終わりの日の約束(2)(ミカ書5章)
聖書箇所は、ミカ書5章1節から14節です。
ここ5章は、4章の続きであり、シオンの娘(エルサレム)が敵に対して圧倒的に打ち勝つことを神が約束してくださっています。けれどもその人物が、人ではなく、実に神が立てられた王、キリストによって実現します。
●1節.エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
4章14節と5章1節は、メシア(救い主)が生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させるために並べてあると言われています。
並べて書いてみますと
4章14節
今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
5章1節
エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
即ち、「イスラエルを治める者」の頬が杖で打たれるエルサレムと、「イスラエルを治める者」が出るエフラタのベツレヘムが対照されています。
と言うことは、「お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者」がベツレヘム(=エフラタ)で、「彼の出生」ですから、生まれるということです。
この預言は、約700年後にベツレヘムで生まれたイエス・キリストによって実現しました。
「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」(そこから治める者がでること)、「出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」ですからまさにキリストです。
●2節.まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。
「ユダの氏族」と言うのは、イスラエルのダビデの父エッサイはベツレヘム出身でした。
ダビデはエッサイの八番目の末の息子で、成長し彼が統一国家の時代のユダとイスラエルの王となります。
そして彼の世継ぎの子からイエス・キリストが生まれるのです。
ベツレヘムはユダの氏族の中で「最も小さいもの」とされています。
「最も小さい」は、小さい、つまらない、若い、年下、末の子、弟、妹を意味すると言うことです。
「イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」ですから、神は、この王が出ることが「永遠の昔」から定められていると言います。
聖書では、ほかにも例は多くあるのですが、小さな氏族、小さな者、末の者、弟や妹、小さな村、閑村といったところから神のために大いなるものが生まれるのです。
これを神の「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(1節)、つまり、永遠の昔からの不変の神の定めだと言うことでしょう。
ベツレヘムから「イスラエルを治める者が出る。」(1節)という神の約束は、イエスの誕生によってある意味において実現しました。
それでは、イエス・キリストが「イスラエルをおさめる者」となるのは、これからの終わりの日のキリストの再臨を待たねばなりません。
2節の冒頭の言葉「まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。」がそのことを現しているのでしょう。
●3節.彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。
「産婦が子を産む時まで」というのは、期間限定で神はご自身の民を敵の手に渡されることを意味するのでしょう。
「産婦が子を産む時」と言うのは、「子を産む時」ですから陣痛の苦しみの時であって、終わりの日のキリスト再臨の時を指し、神の民イスラエルが、キリストに立ち返り霊的に生まれ変わる時までと言うことでしょう。
「敵の手」とは、黙示録によると、反キリストによる大患難を預言していると思います。
●4節.彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。
襲ってくるのは「アッシリア」とありますが、1節からの流れを見ると、ここは終わりの日のイスラエルの救いの時と考え、「アッシリアが我々の国を襲い」は、イスラエルを攻めてくる軍隊は、世界の軍隊を指すと思います。
「彼」はまさしく平和の君、イエス・キリストを指し、キリストは、神の国を地上に立てて下さり、その威光は全世界に及び、イスラエルの民は集められて羊の群れとして養われ、安らかに住まうようになる、と言うことでしょうか。
それも「わたしのために」ですから、まさにキリストです。
ですから、この箇所は、当時アッシリアがエルサレムを包囲する差し迫った危険を用いて、終わりの日の型として捉えているのでしょう。
つまり、終わりの日には、イスラエルに攻め込んでくる世界の軍隊を、イスラエルが圧倒的な力をもって征圧するということではないでしょうか。
これらのことが実現する終わりの日には、平和の君、キリストが再臨され、その威光は地の果てまで及び、イスラエルに平和が完全に実現するのと同時に、王なるキリストの威力は全世界に及び、イスラエルの民は集められて羊の群れとして養われ、安らかに住まうようになります。
