終わりの日の約束(1)(ミカ書4章)
聖書箇所は、ミカ書4章1節から14節です。
「終わりの日」についてイエスは次のように言われています。
マタイの福音書24章3節「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
4「イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
6「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
7節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
他にルカの福音書21章7節から11節「終末の徴」の箇所です。
11節には「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」とあります。
●1節.終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
「終わりの日」とか「その日」は、メシア王国を指す定型句です。
この「終わりの日」「その日」と言われる日に主がなされることが、イエス・キリストが言われる「御国の福音」と言われるものです。
「御国の福音」は、キリストの再臨によってもたらされる神の約束の実現による「良きおとずれ」と言われています。
「主の神殿の山」は、いわゆるエルサレムで、ヤコブの家、シオンの山とも言います。
主は、ご自分が王として支配されるために、シオン、エルサレムを選ばれたのです。
キリストが、「御国の福音」の宣言をなされたのも、山上の垂訓、山の上でした。
そして、ヤコブの家(イスラエル)が立てられているのは、彼らが証人となって、異邦人たちが主を知ることができるようにするためです。
「もろもろの民は大河のようにそこに向かい」ですから、多くの異邦の民が再臨した主を礼拝するためにエルサレムに巡礼に来るのです。
●2節.多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
1節の「終わりの日に」を、新約聖書をもとにメシア王国の到来として書きましたが、ミカ書では、「終わりの日に」を、単純に、未来にこの世が終わりを迎えるときと考えたらよいと思います。
そのとき、「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」ですから、「多くの国々」の異邦の人々が高くそびえる主の神殿のあるエルサレムの山に来て、どのように生きるべきかを教える神の言葉を学ぶのです。
つまり、エルサレムが世界の中心になるということでしょう。
●3節.主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。
1~3節には、イザヤ書2章2~4節とほぼ同じ言葉が記されていますね。
ミカとイザヤは、ヒゼキヤ王の代に活動が重なる部分もありますので、どちらかが相手の預言を引用したのではないかと考えられています。
勿論、共通の預言が神から与えられたと考えることも出来ます。
ただ、微妙に異なる部分もありますが、その内容は全く同義で、終末における主の神殿の山(=エルサレム)の希望の幻が記されています。
「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」ですから、主の教えを聞くためにすべての国々から(世界各地から)人々がエルサレムに集まってくるのです。
世界はメシアの統治によって治められ、平和がやってくるのです。
主の統治はエルサレムにその拠点を置きながらも、世界中の多くの民の間を裁き、どんなに遠く離れた人々にもその裁定が下され、争いになることはないのでしょう。
それゆえ、「国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」のです。
そして、彼らは戦争をやめ、「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌」するのです。
●4節.人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。
世界中の争いは過去のものとなり、「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もない」平和な世界がやってくるのです。
人類はいつの日か、この預言が実現するのを見ることが出来るのでしょう。
「ぶどうの木の下/いちじくの木の下」は、常にワンセットで使われるフレーズですが、いずれも平和を享受していることを意味しています。
●5節.どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。
「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。」は、今、多くの人々が偶像の神々を拝んでいたとしても、「我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。」とイスラエルの民は告白しています。
それはイスラエルの民が、主の約束が必ず実現すると信じているからです。
と言うことは、異邦の世界の諸国民は、自分の神に対する信仰を捨てないで、エルサレムの主の山に礼拝すると言うことになります。
●6節.その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。
●7節.しかし、わたしは足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに/主が彼らの上に王となられる。
「その日」、すなわち、主がご自分の王国を取り戻される時に、「わたしは足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる。」と言われます。
御国は、「足の萎えた者」(=足をひきずる者)とはヤコブ、すなわちイスラエルの民のことです。
「集める」、「寄せ集める」は、2章12節では、ご自分に立ち返る者たちを一つところに集め、「主がその先頭に立たれ」て、勝利者として敵を打ち破ることを約束してくださっているのですが、それと同じ意味で、イスラエルの「追いやられた者」(離散した者)が集められて、いたわり「強い国とする。」ですから、強い国になるべく回復してくださるのです。
●8節.羊の群れを見張る塔よ、娘シオンの砦よ/かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が/お前のもとに再び返って来る。
「お前のもと」のお前は、「羊の群れを見張る塔(主に立ち返った羊の群れ、やぐら)」、「娘シオンの砦(エルサレムを見守る丘)」ですから、そこに「かつてあった主権が、娘エルサレムの王権が/お前のもとに再び返って来る。」のです。
