ユダの王に対する言葉(エレミヤ書22章)
聖書の箇所は、エレミヤ書22章1節から30節です。
●1節.主はこう言われる。ユダの王の宮殿へ行き、そこでこの言葉を語って、
●2節.言え。「ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉を聞け。
主はエレミヤに「ユダの王の宮殿へ行き、そこでこの言葉を語って」と言われます。
この章では、四人の王が挙げられていますが、最初に挙げられたのは、この時代のユダの王は、21章からの流れで言えば、ゼデキヤ王のことでしょう。
ヨシヤ王が死んだそのすぐ後ではないかとされています。
主の裁きの告知は、国に対してでなく、個別の王に直接語られます。
●3節.主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。
ユダの王に対し主は呼び掛けておられます。
王は国を治めるのと同時に、その与えられている絶対的な権力でもって、ここに掲げられていることをしないさいということでしょう。
これらは国を治めるために必要な大原則です。
●4節.もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も。
●5節.しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う――と主は言われる――この宮殿は必ず廃虚となる。」
「この言葉」とは、3節で主がユダの王に命じられた言葉を指すのでしょう。
「この宮殿の門から入ることができる」というのは、ユダの王はユダの民と共に光栄と繁栄に恵まれるということでしょう。
しかし、実際は、ユダの王はそのようにしなかったので「この宮殿は必ず廃虚となる。」、すなわち、ユダはバビロンによって滅び、民はバビロンに捕囚され、エルサレムは廃墟になります。
●6節.主はユダの王の宮殿についてこう言われる。あなたは、わたしにとってギレアドの森/レバノンの頂のようであった。しかし、わたしはあなたを荒れ野とし/人の住まない町にする。
●7節.わたしは滅ぼす者を聖別し/おのおの武器を手にしてあなたを攻めさせる。彼らはあなたの最上のレバノン杉を切り倒し/火に投ずる。
ユダの王の宮殿について主は、「わたしはあなたを荒れ野とし/人の住まない町にする。」と預言されます。
「ギレアドの森/レバノンの頂」というのは、王の宮殿は杉の木に囲まれて森のようであったので、主は宮殿をそのように呼ばれたのではということです。
ギルアドはヨルダン川東岸、南北に広がる地域で、森があることで有名なところだということです。
●8節.多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに尋ね、「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」と聞くならば、
●9節.「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」と答えるであろう。
「多くの国の人々」というのは、ユダヤ人以外の異邦人を指し、廃墟になったエルサレムを見て、主を知るようになり、「「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」と答えるであろう。」と言われています。
主は、イスラエルを祝福することによってご自分を証されますが、裁かれることによっても、ご自分を証しされるのです。
この時のユダの王、流れで言えば、ゼデキヤ王と思いますが、その王の歩みは、主の意向に沿えず、遠くれていたのです。
●10節.死んだ王のために泣くな。彼のために嘆くな。引いて行かれる王のために泣き叫べ。彼が再び帰って/生まれ故郷を見ることはない。
10節から12節で描かれている王は、ユダの17代の王エホアハズのことでしょう。
「死んだ王」は、メギドで戦死したヨシヤ王のことで、その父のことよりも、
その後を継ぎ、三カ月で廃位し、エジプトに連れ去られ客死した王シャルム、つまりエホアハズ(列王下23章31節から34節)のために「泣き叫べ。」ということでしょう。
彼は捕虜のまま、故郷に戻ることもなくバビロンで死んだ南ユダ王国の最初の王となりました。
●11節.父ヨシヤに代わって王となったが、このところから引いて行かれたユダの王、ヨシヤの子シャルムについて主はこう言われる。「彼は再びここに帰ることはない。
●12節.彼は捕囚となっているそのところで死に、この国を再び見ることはない。」
11節と12節は、エレミヤの書記をしていたバルクによる補足的説明ではとされています。
「ヨシヤの子シャルム」とは即位後のヨアハズの通称です。
