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2022年10月17日 (月)

主の僕の召命(イザヤ42章)

聖書の箇所は、イザヤ書42章1節から9節です。
イザヤ書の四つの「主の僕の歌」の内、メシヤ、イエス・キリストの誕生を指す最初の歌です。
ここの特徴は、「預言者的しもべ」が強調されています。

 

●1節.見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。

 

イザヤ書40章以降、「僕」という語句がよく出てきますが、「彼」が単数形なので、
「わたしの僕」がイスラエルであれば、おかしくなります。

 

 

この僕は、ヤコブの時代ではわかりませんでしたが、神の僕で「わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」者ですから、メシヤ、すなわち、イエス・キリストの誕生を指すのでしょう。(参考箇所マルコの福音書1章11節、マタイの福音書12章17節から21節)

 

そして「彼は国々の裁きを導き出す。」の国々は、異邦の国々(イスラエル以外の異邦人の諸国)を指します。
このように、40勝以降、「島々」とか「国々」とか、「地の果て」とかの表現で、世界的な規模で神がご自分の事を行なわれることを指しています。

 

万物をお造りになられた方は、イスラエルだけでなくご自分が造られたすべての者に対して救いを用意しておられる、ということです。

 

このイザヤの時代には、この「わたしの僕」が誰だかわからないのは当然ですが、時代を送り、こうしてそれが誰だかわかるようになるのです。

 

ヨハネの黙示録も同じです。このイザヤ書には黙示録に出てくる出来事と見事に一致する出来事が、近未来をあるいは現在を語る中で突然預言として出てきますが、これも時代を送り、預言として詳しく語られ、やがてそのことが世の終わりに現実として実現するのでしょう。

 

こうしてみると、預言というものは、預言が語られた時代の人には、何を言っているのかわからなくても、時代を経て少しづつ明らかになっていくものなのですね。

 

●2節.彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。

 

ここはむつかしいのですが、ファリサイ派の人々が、イエスの活動を知り、恐れを覚えたのでしょうが、イエスをどのようにして殺そうと企んでいるのを知ってイエスは、そこを立ち去り、「ご自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われたことが実現するためであった。」(新約聖書マタイの福音書12章16節)
まさにそのことが、この42章1節から4節のことなのでしょう。

 

●3節.傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。

 

ここもむつかしいです。
折ることなく、と言っても、「葦」とは足のことではなく「葦」のことですから、風が吹くとすぐに折れてしまうような弱い植物です。

 

しかも「傷ついた葦」とありますから、傷ついて、いたんだ葦、今にも折れそうな葦です。
傷ついた、使い物にならない葦でも、「暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」ですから、煙しか出さない、くすぶっているランプの芯は、もう役に立ちませんが、だからといって、捨ててしまわないで、もう一度新しくしてくださるということでしょう。

 

なんだか、世の終わりの新しい人類の創造を思い浮かべます。
このようなキリストの姿は、イスラエルの敵どもをことごとく滅ぼす強さを表す預言もありますが、ここにあるように、力ではなく正義をもって裁かれる預言もあるのです。これがキリストの初臨(再臨は世の終わりに来られて世を最終的に裁かれます)で、へりくだった僕としての働きを表しているのでしょう。

 

●4節.暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 

ここは、やがて来られる「わたしの僕」、イエス・キリストの神の国を伝える宣教活動の姿を描いているのでしょう。

 

「暗くなることも、傷つき果てることもない」ということですから、ここはどのようにしてイエスが神の国を宣べ伝えたのかということでしょう。
イエスは公生涯の3年半の間、悪霊を追い出し、病人をいやし、神の国をちまたで宣べ伝えました。

 

イエスはどこかの新興宗教の教祖みたいに自分自身をひけらかしたり、人々を集めて大きな伝道集会をして献金を強制したりしませんでした。大きな教会堂も必要ありません。
移動は、ベンツではなく、かごでもなく歩きました。
イエスはただ名もなく貧しい12人を弟子に選び、彼らと生活を共にしながら神の国を宣べ伝えました。

 

彼らの多くは漁師たちで、無学で貧しい普通の人だったのです。中には元取税人もいました。熱心党員もいましたが、権力者とか、大富豪、有名な人はいませんでした。
そのような人々の集まりである地味な宣教活動でしたが、「暗くなることも、傷つき果てることもない」、つまり、途絶えることもなく、路傍で、木の下で黙々と行われたのです。

 

●5節.主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。

 

1~4節にある「僕の歌」に続いて、ここからは神が僕に対するかかわりとその務めの目的について、神ご自身が語っておられるのでしょう。

 

神はご自分が「天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与え」た者だといわれています。

 

宇宙も自然も、また植物の命も、また人間の生命も与えられました。そして肉体の命だけでなく、霊の命も与えられました。

 

●6節.主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。

 

「主」(創造主)が、「あなた」、つまり、「恵みをもって」メシヤキリストを召し、その手を取り、見守られます。

 

「民の契約」は、神と結んだ契約、アブラハム契約やモーセ契約などイスラエルとの契約を主のしもべが確かなものとすることを意味するのでしょう。

 

「国々の光」は、「民の契約」が確かなものとされることを通して、国々と訳された世界の異邦の国々(イスラエル以外の国)にも「光」(救い)がもたらされることを意味しているのでしょう。

 

なお「恵みをもってあなたを呼び」は、主が僕を「愛と信頼をもって呼んだ」と言い換えることができるということです。つまり、愛と恵のかかわりを「恵み」と解釈しているのです。

 

神がキリストを召されたいきさつを語っているのでしょう。
イザヤの時代のこの「わたしの僕」の預言が、なぜ、イエス・キリストを指すのかと問われそうですが、今日までの人類の歴史で出現したこの預言の通りの人物はイエス・キリスト以外にはないのです。

 

この預言のとおり、この預言から700年後に、神の子、救い主イエス・キリストがこの世に来られました。そして、神の国を延べ伝え、罪と無知の中に盲目となっていた人々を、キリストは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、罪を贖い、無知からわたしたちを解放してくださったのです。

 

●7節.見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 

「見ることのできない目」は盲人、「捕らわれ人」は、罪にとらわれた人、「闇に住む人」は、旧約時代の死者は、すべて陰府に言っていましたから、その人達を指し、その人たちをその牢獄から救い出すとされています。

 

●8節.わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。

 

「わたしは主」の「主」は新改訳では太字で、アルファベットのYWVHの四文字が使われていますから、「ヤハウェ」です。
意味は、「わたしは、あるというものである」、または「あってあるもの」という意味です。

 

つまり、他の何ものにも依存しない者という意味で、ただそれだけで存在することができる自存の神という意味です。

 

これがわたしの名であると、主(創造主)は言われます。
主は、「わたしは栄光をほかの神に渡さず」ですから、他に神と呼ばれる刻んだ像、偶像には渡さない、ということでしょう。

 

●9節.見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

 

「初めのこと」とは、それはイザヤを通して語られた神の預言のことだと思います。
それはすでに実現したので、主が新しいことを告げられます。
「新しいこと」は、この「わたしの僕」、すなわち、メシヤ(イエス・キリスト)が現れる預言でしょう。

 

 

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