これは、失われたと思われた神の国エルサレムが回復する希望です。
●9節.今、なぜお前は泣き叫ぶのか。王はお前の中から絶たれ/参議たちも滅び去ったのか。お前は子を産む女のように/陣痛に取りつかれているのか。
●10節.娘シオンよ/子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば/そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。
シオンの娘(エルサレムのこと)には、真実な王、正義を行なう王がいませんでした。
そのためにエルサレムの民はバビロン捕囚によって子を産む女の陣痛の苦痛に取りつかれますが、それは神の平和のための計画であって、災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものなのです。
それは、エルサレムの民を、「敵の手」から贖い出してくださるということです。
この「敵の手」の敵とは、皮肉にも同胞の指導者たちのことを指します。
南ユダ王国(エルサレムが首都)のバビロン捕囚ですが、最初の捕囚は紀元前597年、紀元前587年の二回にわたって行われたとされています。
(参考に、北イスラエル王国(サマリアが都)、紀元前722年です。)
その痛みを経て、シオンの娘(エルサレム)に救いが来ます。
それは民衆がミカの時代から、この世の権力、暴力支配の中で奴隷状態にあったからです。彼らを奴隷としていたのはなんとイスラエルの支配者自身でした。
そして、主は国を滅ぼすことによって、そのような抑圧者を一掃してくださるというのです。
それが10節の「それでは、「バビロンにたどりつけば/そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。」という言葉です。
わたしは今までバビロンを悪者にしてみていましたが、確かに、そういう見方もあります。
こうして、神はイスラエルの民をバビロン捕囚という悲惨を通して建て直されたのです。
しかし、本当の意味で主の下でイスラエルが救われるのは、終わりの日を待たねばならないのは、辛いことです。
なお、ミカがこの預言を語ったときは、アッシリアがサマリア(北イスラエルの首都)を滅ぼし、いよいよエルサレムに迫ってくるという状況にあるときのです。
南ユダ(エルサレム)のバビロン捕囚は、ミカの預言から100年以上も後の紀元前587年で、この時にはすでにバビロンと言う国は存在していませんでした。
このように、イスラエルが滅亡し、バビロンで奴隷として働かされるのは、悲劇ですが、それが救いとなり、贖いとなるということは、この背後に神の御計画、神の御業があるわけです。
つまり、単にイスラエルがアッシリアやバビロンとの戦いに敗れたから、亡国、捕囚という憂き目を見るのではないということです。
そのことが11節以下で、イスラエルに対し、神の裁きを実行するために集結している諸外国、たとえばアッシリア、そして後のバビロンなどイスラエルを取り巻いている国々が、イスラエルが裁かれたように裁かれて、滅亡という苦難を味わうというところに示されています(13節)。
●11節.今、多くの国々の民がお前に敵対して集まり/「シオンを汚し、この目で眺めよう」と/言っている。
●12節.だが、彼らは主の思いを知らず/その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように/打ち場に集められたことを。
「その日」、即ち、この世界が終わる日、黙示録が語る7年の大艱難時代を詠みながらこの11節と12節を捉えますと、
キリストが再臨してメシア王国が実現される前に、イスラエルの民は反キリストによる未曾有の大患難といわれる出来事に会います。
それが、11節と12節で預言されていることでしょう。
ただし、キリストの花嫁である艱難前に救われた真のキリストの民は、この苦難から携挙によって免れます。
この未曾有の大患難は7年間続きますが、イスラエルが、民族的に神に立ち返らせるために与えられる最後のチャンスとなります。
11節の「多くの国々の民がお前に敵対して集まり」とは、反キリストによって集められた軍勢を意味するのでしょう。
神の民イスラエルを滅ぼすためのハルマゲドンの戦い、そしてエルサレムの破壊をもたらす彼ら(反キリスト)は、神のご計画を知らず、主の道具として用いられているに過ぎません。
そして彼ら(反キリスト)は、その目的を果たすと、主によって裁かれるために「麦束のように/打ち場に集められ」、敗北します。
その後でシオンの娘(エルサレム)の回復がなされるという約束が与えられているのです。
このことをキリストが宣言された「御国の福音」であり「御国の勝利」と言っています。
●13節.娘シオンよ、立って、脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし/お前のひづめを銅として/多くの国々を打ち砕かせる。お前は不正に得た彼らの富を、主に/蓄えた富を、全世界の主にささげる。
「娘シオンは、神の都「エルサレム」の雅名(詩的用法)です。
ここではイスラエルと同義だと思います。
イスラエルが滅亡し、バビロンで奴隷として働かされるのは悲劇ですが、それらのことはすべて神のご計画であり神の御業ですから、それで終わりでなく、それ等のできごとによって、罪が贖われ救いに導かれることになるのです。
11節以下で、そのことが、イスラエルに対する神の裁きを実行するために集結している諸外国、たとえばアッシリア、そして後のバビロンなどイスラエルを取り巻いている国々が、「娘シオンよ、立って、脱穀せよ。わたしはお前の角を鉄とし/お前のひづめを銅として/多くの国々を打ち砕かせる。」(13節)ですから、イスラエルが裁かれたように裁かれて、イスラエルによって滅亡という苦難を味わうということが示されています。
同時にそのことで主は、主なる神こそが究極的な主権者であることをイスラエルに対し、明確にされるわけです。
●14節.今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
「今、身を裂いて悲しめ」とありますが、主の御前に罪を告白し、万事を益としてくださる主を信じその導きに従いなさいと言うことでしょう。
イスラエルは、その罪のゆえに神に裁かれなければなりませんが、それは、
神がイスラエルを攻め滅ぼしてしまいたいからではなく救いに導くための準備なのです。
そこに神の愛があり、憐れみがあります。
その背きの罪ゆえに、亡国・捕囚という苦しみを通らなければイスラエルは救いにあずかることが出来なかったのでしょう。これも義である神であれば当然のことと言えます。
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