民の背信(8章)
聖書の箇所は、8章4節から13節です。
●4節.彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。
「起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。」ですが、この言葉は、人は倒れればすぐに起き上がるもの、誰でも「離れて」つまり、道に迷えばそれに気づいて、元の道に戻るものであるということを前提に「彼ら」ユダの民に問いかけられています。
主はユダの民には律法を授けどうすれば罪になるのかを「定め」てられましたので、民は自らの罪について、充分知っているはずですが、民は、知っていながら、警告をしてもかくなに聞こうとしないで、神に背き続けています。
●5節.どうして、この民エルサレムは背く者となり/いつまでも背いているのか。偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。
主はユダの民に「いつまでも背いているのか。」と問い、それは何とも理解しがたい「偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。」民の姿でした。
「どうして」という問いは、かたくなな民の背きに苦悩している主の言葉でありエレミヤの心の思いを描いているのでしょう。
主は、ユダの背信に対し裁きを下されましたが、主はここで、「倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。」と、背信者となっても、また起き上がればよいではないかと問われているのでしょう。
ユダがいつまでも主に背いているので、「いつまでも背いているのか。」と、ご自分に立ち返るのを待っておられるのでしょう。
「偽りに固執して」というのは、一度罪を犯したら、もう自分は主のもとに、すなわち歩むべき本来の道に戻ることはできないと、偽りの思いを信じ込んでいたのでしょう。
エレミヤは歩むべき本来の道を、民に見出してほしいと望んでいます。
●6節.耳を傾けて聞いてみたが/正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなく/わたしは何ということをしたのかと/言う者もない。馬が戦場に突進するように/それぞれ自分の道を去って行く。
「自分の悪を悔いる者もなく/わたしは何ということをしたのかと/言う者もない。」ですから、ユダの民は自分たちは罪を犯したのでもう駄目だと信じ込み、自分の行いを悔いて主に立ち返ることをあきらめているのか、立ち止まろうともしないで、猪突猛進、周りが見えていない状態です。
「耳を傾けて聞いてみたが」というエレミヤの言葉は、期待を込めてエレミヤは民の悔い改めの声が聞けるかどうか、耳を傾けて聞いていたのでしょう。
しかし聞こえるのは、そのような声ではなく、「自分の悪を悔いる者もなく/わたしは何ということをしたのかと/言う者も」なかったのです。
彼らは悔い改めへの言葉を発する代わりに一方向に走り出した軍馬がとまらないことに例えて、「馬が戦場に突進するように/それぞれ自分の道を去って行く。」、すなわち、このように抑制のきかない彼らの罪を描いているのでしょう。
人間は、自分たちかを創造した神から離れ、理性の判断を持たない、渡り鳥でさえ、造られたままその本能にしたがって、神が定められた自然の秩序に従い、自分たちの時を知り、いつも正確に自分たちの故郷に立ち帰るのに、神の言葉を与えられ、本来神に従うべき性質を持ち、導かれているはずのユダの民(この場合イスラエルか)がこれを忘れているのか、知ろうとしないのか、エレミヤには理解しがたいことであったのでしょう。
罪というものは、こうゆうものなのでしょうね。これを罪の法則というものでしょうか。
ましてや、神からの離反ということに留まらないで、神の定めた本来の律法を捩じ曲げて偽りの律法を捏造し、神学的・信仰的な言い訳を正当化することなど言語道断です。
それによって、悔い改めへのいかなる警告をも聞かなくなり、耳をふさぎ目をつむり軍馬のごとく罪の道を猪突猛進、ただひた走るのです。
●7節.空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。
「空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。」ですが、動物とか自然界は神の創造時に与えられた法則のまま生きて、動いています。
それなのに、「わが民は主の定めを知ろうとしない。」と嘆いておられます。
「主の定め」ですが、主の支配の創造の御計画を知らず、悔い改めようともしないことへの驚きの言葉でしょう。
この世界は、主が統治されているのですが、その在り方は決して専制君主のようなものではなく、愛と憐れみに満ちています。
そのことを神の民は知らないと言っているのでしょう。
●8節.どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で/主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き/それを偽りとした。
