを祝福するのは、アブラハムを通してすべての者、すなわち、被造物がすべて神の祝福を受けるためです。
まさに、これは神の一方的な祝福であり「救い」です。

 

アブラハムは、人類救済の担い手として選ばれ、祝福を受けるのは、神の堅い意志に基づくご計画です。
このように、被造物の祝福の担い手として呼び出されたアブラハムの信仰の最後の仕上げの試練がこの22章となります。

 

アブラハムの神への信仰は、アブラハムをイスラエルの父祖、信仰の父として、また、その勤めを引き継いだキリスト者の信仰の父として今も引き継がれています。

 

このように、この22章におけるアブラハムの行為は、息子イサクの従順なしには完成されません。
この父子の関係は、やがて新約時代に見られる御父と御子とのありかたを予表しているのでしょう。

 

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