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2022年10月17日 (月)

神の世界審判(イザヤ24章)

聖書の箇所は、24章1節から23節です。
24章では、イザヤの預言は、周辺諸国にとどまらず全世界に及びます。
そうです、主が南ユダと周辺諸国に行なわれたことが、全世界の規模で同じように行なわれるのです。

 

そして、それは、「その日」、つまり、終わりの時に主が行なわれることです。
ですからこの24章から27章は「イザヤの黙示録」ともいわれている箇所です。
もう一度確認しますが、イザヤが「その日(には)」という語句をもって語る内容は、さほど遠くない将来から、歴史における「終わり」の時、つまり、終末に起こる出来事をも含んでいます。

 

 

なお、「見よ」という語句もイザヤ書では「その日」と似た意味をもって使われています。
しかし、この24章の終わりの日の神の世界審判を語る未来の預言ですが、紀元1世紀末ごろに著されたヨハネの黙示録にそっくりです。

 

●1節.見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。

 

「見よ」ですから、終わりの日の大患難時代に関する預言が始まります。
4節まで続くのですが、1節には「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。」とあり、4節には、「地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。」ともにしおれる。」とあります。

 

ここでの「地」は、全世界「全地」とも訳せるそうです。
と言うことは、全世界の政治、宗教、社会すべての制度の崩壊を意味しているのでしょう。
神のさばきは社会的地位や富の有無にかかわりなく、あらゆる社会の階層に及ぶのです。
ちなみに、4節のすべての動詞は、預言的完了形で記されているそうです。

 

つまり、それは必ず起こることを意味すると言うことです。
新約聖書の類似カ所を記載しておきます。

 

〇マタイの福音書24章21節と22節「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」

 

〇黙示録6章12節から14節「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。」

 

●2節.民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も/売る者も買う者も、貸す者も借りる者も/債権者も債務者も、すべて同じ運命になる。

 

全世界で起こる天変地異は、すべての人に平等に訪れ「すべて同じ運命になる。」のです。
「その日」の大患難時代の7年間は、すべての人に平等に災害が望み、平等化が徹底的に行なわれます。

 

神の審判の前には、これら自分が持っている物、自分の能力、権力や財産などは全く意味が無くなるのです。

 

天変地異は、金持ちであろうと貧乏人であろうと関係ありません。地位が高い人でも低い人でも同じです。社会的な経済的な差別がなくなるのです。

 

このことは、裁きはそのような平等の上でなされると言うことでしょう。
すべての者は剥ぎ取られ、裸で人は主の前にへりくだり救いを求めることになるのでしょう。そして、裁きを待つのです。

 

これは能力の差、地位の差、財産の差に関係なく誰にでも出来ることです。
もちろんこのことは、神のさばきだけでなく、神の救いにも言えることです。

 

●3節.地は全く裸にされ、強奪に遭う。主がこの言葉を語られた。

 

全地は天変地異により裸にされますが、「強奪に遭う」と言うのは、そのことによって、略奪されたときのように巨額の富が失われると言うことでしょう。

 

●4節.地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。
ここには「地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。」とあります。
天変地異によって世界中のすべての人たちの心がしおれ、衰えるようになるということなのでしょう。

 

●5節.地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。

 

私たちはしばしば、災難に、いや、戦争が起こると、「なぜ神はこんな酷いことを許されるのか。」と神を非難し、責めます。

 

その上でこのような事態にどのような意味があるのだろうと考えるのです。
その答えがこの5節に書かれています。

 

「彼らが律法を犯し、掟を破り/永遠の契約を棄てたからだ。」です。
それにこの地球を私たちは汚したので天変地異が起こったのです。

 

神は、この地を祝福し、地にあるすべてのものを良いものとしてお造りになりました。
これを汚したのは人間であり、それは創造者の意に沿わないことですから、人間の罪です。

 

●6節.それゆえ、呪いが地を食い尽くし/そこに住む者は罪を負わねばならなかった。それゆえ、地に住む者は焼き尽くされ/わずかの者だけが残された。

 

「地に住む者は焼き尽くされ/わずかの者だけが残された。」ですが、黙示録を読むと、地上の住民の数が激減すると書かれています。

 

