イスラエルの贖い(2)(44章)
聖書の箇所は、44章1節から8節です。
●1節.そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。
●2節.あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。
主は、イスラエルを、「わたしの僕ヤコブ」「わたしの選んだイスラエル」、そして「イスラエル」が「エシュルン」と言い換えられます。
この「エシュルン」というイスラエルの呼び名は、イスラエルの愛称(雅名)だということです。
申命記32章15節とか同33章5節と26節でもその愛称で呼ばれています。
この「エシュルン」の語源は、真っ直ぐにする、正しく考える、物事を正すといった意味の動詞「ヤーシャル」から来ているそうです。
その意味から見ると、現実のイスラエルにはほど遠い存在です。
しかしイスラエルは、「あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主」とあるように、神に特別に愛された存在です。
イスラエルが形つくられる時から、いや、母の胎内にいるときから、主がイスラエルを支えておられるのです。
だから、「あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、」と、保証されているのです。
現実のイスラエルは、とても物事を正す存在とは言い難いので終わりの日のことだと思いますが、ここでは「真っ直ぐ」を意味する「エシュルン」と呼ばれているのです。
●3節.わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。
●4節.彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。
ここは「乾いている地に水を注ぎ・・あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ」とあるように、」水の注ぎと主の「霊」の注ぎについて言及しています。
「水」と「霊」ですが、両者には密接なつながりがあります。
すなわち、水は人間の肉体にとって、命を支えるのに必須のものです。御霊は私たちに霊的な命を与えられます。
すなわち、人間は肉体と霊とからなるのです。
ここは、新約聖書を信じるキリスト者にとっては、「あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ」ですから、主が約束された聖霊降臨(使徒言行録2章)についての預言であると考えます。
この「あなたの子孫」は、イスラエルの信仰を引き継いだキリスト者を指すと考えます。
それは、仮庵の祭りの最終日にイエスはこの個所を引用して弟子に対し、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水の川となって流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7章38節)と言われているからです。
といっても、一義的には終わりの日の千年王国におけるイスラエルの回復を指すのでしょう。
「乾いた土地に流れを与える。」は、干からびた土地に主の霊が注がれ、世界中に離散していたイスラエルの民が故国に帰って住み着くことを預言しているのでしょう。
今のイスラエルは、1948年に建国以来、ユダヤ人たちは世界中からイスラエルの地に帰って来ていますが、彼らは未だ「主の霊が注がれ、」生き返ったとは言えません。
ですから、この預言は、メシア王国(千年王国)において実現される預言と考えます。
●5節.ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。
ここも単に荒野に水が湧くことだけでなく、御霊が注がれる約束でしょう。
無力で、ちっぽけな存在であっても、聖霊によって命と力を受け、ある者は「わたしは主のもの」と言い、ある者は「ヤコブの名を名のり」、またある者は手に「主のもの」と記し、「イスラエル」をその名とするようになるのです。
これはまさに御霊なる主の働き以外の何ものでもありません。
●6節.イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。
「イスラエルを贖う」は、イスラエルをエジプトから救い出したように、バビロンからも解放してくださる方ということでしょう。
もちろん、ひいては、終わりの日の千年王国においてイスラエルは回復するという預言になります。
「万軍の主」は、神の絶対的な力と権威がこめられた表現で、つまり万軍の主がその全能の力をもってイスラエルを救ってくださるということになります。
「わたしは初めであり、わたしは終わりである」は、「イスラエルの王である主」は永遠に生きておられ、初めから、終わりまで、この歴史を支配しておられる方であると主張しているのです。
イエスがヨハネの黙示録の中で、「わたしは初めであり、終わりである」と言われましたが、同じことで、つまり自分は神ご自身だといわれているのです。
なお、「イスラエルの王である主」の「主」は、太字の主だそうです。
新改訳聖書でこのように太字になっている時は、これが主の個人名であることを表しているということです。それは、「ヤーウェー」という名です。
●7節.だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
イスラエルの主は、6節でご自分を「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」と言われましたが、ここではさらに、「わたしに並ぶ者がいるなら・・競ってみよ」と言われます。
その証拠として、主は、「とこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。」と言われているのです。
未来のことを告げることができる神こそ本当の神だと言っておられるのでしょう。
「とこしえの民」はイスラエルで、「しるしを定めた日」は、紀元前約2000年に、主がアブラハムを呼ばれて、約束されたそのことは、終わりの時に成就する事柄でした。(創世記12章2節・3節)
主は、アブラハムを選ばれて約束されたとき、つまり、その初めのときから、終わりのこと、すなわち、終わりの日の千年王国におけるイスラエルの回復を主は告げておられるのでしょう。
そんなことがお前たちにできるのか、と偶像(偶像を信じる民に)に問いかけておられるのでしょう。
●8節.恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
主が、イスラエルに向かって言われています。
「恐れるな、おびえるな。」、昔から約束していただろう。それをわたしは必ず果たす。あなたたちはその約束したことが成就するのを見る証人となる、ということでしょう。
このような神が、わたしをおいてあろうか、ということでしょう。
« イスラエルの贖い(1)(43章) | トップページ | 無力な偶像(44章) »
「イザヤ書を読む」カテゴリの記事
- .栄光の顕現(66章)(2023.01.03)
- 救いの約束(65章)(2023.01.03)
- 執り成しと嘆き(63章)(2023.01.03)
- 主の報復(63章)(2023.01.03)
- シオンの救い(62章)(2023.01.03)
コメント