フォト
2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

« 2022年11月 | トップページ | 2023年1月 »

2022年12月の記事

2022年12月12日 (月)

憤りの杯(51章)

聖書の箇所は、51章17節から23節です。
●17節.目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。

 

9節でエルサレムの残りの民が、主の御腕に向かって「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。」と、叫んでいましたが、ここでは「目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。」と、主が叫んでおられます。

 

このように主が叫んでおられるのは、エルサレムが、自分たちの置かれている状況をよく理解していなかったからでしょう。
それはどのような状況であったのかを見てみますと、「主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。」とありますから、これは、神のさばき、神の懲らしめのことを指している、つまり、バビロン捕囚のことでしょう。

 

 

続きを読む "憤りの杯(51章)" »

主は王となられる(52章)

聖書の箇所は、52章1節から12節です。
イザヤ書は、前にも書きましたが、下記の通り三つに区分けすることができます。第一イザヤ(1~39章)、バビロン捕囚前にエルサレムでの40年間の預言で、主の懲らしめと裁きが中心に描かれています。

 

第二イザヤ(40~55章)、バビロン捕囚地での預言で、慰めと回復のメッセージです。
第三イザヤ(56~66章)、バビロン捕囚から帰還後の預言で、慰めと回復のメッセージです。

 

この52章は第二イザヤで、49章から57章は、「主の僕の使命」について書かれています。
つまり、主はイスラエルの民の救いと回復を一人の「僕」を選ばれてなされます。

 

そして、その一人の「僕」が、後の新約聖書のイエスの物語とヨハネの黙示録をこのイザヤの預言の成就として読むと、明らかにイエス・キリストを預言しているので、神の歴史は完結するのです。

 

 

 

続きを読む "主は王となられる(52章)" »

主の僕の苦難の死(52章)

聖書の箇所は、52章13節から53章12節です。
人の子として生まれた僕(49章1節)は、50章4節と6節「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」のです。

 

まさにその後の歴史上の出来事である新約聖書を読むと、この個所はイエス・キリストの誕生の預言となり、ほかには考えられません。
イエスの弟子、福音書の記者は、このイザヤの預言を読み福音書とか手紙類を書いたと思いますが、それはイエスの行いとイザヤの預言があまりにも酷似していたからです。

 

ここまでの第一から第四までの「主の僕の歌」の主題は以下の通りです。
主の僕の歌、第一は「主の僕の召命」は、歌い手は主で、主の言葉を実現することによって、地に「公義を打ち立てる」ことです。(42章1~9節)

 

 

続きを読む "主の僕の苦難の死(52章)" »

2022年12月16日 (金)

新しい祝福(54章)

聖書の箇所は、54章1節から17節です。
52章の「シオン(イスラエル)に対する主の慰め」のメッセージが、再び、この54章において語られます。

 

もちろん、ここで語られている預言は、イスラエルがバビロン捕囚から解放されて実現するのではなく、終わりの日のメシア再臨によって世界が統治され千年王国が樹立されるときにイスラエルの民に実現することです。

 

そして、主の預言に気が付き、すでに「主の僕」によって贖われていることにイスラエルの民が気づいて神に立ち返るのが、終わりの日のキリスト再臨の直前だということです。

 

 

続きを読む "新しい祝福(54章)" »

御言葉の力(55章)

聖書の箇所は、55章1節から13節です。
この章に出て来る「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」「脂肪」は、文字通りのものではなく、霊的なものと解するべきでしょう。

 

これらは神から派生して私たちに与えられるものですから、霊的なもので「良いもの」(2節)であり、人の「魂に命を得よ」(3節)ですから、命を与え喜ばせるものとなります。

 

すなわち、「水」は、通常聖書では聖霊を表すと思いますが、真理とか神の御言葉と同義だと思います。
「水のところに来るがよい。」は、3節の「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」とつながるのでしょう。

 

 

続きを読む "御言葉の力(55章)" »

2022年12月21日 (水)

異邦人の救い(56章)

聖書の箇所は、56章1節から8節です。
1から8節では、神は新しい神の民(異邦人)に対して、「正義を守り、恵みの業を行え、安息日を守ってこれを保つよう」(1節と2節)呼びかけています。

 

そして、「わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」と約束されています。

 

 

続きを読む "異邦人の救い(56章)" »

神を恐れぬ者(56章)

聖書の箇所は、56章9節から57章13節です。
●9節.野のすべての獣よ、森のすべての獣よ/食べに来るがよい。

 

9節から12節は、イスラエルの指導者の倫理的堕落を指摘しています。
この個所を終わりの日のイスラエルの姿だと解釈する方もおられますが、わたしは、バビロン」捕囚から解放されたのちのイスラエルの姿だと思います。

 

この個所は、バビロン捕囚から解放され、エルサレム帰還も果たし希望をもって再出発したはずのイスラエルでしたが、事は順調に運びませんでした。

 

エルサレムの再建を望まないサマリヤ(異邦人の宗教が入ってきていた)の抵抗にあい、また、王制を復興することを望まないペルシャの方針とも対立して、イスラエルの再建は遅々として進みません。

 

 

続きを読む "神を恐れぬ者(56章)" »

2022年12月25日 (日)

へりくだる者の祝福(57章)

聖書の箇所は、57章14節から21節です。
14から15節、18から19節は、神の終わりの日における救いを呼びかけているのでしょう。
主が呼びかけている対象は、義人や誠実な人たちであり、主に「身を寄せる者」(13節)たちであり、また、「心砕かれて、へりくだった人」(15節)たちです。

 

そして、主は彼らに向かって「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。」(14節)と仰せられます。
これは、バビロン捕囚からの帰還のことではなく、終わりの日に訪れる究極的な救いという次元において呼びかけられているのでしょう。

 

●14節.主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。

 

 

続きを読む "へりくだる者の祝福(57章)" »

神に従う道(58章)

聖書の箇所は、58章1節から14節です。
●1節.喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。
●2節.彼らが日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。

 

主は。イスラエルに対して、「喉をからして叫べ」「その罪を告げよ。」と言われているのでしょう。
58章から再び新しい部分に入ります。それは「救いの完成」です。

 

ヨハネの黙示録の最後の部分とよく似ていますので、イザヤが預言したことをヨハネが幻の中で確認したということでしょうか。
それはエルサレム、栄光に輝くシオンの姿です。

 

 

続きを読む "神に従う道(58章)" »

救いを妨げるもの(59章)

聖書の箇所は、59章1節から21節です。
イザヤは、58章でイスラエルの問題について、彼らの信仰は形だけで中身がなかった、すなわち、行動が伴っていなかったとし、この59章ではその根本的な問題を取り上げています。

 

イザヤ書59章には、神と人とを隔てる罪、神の救いを妨げる罪とそれを贖う方が、神に立ち返る者のところに来て、新しい永遠の契約を結ぶことが語られています。

 

大切なのは、形式的・表面的な宗教行為で罪を帳消にしょうとするのではなく、その人間が神に立ち返るためには、内からの促し、すなわち、神からの霊と御言葉が不可欠であるとされています。

 

いったいどうしたらこの罪の問題を解決することができるのかですが、それはただ神の御手の中にあるということでしょう。

 

 

続きを読む "救いを妨げるもの(59章)" »

« 2022年11月 | トップページ | 2023年1月 »