封印が解かれると、剣や飢饉や疫病によって四分の一が死に、ラッパの裁きでは、自然界の三分の一が滅び、水も汚くなるので多くの人が死にます。
そして底知れぬ所から悪霊どもが出てきて、騎兵のような悪霊が人類の三分の一を殺す、とあります。

 

さらに、殉教者も、すなわち、獣の刻印を拒む者は殺されることが書かれています。そして最後の鉢の裁きでは、これら獣の国の住民に太陽の光線で焼くことが許されますが、それにおいても大勢死にます。
最後はハルマゲドンの戦いで大勢死にます。

 

地の人々は、飢饉や疫病、あるいは自然の災害によって激減し、艱難時代を生き抜くのは、本当に僅かな人間です。

 

「それゆえ」とあるのは、この地に住む住人が、神との契約、とこしえの契約を破棄したと言うことでしょう。「呪い」とありますが、「それゆえ」、地の住民は減り、わずかな者が残される。」ということでしょう。

 

●7節.新しい酒は乾き、ぶどうのつるは枯れる。心の朗らかだった人々も皆、ため息をつく。
●8節.太鼓の音は絶え、陽気な人々の騒ぎは終わり/竪琴の音も絶えた。
●9節.酒を飲んで歌う人々もいなくなり/甘い酒も、飲んでみれば苦い。
●10節.混乱の町は破壊され/どの家も閉ざされ、入る者もない。

 

7節から13節は、この神のさばきの結果、この地はどのようになってしまうのかを記しています。

 

大患難時代で、人の価値観はすべて壊され、人々を平等にするだけでなく世の楽しみを無くします。
大事にしてきた財産を失い、大切な家族をも失い、人々の喜びは取り去られ、希望を失い、悲しみが覆うようになります。

 

「太鼓の音は絶え、陽気な人々の騒ぎは終わり/竪琴の音も絶えた。酒を飲んで歌う人々もいなくなり/甘い酒も、飲んでみれば苦い。」と言うのはそのことを言っているのでしょう。

 

●11節.巷には酒を求めて叫ぶ声がある。喜びはことごとくうせ/地上の楽しみは取り去られた。

 

「酒を求めて叫ぶ声がある。喜びはことごとくうせ/地上の楽しみは取り去られた。」とありますから、あるのは悲しみだけです。

 

●12節.都には荒廃だけが残り/騒ぎのうちに城門は打ち倒された。

 

「城門は打ち倒された。」とありますが、これは、当時城門は町の安全の要でしたから、城門が砕かれるということで、安全も失われるということです。

 

●13節.世界のただ中、諸民族の間で/オリーブを探して打ち尽くすようなことが/収穫の後になお/ぶどうを探すようなことが起こる。

 

「オリーブを探して打ち尽くすようなこと」と言うのは、イスラエルではオリーブやぶどうを収穫する時も、すべてを収穫しないようにという教えがありました。

 

貧しい人たちのために残しておくようにしなければならないと言うことです。
それは、貧しい人たちを救済するために神が定められた方法だったのです。

 

しかし、その貧しい人のために残すべきオリーブも、本当に僅か、わずかな者だけが大艱難を生き残り、残されるのです。

 

●14節.彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い/海から叫び声をあげる。
●15節.それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。
●16節.地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。しかし、わたしは思った。「わたしは衰える、わたしは衰える/わたしは災いだ。欺く者が欺き/欺く者の欺きが欺く。」

 

「彼ら」とは、いわゆる「残りの者たち」のことでしょう。
ヨハネの黙示録7章9節から17節において、大患難から抜け出て来た人たちが、大喜びで主を賛美している姿を見ることができます。
その人たちは、あらゆる国、民族、国語から来た人々で、艱難時代における神の激しいさばきが行われる中で、悔い改め、主を信じて受け入れたがゆえに苦しみ、殺され、天に召された人々です。いわゆる残りの者たちです。

 

「わたしは衰える、わたしは衰える/わたしは災いだ。欺く者が欺き/欺く者の欺きが欺く。」ですが、これは、世界中から贖い出されて天で賛美している人たちがいる一方、地上ではそれ以外の人に対しさらに苦しみが続いているからでしょう。
その人たちは、滅びゆく命なのでしょうか。

