預言者に対する言葉(エレミヤ書23章)
聖書の箇所は、エレミヤ書23章9節から40節です。
●9節.預言者たちについて。わたしの心臓はわたしのうちに破れ/骨はすべて力を失った。わたしは酔いどれのように/酒にのまれた男のようになった。それは、主のゆえ/その聖なる言葉のゆえである。
前節までは、ユダの牧者たちに対する神の裁きが書かれていましたが、ここからは、預言者たちに対する神の裁きが書かれています。
エレミヤの働きは多くの反対を受けました。王から、祭司から、そして家族からも反対を受けました。おそらく最も近しい家族からの反対が、彼が痛みを覚えていたと思います。自分の外にいる人よりも、自分の仲間からの迫害のほうが辛いのです。
ここからは、偽預言者について語られています。
ユダの民がバビロン捕囚となり、エルサレムが完全に崩壊するまえは、民はエレミヤが語る主の言葉を信頼していませんでした。
バビロンが攻めてくる中、不安の中にいた人々に対して偽預言者たちは、偽りの平和と安全を語っていたのです。
9節は、エレミヤの同業者である預言者を思っての言葉でしょう。
「酔いどれのように/酒にのまれた男」は、神の裁きを受けた者たちに使われている言葉だそうです。
エレミヤは今、同業者である偽預言者たちことを思ってまるで自分が彼らと同じように神の裁きを受けているかのような衝撃を感じているのでしょう。
●10節.姦淫する者がこの国に満ちている。国土は呪われて喪に服し/荒れ野の牧場も干上がる。彼らは悪の道を走り/不正にその力を使う。
●11節.預言者も祭司も汚れ/神殿の中でさえわたしは彼らの悪を見たと/主は言われる。
「姦淫する者がこの国に満ちている。」ですが、「姦淫する者」は偶像礼拝を指すのでしょう、「悪の道」と「不正」と偶像礼拝がこの国の民の中に満ちていて、その同じ悪を預言者や祭司らも犯している、ということでしょう。
その様を「国土は呪われて喪に服し/荒れ野の牧場も干上がる。」と表現しているのでしょう。
「預言者も祭司も汚れ」、ですから、祭司も預言者も悪で汚れていたのです。
●12節.それゆえ、彼らの道は/すべる岩のようになり/彼らは暗闇の中を追われて倒れる。わたしが彼らに災いを/彼らを罰する年を臨ませるからだと/主は言われる。
偽預言者らに対する怠りない主の裁きです。
リビングバイブルの訳がわかりやすいので、そのため、彼らの道は滑りやすくなり、彼らは、暗い危険な小道に追い込まれて倒れる。わたしは彼らに災いを下し、時がきたら、すべての罪を償わせる、と主が言われているのです。
●13節.わたしは、サマリアの預言者たちに/あるまじき行いを見た。彼らはバアルによって預言し/わが民イスラエルを迷わせた。
●14節.わたしは、エルサレムの預言者たちの間に/おぞましいことを見た。姦淫を行い、偽りに歩むことである。彼らは悪を行う者の手を強め/だれひとり悪から離れられない。彼らは皆、わたしにとってソドムのよう/彼らと共にいる者はゴモラのようだ。
「サマリアの預言者」ですから、アッシリアに滅ぼされた北イスラル王国の預言者のことでしょう。
「バアル」は異教の神、偶像の神のよって預言していた偽預言者が「イスラエルを迷わせた」とります。
それは、「姦淫を行い、偽りに歩むこと・・・」とあります。
北イスラエルでは、バアルの偽預言者たちがみだらなことをしていました。
ところが同じことをユダ王国の首都エルサレムにいる、主の預言者であるはずの者たちも同じことを行なっているのです。
●15節.それゆえ、万軍の主は預言者たちについて/こう言われる。見よ、わたしは彼らに苦よもぎを食べさせ/毒の水を飲ませる。エルサレムの預言者たちから/汚れが国中に広がったからだ。
「苦よもぎ」は、麻酔の効用のある草ですが、精神撹乱の作用もあります。
この語句は、これらは受け入れがたいほど苦いものを指す場合に使われているそうです。
「エルサレムの預言者たちから/汚れが国中に広がったからだ。」とありますが、預言者ら、霊的指導者らが犯す罪は、民に大きな影響を及ぼすためにそのものらの腐敗は国中に広がります。
●16節.万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。
主は、「お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。」と言われています。
偽預言者の預言は、その語る言葉から始まるのではなく、その人の行ないから始まっていることを知るべきです。
つまり、預言者と偽預言者の違いは、その預言の出所が違うことです。
「自分の心の幻」ですから、主の言葉でなく自分が思っていること、自分の心の幻を語るのが偽預言者なのです。
●17節.わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと/主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。
偽預言者の預言は、「平和があなたたちに臨むと/主が語られた」、また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/「災いがあなたたちに来ることはない」などを語るのです。
つまり、聞く人を喜ばせ、安心させるために、聞く人が嫌がる言葉を避けて、自分たちの夢を語り、偽りを語り大ぼらを吹きます。
そして、主の言葉を聞いてもいないのに主の宣告という言葉を使います。
●18節.誰が主の会議に立ち/また、その言葉を見聞きしたか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。
「主の会議に立ち」というのは、預言者が主の言葉を聞きそれを話すことを指しているのでしょう。
誰がその主の言葉を聞いたかと言っているのです。
●19節.見よ、主の嵐が激しく吹き/つむじ風が巻き起こって/神に逆らう者らの頭上に渦を巻く。
