エルサレムの攻城(6章)
聖書の箇所は、6章1節から30節です。
エレミヤ書1~6章までがエレミヤの初期の預言が集められたと言われています。
エレミヤが預言者として神に召されたのは、ヨシヤ王の治世の第13年目でした。
ヨシヤが、宗教改革への道を踏み出したのは治世第12年目でした。
そして、その治世第18年目(紀元前622)に神殿の修理を命じ、その工事が行われていた時に、エルサレム神殿から「律法の書」が発見されました。
「律法の書」の発見は、ヨシヤ王の宗教改革を画期的なものにし、すなわち、地方聖所を廃止し、エルサレムへの聖所に統一がなされました。
ただし、ヨシヤ王の宗教改革は、制度的な宗教改革で、民の罪の悔い改めには至らなかったということにおいては不徹底のまま挫折したのでしょう。
エレミヤが召された時のアッシリアの王アッシュルバナパルは死に、その翌年(紀元前626)には新バビロン帝国にナボポサルスが即位し、さらにその翌年(紀元前625)には、メディアのキアクサレスが即位しています。
やがてバビロン王ナボポサルスとメディア王キアクサレスが協力して、アッシリアの都ニネベを占領し、アッシリアは滅亡します。
この時代の転換期にあたって、ユダの王ヨシヤも北イスラエルを回復して、ダビデ・ソロモンの時代のような大イスラエル王国を再建しようと夢見たのでしょう。
●1節.ベニヤミンの人々よ/エルサレムの中から避難せよ。テコアで角笛を吹き鳴らし/ベト・ケレムに向かってのろしを上げよ。災いと大いなる破壊が北から迫っている。
エレミヤは、自分の町、南ユダのベツレヘムのアナトトから首都エルサレムの町に来て、主の言葉を語りました。
それは、イスラエルの背信とユダの裏切りについてでした。
北イスラエルは、すでにアッシリアによって滅ぼされ、捕囚の目に会っています。
主は、悔い改めへの呼びかけと回復の約束を与えられましたが、ユダは、その主によって裁かれた北イスラエルを見ていながらユダは同じことを繰り返していました。
そのユダに対して、エレミヤはバビロンからの攻撃があることを預言しました。
ここはその時の状況です。
「北から迫っている」は、バビロンを指します。
「ベニヤミン」は、12部族の一つで、エレミヤの出身地です。エルサレムの北に位置するそうです。
「エルサレムの中から避難せよ」は、主はベニヤミンに対し、城壁に囲まれたエルサレムに逃げ込んでいたのに、さらに南の「テコアで角笛を吹き鳴らし/ベト・ケレムに向かってのろしを上げよ。」と命じられています。
もちろん、それは、エルサレムはバビロンによって包囲され、壊滅し、民は捕囚の目に会うからでしょう。
「ベト・ケレム」は、エルサレムとテコアの間にあるどこかであるということです。
そこで「のろしを上げよ」というのは、ベツレヘムの人々にこっちの方向に逃げてくるように合図を送っているのでしょう。
「災いと大いなる破壊が北から迫っている。」とあるように、ユダに対するわざわいと大いなる破壊が北から必ず来ると主は言われているが、
当時の偽預言者たち、祭司たちは、平和ではないのに、「平和だ、平和だ」と叫んでいたのでしょう。いわゆる平和ボケの状態にあったのでしょう。
●2節.美しく、快楽になれた女、娘シオンよ/わたしはお前を滅ぼす。
●3節.羊飼いが、その群れと共にやって来る。彼女に向かって周囲に天幕を張り/それぞれに、草を食い尽くす。
●4節.シオンに対して戦闘を開始せよ。立て、昼の間に攻め上ろう。大変だ、日が傾き、夕日の影が伸びてきた。
●5節.立て、夜襲をかけよう。城郭を破壊しよう。
主は、ユダを滅ぼすことを宣言されています。
「羊飼い」は、バビロン軍を表すのでしょう。
「彼女に向かって周囲に天幕を張り/それぞれに、草を食い尽くす。」は、「彼女」はユダのことですから、バビロンはエルサレムを包囲し、「草を食いつくす」ですから、跡形もなく滅ぼしてしまうということでしょうか。
4節と5節は、バビロンがエルサレムをどのように攻めるか議論しているのでしょう。
主はすべてをご存じで、これらの出来事は主の手の上でなされていることなのでしょう。
「夜襲をかけよう」ですから、エルサレムの住民は自分たちが眠っているうちにバビロン軍は攻め入り滅ぶのです。
●6節.まことに、万軍の主はこう言われる。「木を切り、土を盛り/エルサレムに対して攻城の土塁を築け。彼女は罰せられるべき都/その中には抑圧があるのみ。
「彼女」は、エルサレムですから、主は具体的に攻め入る方法をバビロン軍に命じられています。
●7節.泉の水が湧くように/彼女の悪は湧き出る。不法と暴力の叫びが聞こえてくる。病と傷は、常にわたしの前にある。
エルサレムの現状を主はすごい表現をもって語っています。
主は「不法と暴力」を「病と傷」とされています。
このように、「不法と暴力」、すなわち、自分たちが悪いことをすることは、自分の身に傷を負わせ、病を抱かせるもの、すなわち、自分自身を傷つけていることなのです。