 

一部の残りの者が救われることはすばらしいことですが、地上に残るその他の多くの人たちが苦しみ滅んでいくことを手放しで喜ぶことはできません。

 

もっと言えば、アダム以降キリストを知らないで死んでいった多くの人々はどのようになるのでしょう。

 

その人たちが救われない限り、救われた残りの者ももろ手を挙げて神を賛美し、喜ぶわけにはいかないでしょう。

 

もし、そうでないのならば、隣人を自分のように愛しなさいと言われたイエス様の命令と矛盾するのではないでしょうか。

 

それは、自分だけ助かればよいと言う最悪の状態を神が認めたことになります。
ですから、この箇所は、艱難時代に信仰を貫いた残りの者は救われて永遠の命にあずかるのは本当だとしても、その他の大多数の人々が救われないと言うことではないと思います。
そうでなければ、黙示録20章13節の「行いによって裁く」必要もなくなります。

 

艱難時代を生き残り、神を賛美している残りの者も、すでに亡くなっている人々を含め、大多数の未だ救われていない人々の救いを必死で神に願い祈り求めることでしょう。それでこそ、キリストの愛に沿うものだと思います。、

 

●17節.地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。
●18節.恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み/穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。

 

この箇所を一言で言えば、だれも神のさばきから逃れられないということです。
艱難時代の神の裁きから逃れようとしても、隠れる場所がなく、逃れる場所がありません。
というのは、「天の水門は開かれ、地の基は震え動く。」からです。

 

「地の基が震え動く」とありますが、地軸が動き、気候変動が起こったり、地殻変動が起こったりするわけです。
地軸が少しずれるだけでこの地球に大きな影響がもたらされます。多く人たちが逃げようとしても、逃げられないほどの災害が起こるのです。

 

●19節.地は裂け、甚だしく裂け/地は砕け、甚だしく砕け/地は揺れ、甚だしく揺れる。
●20節.地は、酔いどれのようによろめき/見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く/倒れて、二度と起き上がることはない。

 

「地は裂け、甚だしく裂け/地は砕け、甚だしく砕け/地は揺れ、甚だしく揺れる。」ですから、ものすごい規模の地震です。
地震で地球の基軸そのものが揺らぐのでしょう。(ヨハネの黙示録16章18節参照。)

 

●21節.その日が来れば、主が罰せられる/高い天では、天の軍勢を/大地の上では、大地の王たちを。
●22節.彼らは捕虜が集められるように、牢に集められ/獄に閉じ込められる。多くの日がたった後、彼らは罰せられる。

 

「その日」は、艱難時代を指すのでしょう。
「天の軍勢を/大地の上では、大地の王たちを。・・彼らは罰せられる。」ですから、神は罰せられる、そう、艱難時代の最後に起こることが書かれているのでしょう。

 

それは人類最後の戦いです。この戦いをハルマゲドンの戦いと呼んでいます。
この戦いで、神は、天の大軍と地上の王たちを罰せられるわけです。
もちろん天の大軍というのは、サタンを頭とする悪霊の勢力のことです。

 

このことによって死んだ地上の王たちは、「牢に集められ/獄に閉じ込められる。」ですから、地獄でなく陰府に下るのです。
悪魔は、黙示録20章3節によれば「底なしの淵」に投げ入れられ、そこで千年(多くの日がたった後のこと)が終わるまで、閉じ込められます。
けれども千年後に解き放たれます。

 

そして多くの者たちが惑わされ、ともにエルサレムを取り囲みますますが、天からの火が来て、彼らを焼き尽くします。
その後は、「火と硫黄の池」に、偽預言者と反キリストと共に投げ込まれます。

 

●23節.月は辱められ、太陽は恥じる/万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり/長老たちの前に、主の栄光が現されるとき。

 

ここは比喩的表現です。
神の栄光があまりにも明るく輝いているので、「月は辱められ、太陽は恥じる」ですから、その輝きは月や太陽の光が負けてしまうほど、という意味でしょう。

 

「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり」ですから、再臨されたキリストは、エルサレムに戻ってこられて王となり、そこから世界を統治されます。

 

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