エレミヤの言葉とその書記バルクの言葉は、ユダのこのような悲しい出来事を説明するのに、現実の政治的駆け引きによらないで、神の啓示に基づいて語っています。
「彼(シャルム)は再びここに帰ることはない。」という預言は、19節にも書きますが、シャルムは、エジプトのファラオ・ネコによってオロンテス河畔にあるリブラ(ファラオ・ネコの本営)に一旦幽閉され、その後、エジプトに連れて行かれ、そこで二度と故郷のエルサレムを見ることなく死ぬことになり、実現します。(参考箇所は、列王記下23章31節)
なお、主はエレミヤに、イスラエルとユダ、および諸国について、ご自分の言葉を残らず書き記すように命じました。
エレミヤはこれを書記のバルクに口述筆記させることによって、巻物として残しました。
このときエレミヤは主の神殿に出入りすることを禁じられていましたので、断食の日に、その巻物を神殿に集まった民に読み聞かせるようバルクに命じました。
バルクはエレミヤに命じられるまま民に対してその巻物を読んだのですが、内容があまりにもユダの指導者にとって都合の悪いことであったので、直ちにヨヤキム王のところにそれが伝えられ、それはエレミヤの命によることだと告げましたので、役人たちはバルクに、「あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい。だれにも居どころを知られてはなりません」(エレミヤ書36章19節)といって、彼らが王の手によって殺されないように守ろうとしました。
その巻物は、書記官エリシャマの部屋に納められていましたが、王はその巻物の存在を知ると、ユディを遣わしてそれをとってこさせ、彼に命じて自分の前で朗読させ、巻物を朗読し終わったところからナイフで切り取っては、側近の反対にもかかわらず、暖炉の火に投げ込み燃やしました。
そして、ヨヤキム王は、バルクとエレミヤを危険人物として、沈黙させようとして捕らえるようにと命じました。(36章1-27節参照)。
しかし、王の役人や多くの民がエレミヤの側についていたので、ヨヤキム王はエレミヤを完全に沈黙させることはできませんでした。
●13節.災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに高殿を建て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は。
●14節.彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て/大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け/レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。
13節から23節で描かれている王は、エホヤキムのことでしょう。
エホヤキムは、シャルム王の兄でシャルムの後継者です。
後に名を改めてヨヤキムとしています。
エホヤキム王は、父ヨシヤと違い、主の前に悪を行う王でありました。
主は12節で「彼は捕囚となっているそのところで死に、この国を再び見ることはない。」と預言されます。
エホヤキム王は、王として正義を行わず、14節にあるように「自分のために広い宮殿を建て/大きな高殿を造ろう」ですから、民に重税を課し(列王下23章35節)、労働者に正当な賃金を支払わないで宮殿の増改築を行い、贅沢三昧の日々を暮らしていました。
このようにして、民に負担を強いていたのは自分のためでもあるが、支配国エジプトに銀金を送らなければならないこともあったのだと思います。
●15節.あなたは、レバノン杉を多く得れば/立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし/正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。
主は王に「レバノン杉を多く得れば/立派な王だと思うのか。」と問いかけておられます。
立派な王は、そうではなく、公義と正義、すなわち、「質素な生活をし/正義と恵みの業」によってではないか、ということでしょう。
そう、父ヨシヤ王に見習うことであると教えているのでしょう。
「正義と恵みの業」というのは、その生活振りではなく、貧しい者や乏しい生活者を保護することによって保たれる公正と正義によってもたらされるものであるということでしょう。(16節)
15節と16節は、ユダの民が、メギドの戦いで敗戦したので、敗戦のショックと死んだ王ヨシヤの死を悼んでいるのでしょう。
10節でそのことをエレミヤは、死んでしまった王のことを嘆いてみたところで何にもならない、むしろ嘆くべきは、エジプトへ引いて行かれた王エホアハズ(ヨアハズ)ではないかと言っています。