●8節.エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て/荒れ果てて人の住まない地とする。」
主はエルサレムに向かって、「懲らしめを受け入れよ」と言われています。
「お前を見捨て」の「見捨て」は、「引き裂かれる」とも訳せるそうです。
この主のエルサレムに対する言葉「懲らしめを受け入れよ」から察するに、主はエルサレムを滅ぼしたくはないお気持ちがうかがわれます。
ということは、このエルサレムに対するさばきは、主の義のゆえに、滅ぼさなければいけないということになります。
だからこの裁きは、エルサレムを愛する主の心が「引き裂かれる」ということなのでしょう。
●9節.万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」
バビロンに対して主が命じておられます。
それは「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。」ですから、残りの者がいなくなるまで、滅ぼしつくせ、という命令です。
理由は11節に出てきますが、罪を犯しているのは一部の人ではなく、あらゆる年齢層、職業を含む民全体に広がっていたからです。
●10節.誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。
「耳は無割礼」は、彼らの耳が閉じたままであることを指し、「耳を傾けることができない」ですから、彼らの耳が聞こうとしないので、「主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。」というエレミヤの嘆きの言葉でしょう。
「それを侮り」は、彼らがエレミヤの言葉に反発して、侮っていることを意味しているのでしょう。
●11節.主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。
9節の主の命令は、「幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。」ですから、その罪が、あらゆる年齢層、男女に関係なく、そして、「長老も年寄り」にも罪が蔓延していたからです。
エレミヤは、そういう民に「主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。」と言っています。
エレミヤは、ユダを愛し、主の裁きを自分のことのように受け止めるからこのように疲れるのでしょう。
●12節.家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。
●13節.「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
●14節.彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。
主は、「家も畑も妻もすべて他人の手に渡る」と預言されています。
ユダに住むほとんどの人々が、バビロンに捕囚されるのですから、その通り実現するのです。
「わたしが手を伸ばすからだ」は、この災禍は主の裁きであることを明確にしています。
そして、その裁きが、「家も畑も妻も」と特に記載していますが、このように民の財産にまで及ぶとするのは、彼らが所有欲に取りつかれているからと思います。(13節)
13節にあるように、預言者や祭司という民の宗教的指導者たちでさえ、例外ではないのです。
特に、預言者たちは、決して平和(平安)を語れないときに、平和を語り、救済を約束し、内的にも外的にも深い深刻な状況から聴衆の目をそらしていました(14節)。ユダはこの時一時的に(アッシリアからバビロン帝国の勃興の間)平和な時代であったので、民は偽預言者の言葉に踊らされ、平和に酔っていたのでしょう。
アッシリアが衰退して、政治情勢が明るくなってきたかのように誰もが思っていた中での事です。
まさに偽預言者が活躍していたことが明確に記載されています。
ユダは、もはや通常の処方箋では回復不可能な状態、徹底した堕落の状況にあったので、もはや警告とか鎮静剤程度の処方では癒すことが出来ない状態っであったのでしょう。
ちなみに、紀元前587年にエルサレムはバビロンによって陥落し、その年の5月に第一次バビロン捕囚で、ユダの陥落とバビロン捕囚が預言されたのが紀元前597年以前です。
●15節.彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/わたしが彼らを罰するとき/彼らはつまずく」と主は言われる。
ユダの民は 「忌むべきことをして恥をさらした。」とありますが、それは、忌むべきことをしているのに「恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。」状態であったのです。
