フォト
2023年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« メシア、イエス・キリスト誕生の預言(イザヤ7章) | トップページ | イスラエルの贖い(2)(44章) »

2022年10月22日 (土)

イスラエルの贖い(1)(43章)

聖書の箇所は、43章8節から28節です。
●8節.引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。

 

これはイスラエルの民を指して主が言っておられるのでしょう。
イスラエル人はなおも「目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民」なのです。

 

けれども「引き出せ」ですから、離散した先から連れ出されるのです。
この引き出せは、主が一方的に、離散したユダヤ人をイスラエルの地に引き戻されるということでしょう。

 

 

●9節.国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ/初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し/聞く者に、そのとおりだ、と/言わせうる者があろうか。

 

「国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ・・自分たちの証人を立て」ですから、場所は法廷を想定しているのでしょうか。
諸国の民が傍聴席で、ユダヤ人が証人台に立たされているのでしょう。

 

問われていることが、「このことを告げ/初めからのことを聞かせる者があろうか。」ですから、離散したユダヤ人がイスラエルの地へ帰還することを指すのでしょう。

 

主は、それはわたしが前もって話したことであり、他の神々がそのようなことを言っていたか、と証人に聞いているのでしょう。

 

●10節.わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。

 

9節の法廷での「わたしの証人はあなたたち」と主は言われていますが、この証人であるあなたたちというのは、「わたしが選んだわたしの僕」ですから、異邦人である私たちに語られた言葉ではなく、イスラエル人を指すのでしょう。

 

だから、イスラエル人、あなたがたはわたしの証人だ、と神がおっしゃっている のでしょう。
つまり、神が一方的にユダヤ人に働きかけて、ユダヤ人がそれを体験して、それで彼らが神を個人的に、人格的に知ることができるようにとされたのでしょう。

 

そして、ユダヤ人は主の諸国の民、異邦人に対する証人となるのです。

 

●11節.わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
●12節.わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と/主は言われる。わたしは神

 

主は、ユダヤ人自身が、主がどのような方かを証しする証人であるといわれています。
何を証しするのかは、この神が唯一の主(創造主)であるということ、この神こそ救い主であるということの二点です。

 

●13節.今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。

 

ここは、主のイスラエル回復は必ず行なわれます。誰もそれを止めることはできないということでしょうか。
ただし、「わたしこそ主」という訳は間違いで、新改訳の下の欄に直訳の「彼だ」が正しいということです。

 

つまり、英訳ではHe is.ですから、主がモーセに現れたときに、「わたしはある(I AM)」と言われたのと同じ表現だそうです。

 

●14節.あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神/主はこう言われる。わたしは、あなたたちのために/バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて外し/カルデア人を歓楽の船から引き下ろす。
●15節.わたしは主、あなたたちの聖なる神/イスラエルの創造主、あなたたちの王。

 

「バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて外し」は、クロス王が率いるペルシヤ軍によってバビロンが敗れることを主は語っておられるのでしょう。

 

「わたしは主」、つまり、「わたしは・・・である」という表現が再び使われています。
「かんぬき」は、町の門のかんぬきのことで、主は、バビロンの町の門のかんぬきを「すべて外し」、カルデア人(バビロン人)を引きずり出されるのです。

 

「カルデア人」を辞書で引くと、「新バビロニア (カルデア) 帝国を建設したセム系遊牧民の一つ。前1100年頃バビロニア南部に定着し,前8世紀末に部族統一国家を形成,前625年ナボポラッサルはバビロンで独立し,メディアと連合して,アッシリアの首都ニネベを前612年に陥れ,新バビロニア帝国を建設した。」とありました。つまり、バビロン人のことです。

 

●16節.主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方
●17節.戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。

 

16節と17節は、出エジプトが背景にあるのでしょう。
つまり、紅海を分け、その中にエジプト軍をおびき寄せ、その中でおぼれ死なせた、その力強い業を、バビロンに対しても行なうと宣言されているのです。

 

●18節.初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
●19節.見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。

 

18節は、昔の事を考えるな、と主はイスラエルの民に戒めておられるのでしょう。
彼らは「昔の事」、つまり、これからも虐げられ続けられると思っているのです。

 

昔がこうだったのだから、これからもそうであろうということです。
主は、そうではない、新しいことをする。

 

すなわち、「わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」と言われているのです。

 

●20節.野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
●21節.わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

 

「野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。・・」は、終わりの日の千年王国の姿です。いまだ実現していません。
新約聖書を読めば、その実現は、終わりの日のキリスト再臨を待たねばなりません。

 

イザヤ書には、こういう箇所が多いですね。新約聖書があって初めて預言されていることの意味が分かり、どのように実現するかが明らかにされているのです。

 

ただし、新約聖書が語る、終わりの日までの教会時代のことは何ら触れられていません。
そのように考えると、やはり、旧約聖書と新約聖書は、両方があって初めて意味を成すということです。
「わたしはこの民をわたしのために造った。」と、主はイスラエルに対し、その思いを語られています。

 

●22節.しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。

 

「ヤコブ」は、イスラエルの民ですから、「わたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。」とありますから、主がイスラエルの回復を預言されているのに、イスラエルの民はそれを重荷として応答していない悲しい姿があります。

 

主が、新しい事を行なう、と言われているのに、イスラエルの民は、それを呼び求めていないのです。
すなわち、今の状況に満足していて、それ以上、神を求める必要がないと感じているからか、今までの体験から神に不信感を持っているのです。

 

●23節.あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。
●24節.あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。

 

主は、イスラエルを選び、出エジプトでは「わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせ」、育て、教えてきた。
それでも、イスラエルは、「わたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。」ですから、悔い改めて、砕かれた心で自信を主にささげて、敬おうとしなかった、従わなかったということでしょう。

 

それどころか、偶像礼拝という罪を犯してしまうイスラエルに、主はいら立ちを覚えておられるのでしょう。

 

●25節.わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。

 

それでも主は、イスラエルを、「わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。」と、言われています。

 

彼らの偶像礼拝という行ないに関わらず、主が一方的に「背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。」と言われているのです。

 

「罪をぬぐい」の「ぬぐい」は、「赦す」という言葉と同じ言葉で、ただ赦すだけでなく、あなたの罪をもう思い出さないというのです。

 

●26節.わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。
●27節.あなたの始祖は罪を犯し/あなたを導く者らもわたしに背いた。
●28節.それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し/ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。

 

もし、一方的な憐れみにより罪を赦さなければ、「共に裁きに臨まなければならない。」とし、イスラエルの民に「自分の正しさを立証してみよ。」と言われます。

 

主は、「あなたの始祖は罪を犯し/あなたを導く者らもわたしに背いた。」ので、「わたしは聖所の司らを汚し/ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。」と言われています。

 

ですから、26節で「わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。」と語っておられるのです。

 

あなたの中に何か罪が赦されるための根拠があるというのなら、それを述べたてよというのです。

 

« メシア、イエス・キリスト誕生の預言(イザヤ7章) | トップページ | イスラエルの贖い(2)(44章) »

イザヤ書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« メシア、イエス・キリスト誕生の預言(イザヤ7章) | トップページ | イスラエルの贖い(2)(44章) »