ここは神殿の書記官たちに対する言葉でしょう。
「主の律法を持っている」というのは、その律法の解釈をするということでしょう。
そのような役目をしている書記官が、後に「律法学者」と呼ばれるようになったそうです。
彼らは確かに「律法を持って」いました。それは創世記から申命記までのモーセ五書のことでしょう。
彼らは律法を持っていて、かつその律法は誤りの無い神の御言葉だと信じて解釈していたが、その御言葉を、確信をもって受け入れ、それに従って生きているかどうかはまた別問題です。
ましてや、その解釈が「偽る筆」ですから、自分たちの行いを正当化できるように、律法を盾にとり歪曲されるならば、とんでもないことです。
ただし、神と民との人格的な関係を基礎づけるのは、主の言葉だけです。
主の言葉こそ、信仰と行為の唯一の源泉です。
主の言葉を欠く、あるいは主の言葉にとって変わる、どの様な人間の知恵による言葉も、真の信仰を生むことはないと思います。
●9節.賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら/どんな知恵を持っているというのか。
「賢者は恥を受け」の「賢者」は、バビロンは自分たちを攻めることはない、律法を持っているから大丈夫、神殿があるから自分たちは大丈夫だと思っていた人たちを指し、その者たちが「打ちのめされ、捕らえられる」ですから、滅ぼされバビロンに捕らえられ連れ去られるという預言でしょう。
バビロンに捕え移されていくので「恥を受け」るのです。
「見よ、主の言葉を侮っていながら/どんな知恵を持っているというのか。」ですが、主から離れ主の言葉を侮って、どこに知恵があるというのか、ということでしょう。
●10節.それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に渡し/彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
10節から12節は、大体6章12-15節と同様の内容です。
繰り返しているのは、ユダの民を威嚇する内容ですが、それだけ重要だということでしょう。
●11節.彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに「平和、平和」と言う。
アッシリアからバビロンへの支配国の権力移行期で一時的な平和状態にあるのに、ユダの民は根拠もない自信をもって、つまり、主の民だから、契約の民だから滅ぶことはないといって、神殿と偶像礼拝にすがり、支配者も預言者も「平和、平和」といって、能天気に暮らしていたのです。
●12節.彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと/主は言われる。
「忌むべきことを」は、7章9から10節で、主の名によって呼ばれる神殿みおいて、盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従い、主の前に立ち、『救われた』といって、あらゆる忌むべきことをして、主の神殿を強盗の巣窟(7章11節)にしてしまったことを言っているのでしょう。
「人々が倒れるとき、彼らも倒れ」は、ユダの民だから、契約の民だから倒れないという考えは誤りだといているのでしょう。
神を知らない異教徒と同じようにユダの民も倒れてしまうのです。
●13節.わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。
この預言は、内容からエホヤキム時代(前608-598)のものと思われています。
ここは9節の「主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っていると言えるのか」との問いに、ぶどうの木といちじくの木の不毛を例えにして答えているのでしょう。
「彼らを集めようとした」というのは、実った彼らを刈り入れしょうとしたが、しかし、「ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。」ということでしょう。
「わたしが与えたものは/彼らから失われていた。」というのは、エルサレムの民が人間の知恵で考えた(モーセ五書とは違う)自分たちに都合よく解釈した律法で、神への信仰を代用し、それでもって真の神の言葉を語る預言者を追っ払ったその「知恵」は、実は、主が裁かれるときには「ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。」ですから、何の実をも結ばない、何の役にも立たないものでしかない、といわれているのでしょう。
ユダの民の、主に立ち帰ることのない背信の罪の悲惨さを明らかにし、豊かな実を結ぶことを期待したのに、それを得られなかった農夫の深い主の悲しみを連想させます。
参考箇所は、イエスが述べられたいちじくの木ののろいの言葉と本質において同じなのでしょう。(ルカの福音書13章6節から9節)
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