だから、「彼らを罰するとき/彼らはつまずく」ですから、主の裁きによって間違っていることにやがて気が付きつまずくのです。
しかし、それもやがて正しい道に戻るために必要なことであるのかもしれません。
●16節.主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。
「さまざまな道に立って、眺めよ。」ですが、多くある道の中でどの道を選ぶべきかということでしょう。どの道を選ぶべきかは、エレミヤは民にゆだねています。
頭ごなしに決めつけて、こう歩めといわれても、人はなかなか納得ができないからでしょう。
この場合の様々な道とは、ユダの人々にとって、彼らに伝えられてきた歴史と伝承されてきたものでしょう。
「昔からの道に問いかけてみよ」ですから、今の状況の中で、歴史と伝承を鏡に、自己を映し、これでよいか問いつつ生きることを人々に求めるのでしょう。そうすることによって、エレミヤは、「幸いに至る道」を見出し、「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」と語るのです。
それは、エレミヤ自身が試行錯誤しながら得た「魂に安らぎ」を得る道であったのでしょう。
どの道かを選ぶときに気を付けることは、「眺めよ」「昔からの道」「幸いに至る道」「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」の四つです。
なお、「眺めよ」は、偽預言者の言葉を鵜吞みにして、自分で何が正しいかを見ようとしないことへの警告でしょう。
自分の目を使い、自分の耳を使い、自分の理性を使い、自分自身での目で判断せよということでしょう。
「昔からの道」は、複数形ですから、それらを尋ねて、幸いな道を見出せということでしょう。
「幸いに至る道」は単数形ですから、ただ一つの道です。
つまり、善の道、良い道であり、それを多くの道から選択しなければならないということでしょう。
この道は、モーセ律法を指すのでしょうか。
ヨシヤ王は神殿の改築をしていた時に、このモーセ律法を発見して、驚き宗教改革をしたそうです。
しかしこの時の民は、「そこを歩むことをしない」と拒否しています。
「その道を歩み、魂に安らぎを得よ」のその道とは神の律法に従って歩む道でしょう。
しかし当時は、まだ神の律法はまだ発見されていない時でした。
「魂に安らぎを得よ」は、主の律法の道を歩んで、「魂に安らぎを得よ」とありますが、この「魂に安らぎ」は、その祝福は神によって与えられるものですが、それを見いだすように尋ね求めるのは民の責任です。」だから自分で「得よ」と命令されているのでしょう。
ところが、ユダの人々はそれ「幸いに至る道」を「そこを歩むことをしない」と拒否したのです。
●17節.わたしは、「あなたたちのために見張りを立て/耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。しかし、彼らは言った。「耳を澄まして待つことはしない」と。
主は、 「耳を澄まして角笛の響きを待て」と言われています。
「角笛」は、人々に注意を引き寄せるために鳴らされるものですが、ここでは預言者の声を表しているのでしょう。
これも、「耳を澄まして待つことはしない」と拒みました。
●18節.「それゆえ、国々よ、聞け。わたしが彼らにしようとすることを知れ。
●19節.この地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。それは彼らのたくらみが結んだ実である。彼らがわたしの言葉に耳を傾けず/わたしの教えを拒んだからだ。
「国々よ、聞け」ですから、主はエレミヤをもって、あらゆる異邦の国々の人々にも、ご自分がユダに「しょうとすることを知れ」と、呼びかけておられます。
ユダヤ人たちに何が起こるかを見ていなさい、と言われているのでしょう。
そして、それは、「彼らのたくらみが結んだ実である。彼らがわたしの言葉に耳を傾けず/わたしの教えを拒んだからだ。」とされています。
もちろん、この言葉はユダがバビロンによって滅び、民の多くがバビロンに捕らえ移されることを指すのです。
●20節.シェバから持って来た乳香や/はるかな国からの香水萱が/わたしにとって何の意味があろうか。あなたたちの焼き尽くす献げ物を喜ばず/いけにえをわたしは好まない。」
●21節.それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。父も子も共に、隣人も友も皆、滅びる。」
「シェバ」は、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りだそうです。