「主の嵐」とは、主の人類救済計画の中で、現在の歴史がまさに神の意思決定に基づき進行していること、神の定めが貫徹された結果であること、を告げています。
●20節.主の怒りは/思い定められた事を成し遂げるまではやまない。終わりの日に、お前たちは/このことをはっきりと悟る。
「見よ」ですから、「預言」(それも終わりの日の)であることを指しますから、偽預言者に対して預言されている主の怒りの言葉です。
主はエレミヤを通して偽預言者に対する怒りを向けておられ、同時に「終わりの日に、お前たちは/このことをはっきりと悟る。」と断言されます。
逆に言えば、真の預言者の使命とその重荷について語っていることになります。
●21節.わたしが遣わさないのに/預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに/彼らは預言する。
●22節.もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら/わが民にわたしの言葉を聞かせ/彼らの悪い道、悪の行いから/帰らせることができたであろう。
21節は、偽預言者の様を描いているのでしょう。
「わたしの会議」、主の会議に参加するというのは、主が語られていることを聞く、つまり、主との時間をしっかり持っていることを指すのでしょう。
偽預言者らは、主の言葉を聞かないで勝手に走り続け、勝手に預言しているのです。
エレミヤはおそらく、偽預言者には、主の会議に立ち、主の言葉を聞き取るという、預言者を預言者たらしめるものがまさに欠如していることを言いたいのではないでしょうか。
それは、端的に言えば、彼らは神からの召命と委託を受けていないということです。
21節では、彼らが「主の会議に立つ」預言者であれば、「わたしの言葉を聞かせ」「悪い道、悪い行いから帰らせることができた」はずだと語ります。
「終わりの日に」、今既に始まっている破局が完全に実現するときには、偽預言者らも主の怒りの裁きをはっきりと認識するであろうことを、語ります。
そのような主の現在の行為に盲目であることが、彼らが神から遣わされてはおらず、神の言葉を聞き取っていない、証拠となります。
21節で、それにもかかわらず、彼らが「走り」「預言する」ならば、彼らをそのように駆り立てるのは、神ではなく、彼ら自身の勝手な営みであって、彼らが語るその言葉は、彼ら自身の言葉にほかならないということでしょう。
●23節.わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。
●24節.誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。
23節と24節の注解の解説は下記のとおりです。
「近くにいる神」というのは、カナンの神のように地域や聖所と結びついた神のことが念頭に置かれているのであろう。
地域性と深く結びついた神は、ひたすら地域の福祉との関係においてだけ求められる神である。偽りの預言者の神は結局そのような神である。
彼らの神観には、「遠くにいる神」という超越的な面がない。被造物から離れて限りなく高き所にいます聖なる神という認識が欠けている。そのような地域的な神であれば、その地域から離れることによって、神の目から逃れることができる。
しかしヤハウェは「天にも地にも・・満ちている」神であるから、この神の前から逃れて行くべき場所は、この世界内には存在しない。超越的な神は、この世界のいずこにも満ちる神であるから、この神こそ真に近きにいます神である。”とあります。
●25節.わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。
●26節.いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、
「わたしは夢を見た、夢を見た」ですが、偽預言者は「夢」を見て、それを語っているのです。
主は、夢によってご自分のことを啓示される時がありますが、「夢」を見たら、それがそのまま神からの啓示とは言えません。
神経が興奮していたり、睡眠が浅いときも夢を多く見ることもあります。
彼らは見た夢をそのまま神の預言として語っていたのです。
●27節.互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。
「互いに夢を解き明かして」、かえって主の名から離れるということもあります。真の主の言葉は、互いに語り合うものではないのです。
●28節.夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。
「夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。」ですから、夢を見るのが、夢そのものが悪いものではなく、夢を主からの言葉とすることが間違っているのです。
「もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。」は、主の言葉と、夢を比べるのがおかしいのです。両者は何の関係もありません。
「穀物」は、栄養のあり食べる部分です。「もみ殻」は、脱穀の時に出てくる捨てられる殻です。
主からの言葉は「穀物」であり、夢は「もみ殻」でしかないということでしょう。
「忠実にわたしの言葉を語るがよい。」ですが、わざわざ「忠実」にと言っているのは、神の言葉は、新しいものを生み出す激しい力を持つものですから、神の言葉を語ることは、預言者にとって重荷となるのです。
神の言葉を語る者は、その重荷に耐えられずに、神の言葉を曲げてしまいやすいと言いたいのでしょう。
●29節.このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