なぜなら、ヨアハズは再び生まれ故郷のエルサレムを見ることはないからです。
●16節.彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ/わたしを知ることではないか、と主は言われる。
「彼」はユダの王で、ここでは、ヨシヤ王のことを言っているのでしょう。
「わたしを知る」の知るは、近しい関係に入る、親しくなる、という意味ですから、また、「知る」のは、知的に主を知るのではなく実際に「貧しい人、乏しい人の訴えを裁き」ですから、実際にそのように行動することによって「わたしを知る」のです。
ですから、彼(ヨシヤ王)は、主を知り、親しい関係にあったのです。。
新約聖書では、「神を知的に知る」は、頭だけで知識として知るのではなく、その具体的行動としてヨハネはクリスチャンの兄弟姉妹を指して、具体的な行動をもって「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。」と言っています。(ヨハネの手紙1 3章16節、17節)
●17節.あなたの目も心も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。
「目も心も」は、自分の利益のみを考えていることでしょう。
「圧制を行っている。」のは、ユダの王がエホヤキムの時代のことでしょう。
エホヤキムは異教的な儀式を王国にもたらしました。
次節で、そのようなエホヤキムが、同じような目に自分自身が遭うことをエレミヤは預言しています。
●18節.それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて/主はこう言われる。だれひとり、「ああ、わたしの兄弟/ああ、わたしの姉妹」と言って彼の死を悼み/「ああ、主よ、ああ陛下よ」と言って、悼む者はない。
●19節.彼はろばを埋めるように埋められる。引きずり出されて投げ捨てられる/エルサレムの門の外へ。
エホヤキム王(名を改めてヨヤキム)に対してエレミヤは、誰もその死を悼まず(18節)、その死体は「エルサレムの門の外」に、「引きずり出されて投げ捨てられる」(19節)と預言しています。
エホヤキム王は、民からも、自分の兄弟姉妹からも嫌われていたのでしょう。
死んでも、悼む者がなく、そして彼はエルサレムの門から引きずられて、投げやられて、ろばが埋められるように埋められるのです。
さて、エホヤキム王のその後の歴史を解説は次のように書いています。
エホヤキム王は、その治世の第三年ネブカデネザルが王となったときにバビロンに捕囚されますが、なぜか、エルサレムに戻されるそうです。
そして今度は、エジプトではなくバビロンに従属することになるのですが、その三年後、バビロンがエジプト攻めますが、エジプトはバビロンを追い返しました。
これを見て、エホヤキム王は、エジプトの側につくことにし、バビロンに反逆します。
そこでネブカデネザルは略奪隊を、自分の国から、またアラムやモアブ、アモン人を使って送ります(以上列王記下24章1節から2節)。
それで彼は、おそらく住民によってエルサレムから追い出されるのでしょう。
それは、エルサレムの住民がバビロンを恐れて、降伏のしるしとしてエルヤキム王をエルサレムから追い出したのではとされています。
そこで、ここのエレミヤの預言にあるように、「ろばを埋めるように埋められる。」という言葉が実現したのでしょう。
エホアハズトエホヤキムの二人の王は、いずれもヨシヤ王の息子でしたが、ヨシヤ王は15節と16節で明らかにされているように、質素な生活をし、主の御言葉を忠実に聞き、正義と公平を持って民を治め、民は、この王が統治する間、幸いであり、王は民から尊敬されていました。
そのヨシヤ王はエジプトのファラオ・ネコとの紀元前609年のメギドの戦いで戦死しました。
その後の経緯は、エホアハズ(ヨアハズ)が(エジプトの許可なく)王位を継ぎましたが、エホアハズ(ヨアハズ)は僅か3か月ほど支配した後、エジプトのファラオ・ネコによってオロンテス河畔にあるリブラ(ファラオ・ネコの本営)に一旦幽閉され、その後、エジプトに連れて行かれ、そこで二度と故郷のエルサレムを見ることなく死にました。
エホアハズ(ヨアハズ)が王位に就いたのは、エジプトの許可を得ていなかったので、ユダがヨシヤの自由な政策を続行しようとしているのではないかとエジプトのネコに疑念を抱かせたのでしょう。
ネコはエホアハズ(ヨアハズ)をリブラに幽閉するとともに、ユダには罰金として高い科料を課し、ヨシヤのもう一人の息子エホヤキムをユダの王に据えました。
そして、自分が宗主権を持つことを明らかにするため、彼の名をヨヤキムと改名させました。(列王記下23章31-35節)。