あの有名な「シェバの女王」の国です。
「あなたたちの焼き尽くす献げ物を喜ばず/いけにえをわたしは好まない。」とありますから、ユダの人々は異教の神々の偶像礼拝をしていても神殿礼拝をやめたわけではなかったのです。
それは、昔からの習慣で、律法に書かれているから行っているだけで、中身がなく形骸化していたのでしょう。
また、南アラビアのシェバから持ってきた「乳香」や、遠い国から取り寄せた高価な「香水萱」などの品々も主は「わたしにとって何の意味があろうか」と、主はこのような物で、すなわち、贈り物を持って神の心を動かそうとするどんな試みをもきっぱりと拒絶されています。
その結果、主は、それゆえ「見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。父も子も共に、隣人も友も皆、滅びる。」(21節)と宣言されます。
この「つまずく」というのは、22節にある「北の国から来る。大いなる国」ですから、バビロンです。
●22節.主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の国から来る。大いなる国が地の果てから奮い立って来る。
●23節.弓と投げ槍を取り、残酷で、容赦しない。海のとどろくような声をあげ、馬を駆り/戦いに備えて武装している。娘シオンよ、あなたに向かって。」
「一つの民が北の国から来る。大いなる国」は、バビロンを指すのですが、彼らは「残酷で、容赦しない。」ですから、彼らは残忍で、情け容赦なく攻め寄せてきます。
彼らは「とどろくような声をあげ、馬を駆り」攻め寄せてくるのです。
●24節.我々はその知らせを聞き、手の力は抜けた。苦しみに捕らえられ/我々は産婦のようにもだえる。
「その知らせ」は、バビロンが「海のとどろくような声をあげ、馬を駆り」攻めてくることを聞いたユダの民は、「手の力は抜けた。苦しみに捕らえられ/我々は産婦のようにもだえる。」とありますから、彼らは、そのうわさを聞いて、恐怖に取り囲まれ、気力を失い、苦しみに悶え、産婦のような激痛が走ったのでしょう。
●25節.「野に出るな、道を行くな。敵は剣を取り、恐怖が四方から迫る。
●26節.わが民の娘よ、粗布をまとい/灰を身にかぶれ。独り子を失ったように喪に服し/苦悩に満ちた嘆きの声をあげよ。略奪する者が、突如として我々を襲う。」
25節は、バビロンが攻めてくる様子を描いているのでしょう。
26節には、それは「独り子を失ったよう」と表現されていますが、最悪の悲しみを表しているのでしょう。
当時、名を残し血統を残すことが大切なことでしたから、それができなくなるのです。
主はユダの民を「わが民の娘よ」と呼ばれています。
ユダがかよわく無防備な存在として、残忍さを極めるバビロンの軍隊が襲って来るのです。
●27節.わたしはあなたをわが民の中に/金を試す者として立てた。彼らの道を試し、知るがよい。
ここは主がエレミヤに「わたしはあなたをわが民の中に/金を試す者として立てた。」と言われています。
この「金を試す者」とは、主の御言葉を彼らに語りかけ、「彼らの道を試し、知るがよい。」、ですから、彼らが自らを御言葉に照らし、どうするのか試しなさいということでしょうか。
エレミヤは、御言葉を語り、その言葉を受け止める正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。
●28節.彼らは皆、道を外れ、中傷して歩く。彼らは皆、青銅や鉄の滓/罠を仕掛けて人を滅ぼす者だ。
エレミヤによって、主の御言葉を民に語り試しましたが、「彼らは皆、道を外れ、中傷して歩く。」、つまり、「義人はいない、一人もいない」です。
●29節.鉛はふいごで起こした火に溶ける。彼らも火で試されたが、空しかった。彼らの悪は取り除かれることがなかった。
●30節.捨てられた銀の滓、と彼らは呼ばれる。主が彼らを捨てられたからだ。
エレミヤは、御言葉で試しましたが誰も主の言葉を聞く者がいなかったので、今度は、彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。(29節)
29節の「ふいご」ですが、金属の精錬に使われる送風器のことでしょう。
火が激しく燃え、高温化し、それによって金属から不純物をあぶだすことによって精錬します。
エレミヤは彼らを懲らしめて(精錬して)悪いものを取り除こうと試みましたが、ダメでした。(29節)
いくら精錬しても、不純物、「銀の滓、」が残ったのです。
それゆえに彼らは、「捨てられた銀の滓」と呼ばれ、「主が彼らを捨てられた」ですから、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。(30節)
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