●5節.彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。
解説が一部4節と重なりますが、念のためもう一度書いておきます。
救い主が実現する平和のことが、4節で「彼(キリスト)こそ、まさしく平和である。」とあり、彼は「アッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国(バビロン帝国の中心地)を牧す。」とあります。
「彼」は平和の君ですからキリストで、このままだと、平和の君であるキリストが剣をもって「アッシリアの国とニムロドの国」を牧す、ですから、アッシリアとバビロン帝国の支配からイスラエルを解放することになります。
しかし、キリストは、アッシリア帝国滅亡後600年余り経てから誕生していますから、アッシリアの時代にはいなかったのでおかしいと言うことになります。
そして、そのプロセスで、「七人の牧者と八人の指導者」という地上の指導者が、救い主のもとで立てられ、アッシリアの地とニムロデの地(バビロン帝国の中心地)を軍事的な剣の力で治めると描かれます。
それで、このアッシリア帝国は、4節に書いたように、終わりの日にイスラエルに攻め込んでくる世界の軍隊を指し、その時にはイスラエルが圧倒的な力をもって攻め込んでくる世界の軍隊を征圧する、と解釈したいと思います。
なお、ここを終わりの日の艱難の時と見ないで、また「平和の君」をキリストと見ない解説もありますので申し添えておきます。
しかし、その場合でもそれでは世界の軍隊がイスラエルに攻め込んでくるとかイスラエルの回復の預言はどのようになるのかと言う問題があります。
●6節.ヤコブの残りの者は/多くの民のただ中にいて/主から降りる露のよう/草の上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず/人の子らを頼りとしない。
●7節.ヤコブの残りの者は/諸国の間、多くの民のただ中にいて/森の獣の中にいる獅子/羊の群れの中にいる若獅子のようだ。彼が進み出れば、必ず踏みつけ/引き裂けば、救いうるものはない。
この箇所の「アッシリア」も5節と同じで、アッシリアと言う特定の国ではなく、終わりの日にイスラエルを攻めてくる世界の軍隊を指しているのでしょう。
つまり、当時、アッシリアがエルサレムを包囲しましたので、その差し迫った危険を使って、終わりの日の型としている箇所でしょう。
5節は、エルサレムが守られるだけでなく、今度はイスラエルが圧倒的な力をもってアッシリア全土を征圧するという意味でしょう。
「ニムロドの国」と言うのは、バビロン帝国の中心地のだそうです。
終わりの日には、攻め込んでくる軍隊を、イスラエルが征圧し、平和の君キリストの威光によってその支配は世界に及ぶということでしょう。
「主から降りる露のよう/草の上に降る雨のようだ。」は、イスラエルの民は「露」「草の上に降る雨」のように世界を潤す存在となるだけでなく、イスラエルはまるでおとなしい羊のように、諸国の中では若い獅子のようになり、支配的存在となることが預言されているのでしょう。
イスラエルは五月から十月半ばまで雨が降らない乾季で、その時の朝露は夏の作物を育てるのに死活的になるそうです。
この朝露は、人に頼らずに、主のみ、キリストのみに頼む時に、そのような貴重な存在になるということでしょう。
ヤコブの残りの者、すなわち、終わりの日の艱難から救い出された残りの者は、「彼らは人の力に望みをおかず/人の子らを頼りとしない。」のです。
人に望みを置くと言うことは、神を忘れていると言うことですから、神の民としてふさわしくありません。
●8節.お前に敵する者に向かって/お前の手を上げれば、敵はすべて倒される。
●9節.その日が来れば、と主は言われる。わたしはお前の中から軍馬を絶ち/戦車を滅ぼす。
●10節.わたしはお前の国の町々を絶ち/砦をことごとく撃ち壊す。
●11節.わたしはお前の手から呪文を絶ち/魔術師はお前の中から姿を消す。
●12節.わたしはお前の偶像を絶ち/お前の中から石柱を絶つ。お前はもはや自分の手で造ったものに/ひれ伏すことはない。
●13節.わたしはお前の中からアシェラ像を引き抜き/町々を破壊する。
●14節.また、怒りと憤りをもって/聞き従わない国々に復讐を行う。
「その日が来れば」(9節)キリストがともにおられるところのイスラエルの軍隊は、異邦人諸国に軍隊に対して圧倒的な力を持ちます。
8節と9節は、苦難を潜り抜けた「ヤコブの残りの者」が、ライオンのように強くされると約束され、また、「お前の手を上げれば、敵はすべて倒される。」と、主にある勝利が約束されています。
9節,10節では、「その日が来れば」、4章1節の「終わりの日々」、4章6節の「その日」で約束されていた神の平和を、神ご自身が神の民の戦いの道具である「馬」や「戦車」をなくすことによって実現すると描かれています。
また、11節で、「呪文を絶ち/魔術師はお前の中から姿を消す。」、12節で「偶像を絶ち」、最後に14節で「怒りと憤りをもって/聞き従わない国々に復讐を行う。」と宣言されます。
まさにこの主の宣言は、人間的な力を誇る神の民イスラエルを内側からきよめる神の裁きと救いです。救いの前には必ず裁きがあるのです。
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