●20節.お前はレバノンに登って叫び/バシャンで声をあげ/アバリムから叫ぶがよい。お前の愛人たちは皆、打ち破られる。
「お前」はユダを指し、主はユダに呼び掛けておられるのでしょう。
「バシャン」は、ヘルモン山を頂く北東、ガリラヤ湖の北東にある高原地帯で、今のゴラン高原。
「アバリム」は、モアブの山地の北にあるアバリムの山々で、エリコの向こう側、ヨルダン川の東にある山々です。
そして北の「レバノンに登って叫び」ですから、ユダはバビロンの支配下から独立しょうと、これら周囲の民と同盟を結んで反乱を起こしたのでしょう。
「お前の愛人たち」とは、ユダと同盟を結んでるこれらの周辺諸国のことでしょう。
主は、「お前の愛人たちは皆、打ち破られる。」と宣言します。
つまり、これらの地方は、敵に攻め囲まれているこのエルサレムの町の住民にとっては、もはや赴くことのできない土地で、襲い来る破局からは逃れえないということを強調されているのでしょう。
ユダは、今や、自分自身を頼りにするほかないのだと宣告されているのでしょう。
ユダは、国家の一大事であるのに主に祈り助けを求めるのではなく、周辺諸国に助けを求めたのです。
主は、そのこと事態もまた「偶像崇拝」として、また、20節以下のところでいえば「姦淫の罪(愛人と通じたという意味で)」だと言われているのでしょう。
●21節.お前が栄えていたころ、わたしが何か言うと/お前は、「聞きたくない」と言った。これが、お前の若い時からの態度であった。お前はわたしの声に聞き従ったことはない。
「お前の若い時」は、「お前」はエホヤキンを指し、このエホヤキンは、エホヤキム王の子供で、父が急死したので18歳でユダ王国の王位につき3ヵ月ほど支配したが,紀元前597年バビロンのネブカドネザル2世の攻撃で首都エルサレムは滅び降伏しました。
このあと、第一回のバビロン捕囚が始まります。
「お前が栄えていたころ」とあるように、イスラエルの主の言葉への無関心と不従順は、今に始まったことではなく、出エジプト後の荒野の時代以来、このかたずっと続いていたので、それはこの民の特性であったのでしょう。
この民のこのような神の救済の歴史は、また、わたしたち人類の罪の歴史でもあるのでしょう。
●22節.お前の牧者たちは風に追われ/愛人たちは、捕らえられて行く。そのとき、お前は自分のあらゆる悪のゆえに/恥を受け、卑しめられる。
「お前」は、エホヤキンを指し、「牧者」はユダ王国の指導者のことでしょう。
「風に追われて」というのは、自らの意思ではなく、神からの暴風という恐ろしい牧者を指し、この神からの暴風は、彼ら指導者を捕囚へと吹き飛ばすのでう。
エルサレムはバビロンによって滅び、「愛人たち」は、同盟を結んでいた周辺諸国を指し、その「愛人たち」が捕囚とされたように、王とその同調者(王の高官や王の権力と結びついて様々な利権を漁っていた人々)たちもまた同じ捕らわれの運命を分かつことになるであろうということが述べられているのでしょう。
「捕らえられて行く」は、第一回バビロン捕囚(紀元前597年)を指し、誰もいなくなると預言されています。
彼ら指導者を捕囚として連れ去られたエルサレムの町は、神がその悪の故に罰として下される崩壊という裁きを前にして、助ける者も導く者もないままに、「自分のあらゆる悪のゆえに/恥を受け、卑しめられる。」、そして、お前たちは失意のうちに佇むことになる、といわれます。
●23節.レバノンに住み/レバノン杉に巣を作っている者よ/産婦の苦しみのような苦痛が襲うとき/お前はどんなに呻くことか。
「レバノンに住み」は、バビロンが攻めてきているのに主にも頼らないで、どこへも行かないで宮殿に閉じこもっている連中を指し、その者たちを主は、「杉の木の中に巣ごもりする女」(新改訳)と呼んでいます。
この状況は、エルサレムの町が高台にあり、戦術的に有利な地形であったため、多くの人々は安心していたのでしょう。
エルサレムは、バビロンの軍隊が間近に迫って取り囲まれても、戦術的に有利な地形であったので、最期の拠り所となったかもしれません。
●24節.「わたしは生きている」と主は言われる。「ユダの王、ヨヤキムの子コンヤは、もはやわたしの右手の指輪ではない。わたしはあなたを指から抜き取る。
この24節から27節は、紀元前597年の第1回捕囚のまえに語られた預言の言葉だと思います。
24節から30節は、コンヤ王です。
コンヤは、エホヤキムの子どもで、エホヤキンとも呼ばれ王位を継ぎますが、三ヶ月間だけの王でした。
「もはやわたしの右手の指輪ではない。」は、古代近東世界では指輪には印章がついていて、契約の認証をするのに印として用いられたそうです。ここでは、その印章つきの指輪が比喩として用いられています。
右手の印章つきの指輪は、主の選びのしるしとしての意味がありました。