主の言葉は、「火に似ていないか」ですから、清めることを指すのでしょう。心の中の隠された部分を明るみにし、実質的にその汚れを精錬してくださるのです。
主の言葉は、「岩を打ち砕く槌」ですから、頑なな心を砕く、主の言葉によって砕かれた魂にのみ、神の御言葉は有効に働くということでしょう。
主の言葉が、それを告げられた者たちに対して、及ぼす影響力の大きさについて示唆しています。
●30節.それゆえ、見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。
「仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う」は、偽預言者が仲間同士で、主の言葉を話すときに、主から言葉を預かったわけではないので、主から言葉を預かったように主の言葉を借りて、自分の思い付きとか、他の人が言っていることも盗用して話すことを指すのでしょう。
●31節.見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を「託宣」と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。
●32節.見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう、と主は言われる。彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。わたしは、彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる。
31節で、30節の偽預言者を「自分の舌先だけで、その言葉を「託宣」と称する預言者」と表現しています。
このように、個人的な目的のために神の言葉を誤用する偽預言者に、神御自身が「わたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、」と主は言われます。
偽預言者は、神から遣わされもせず、委託も受けていないのです。
そのような彼らの偽りの言葉は、「この民に何の益ももたらさない、」と言われます。
32節の「気まぐれ」は、「自慢話」とも訳すそうです。
自分の気まぐれで主の言葉を解き明かすのを主は「偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。」としています。
●33節.もし、この民が――預言者であれ祭司であれ――あなたに、「主の託宣(マッサ)とは何か」と問うならば、彼らに、「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、と主は言われる」と答えるがよい。
●34節.預言者にせよ、祭司にせよ、民にせよ、「主の託宣だ」と言う者があれば、わたしはその人とその家を罰する。
偽預言者が、「主の託宣」と言いながらも、その託宣が重荷となって神の言葉を曲げてしまうならば、主ご自身も「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。わたしはお前たちを投げ捨てる、」と皮肉って、お前たちを投げ捨てると言われます。
ここは、主からの言葉ではないのに、たやすく「主の託宣」という言い回しを使う偽預言者の姿を主は描いておられるのでしょう。
「お前たちこそ重荷(マッサ)だ。」というのは、そのような偽預言者の存在が、主にとって大きな負担となっていることを、同じ言葉を使って「お前たちこそ重荷だ」と言われているのでしょう。
●35節.お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。
●36節.「主の託宣だ」という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神で/ある我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。
主の御心もわからないのに、偽預言者は「主の託宣だ」という言い方をするが、主はそういう言い方を「二度としてはならない。」と言われます。
それは、「お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神で/ある我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。」とします。
●37節.預言者にはただ、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」と言うがよい。
主の御心が分からなかったら、素直に「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」と共に考え、祈り求めればよいのでしょう。
●38節.もし、お前たちが、「主の託宣だ」と言うなら、主はこう言われる。「お前たちは、『主の託宣だ』と言ってはならないと命じておいたのに、『主の託宣だ』というこの言葉を語ったので、
●39節.見よ、わたしはお前たちを全く退け、お前たちと父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。
「『主の託宣だ』と言ってはならないと命じておいたのに、」「もし、お前たちが、『主の託宣だ』と言うなら、」、「見よ」ですから終わりの日に「わたしはお前たちを全く退け、お前たちと父祖たちに与えたこの都と共に、お前たちをわたしの前から捨て去る。」と言われています。
●40節.そしてお前たちに、決して忘れえない永久の恥と永久の辱めを与える。」
「決して忘れえない」というのは、彼らが行なったことを全く認めていないことを指すのでしょう。
そのような偽預言者に主は、「永久の恥と永久の辱めを与える。」と言われています。
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