印章指輪によって王は、神の支配権を「認証」され、その支配権を神に代わって代行する権能が与えられていました。
人々は、王がその主の支配権をもって迫り来る破局を防ぎ守ってくれるであろうと期待していたのでしょう。
その期待が、主によって粉砕(捨てられた)されることを表しているのでしょう。
即ち、主自ら印章指輪を指から外し、投げ捨てるであろう、と言われているのです。
「右手の指輪」は、王家の印となる存在を意味し、「あなたを指から抜き取る。」ですから、主はその存在を引き抜かれる、ということでしょう。
実際、紀元前597年、コンヤは、母や王家の者とともにバビロンのネブカデネザル王に降伏し、バビロンに連れ去られ、37年間の捕囚の後に釈放されましたが、二度とその地位を回復することはなかったそうです。(列王記下24章10節から17節)。
●25節.わたしはあなたを、あなたの命をねらっている者の手、あなたが恐れている者の手、バビロンの王ネブカドレツァルとカルデア人の手に渡す。
●26節.わたしはあなたと、あなたを産んだ母を、生まれたところとは別の国へ追放する。あなたたちはそこで死ぬ。
●27節.彼らが帰りたいと切に願っている国へ帰ることはできない。」
25節以下は、この「右手の指輪」の比喩が具体的な威嚇の形で述べられています。
もちろん、バビロンによるエルサレムの破壊と、民のバビロン捕囚です。
王だけでなく、王の母もバビロンに捕囚として連れ去られ(26節)、再び故郷の地を見ることなく異郷の地で死ぬことになると語られます。
この預言は事実成就しました。参考箇所は、列王記下24章10-16節です。
●28節.この人、コンヤは砕け、卑しめられた壺か。だれも惜しまない器か。なぜ彼と彼の子孫は追放され/知らない国へ追いやられるのか。
28-30節は、バビロンにより、ユダ(エルサレム)破局後のものでしょう。
「コンヤは砕け、卑しめられた壺か。だれも惜しまない器か」ですが、コンヤは父エホヤキンと違って、別に民から嫌われていたわけではなく、民に期待されていたぐらいです。
それではなぜ「コンヤは砕け、」、つまり、投げ捨てられたのか、それは、主ご自身の手によって投げ捨てられてしまったのです。
28-29節は、コンヤ王(エホヤキン)の捕囚後の過酷な運命について語っているのでしょう。
民に期待されていた若き王の過酷な運命は、国民の間に様々な疑問を呼び覚ましましたでしょう。民の疑問は、後の時代にも続いたそうです。
民の間では、コンヤ王(エホヤキン)こそ、正統な、つまり主から全権を委ねられて即位した正当な王ではなかったのか、何故その彼と彼の子孫とが投げ捨てられ、異郷の地バビロンに閉じ込められねばならなかったのか、という問いであったと思います。
●29節.大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け。
●30節.主はこう言われる。「この人を、子供が生まれず/生涯、栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは/だれひとり栄えてダビデの王座にすわり/ユダを治める者が出ないからである。」
悲劇の若き王コンヤの次の王はゼデキヤで、彼はエホヤキンのおじです。コンヤには息子が七人いましたが、ダビデの家を受け継ぐ者はいませんでした。
エレミヤは「大地よ、大地よ、大地よ、主の言葉を聞け」(29節)と、「大地よ」を三度繰り返して呼び掛けることによって、この地エルサレムに対し、今や神の民イスラエルによる神の人類救済の歴史が終わった、決定的転換点を暗示するかのように主の言葉に耳を傾けるように注意を喚起しています。
「ダビデの王座にすわり/ユダを治める者が出ないからである。」ですから、ダビデ王朝の時代は終わった(イスラエルによる神の人類救済の歴史が終わったと同じこと)ということでしょう。
「この人を、子供が生まれず/生涯、栄えることのない男として記録せよ。」ですが、「この人」は、主に囚われバビロン捕囚の身になったコンヤ王(エホヤキン)を指し、これは、彼には子孫がひとりもないようにされるであろう、という意味ではなく、コンヤ王の子孫はもはや、ダビデ王朝の王になることはないであろう、という意味ではということです。
もちろん、このエレミヤの預言は成就しました。
コンヤ王は、ユダの王となったダビデの系図の最後となり、すなわち、それは、神自身がダビデ王朝の王の系図を閉じたことを意味し、かくて、イスラエルの人類救済史におけるその役割を果たし終えたのです。
そして、神の人類救済の御計画は、新約聖書、イエス・キリストとその民クリスチャンの時代に移るのです。
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