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2022年10月 5日 (水)

諸国民の審判(41章)

聖書の箇所は、41章1節から29節です。
●1節.島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。

 

ここは、「島々」に対する主の呼びかけですが、島々とは、イスラエルから見た島々、それは地中海の島々のことでしょう。
呼びかけは、イスラエル以外の異邦の国々ですから、偶像礼拝の国々を指しているのでしょう。

 

「互いに近づいて裁きを行おう。」は、「国々の民よ、力を新たにせよ。」とありますから、力を新たにして(元気を出して)、「進み出て語れ」、ですから、「互いに近づいて裁きを行おう。」、で、論じあおうということでしょうか。

 

裁きの場で偶像を拝む諸国の民に、偶像の神と真のイスラエルの神を比較し、どちらが本物の神なのか、どちらが信頼に値する力ある神なのかをたがいに近づいて論じ合おうではないか、ということでしょうか。

 

 

●2節.東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き/国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。この人の剣は彼らを塵のように/弓は彼らをわらのように散らす。
●3節.彼は敵を追い、安全に道を進み/彼の足をとどめるものはない。

 

「東からふさわしい人」とは誰なのでしょうか。言語は単数形ですから、東から来るひとりの者とは誰なのでしょうか。
それは、イザヤ書44章28節と45章1節に出てくる「キュロス」ではということです。

 

そう、バビロンを崩壊させるあのペルシヤの王です。
ここは、ペルシヤの王「キュロス」が、周辺の国々をことごとく制覇していくのを預言しておられるのです。

 

なお、このペルシャのキュロス王の時代は、イザヤの時代よりも200年後ということです。調べてみると、このイザヤの時代、南ユダ王国はアッシリア帝国の攻撃を受け、まさに風前の灯火のような状況でした。

 

この時はまだ、ペルシャ帝国は起こっていません。
ペルシャ帝国は、イザヤの時代から200年も後です。
いま、南ユダを攻撃しているアッシリアの後に起こるのがバビロニヤ帝国で、バビロニヤ帝国によって南ユダ王国は滅ぼされ、バビロンへと捕らえ移されます。

 

そこでバビロンの奴隷として70年の時を過ごし、そのバビロンをペルシャ帝国が紀元前539年に滅ぼすのです。
そのペルシャ帝国の王がキュロス王ということです。

 

「東からふさわしい人」、すなわち、キュロス王によって、イスラエルはバビロン捕囚を解かれエルサレムへの帰還を果たします。
そのことがここに預言されているわけです。

 

●4節.この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。

 

「成し遂げた」は、過去形ですね。
しかし、後に続く言葉を読むと、未来のことでだと思います。

 

そう、未来のことですが、確実に起こるから、すでに起こったこととして預言されているのでしょう。
主がここでこのようなことを語られるのは、イスラエルの神と、そのほかの神々との違いを、すなわち、「この事を起こし、成し遂げた」ですから、まずご自分の創造を取り上げて、次に、「初めであり、後の代」ですから、ご自分の永遠性を取り上げて話されているのです。

 

この言葉は、ヨハネの黙示録1章8節でイエス・キリストのことを次のように語っていますが、よく似ていますね。意味は同じだと思います。

 

「神でおられる主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 

「この事を起こし」たのは、ペルシャのキュロス王ですが、その背後で「成し遂げたのは誰か」、すなわち、彼を導いておられたイエス・キリストだと言っているのでしょう。

 

この場合キュロス王はキリストの陰、型として描かれていて、本体はキリストなのです。
纏めると、神はペルシャの王であったキュロス王を起こし、バビロンを滅ぼし、神の民を捕囚から解放されましたが、それはやがて罪の奴隷の中にある人類を、悪魔を滅ぼし、罪から解放してくださる真の救い主イエス・キリストが来られるという預言ということになります。

 

それでは、この個所をなぜ黙示録と結びつけるのかは、それは、今までの人類の歴史の中で、該当する出来事は、キリスト誕生とヨハネの黙示録しかないからです。

 

●5節.島々は畏れをもって仰ぎ/地の果てはおののき、共に近づいて来る。
●6節.彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。
●7節.職人は金工を励まし/大鎚を振るう者は小鎚を使う者を励ます。ひとりが据え付けて、良しと言うと/ひとりは釘を打って動かないようにする。

 

ここは、ペルシヤのキュロス王が、自分たちの国々に近づいてきた時の、「畏れをもって仰ぎ」ですから、彼らの反応を描いているのでしょう。

 

「島々は畏れ」とありますが、トルコ、小アジヤの地中海の島々を指しているのでしょうが、「後の代」、つまり、終わりの日のキリストの再臨のこととしてみると、世界中至る所、という意味も含むのでしょう。

 

キュロス王に対抗するために、島々の「彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。」ですから、7節を重ねて読むと、どうやら彼ら(島々、後の代では世界の人々)に危機が迫っているので、互いに力を合わせて、励まし合い、偶像に神に守ってもらうために、偶像をさらに揺るがない堅固なものにしようと、くぎで固定させ動かないようにしているのです。

 

何とも滑稽な姿ですが、よく似たことが現在でも起こっているのではないでしょうか。

 

●8節.わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。

 

前節を受けての、「わたしの僕イスラエルよ」ですから、地中海の島々は偶像を堅固なものによって励ましあっているが、あなたがたは違うのだよ、と呼びかけているのでしょう。

 

イスラエルは、「わたしの僕」であると神は言っておられます。
それは父なる神が、父祖アブラハムを信仰により選び、イスラエルの先祖、イサクの子、兄エサウ(エドム人)を除き弟ヤコブ(イスラエルの名を得てユダヤ人の祖となる)を選んだことによる。

 

●9節.わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

 

「あなた」はイスラエルを指し、バビロン捕囚によりペルシヤの全土に離散したユダヤ人がいます。
バビロンが滅んで、彼らを「その隅々から呼び出して・・あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」ですから、エルサレムへの帰還を呼びかけ、復興を約束されているのでしょう。

 

その理由は、イスラエルが神の僕であるからでしょう。

 

●10節.恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。

 

引き続き神は、僕イスラエルに向かって語ります。
それは、一つ目は、「わたしはあなたと共にいる」です。

 

二つ目は、「わたしはあなたの神。」です。
三つ目は、「勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。
」です。
この語りかけの言葉は、アブラハムを信仰の父とするクリスチャンにも引き継がれています。

 

●11節.見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。
●12節.争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。
●13節.わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

 

さらに神はイスラエルに対し、イスラエルに「怒りを燃やす者」「争う者」「戦いを挑む者」はすべて滅ぼし、「わたしはあなたを助ける、」と言われています。

 

●14節.あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。

 

神は僕イスラエルの祖ヤコブを「虫けらのようなヤコブよ」と言っています。
神の前では、だれでも虫けらです。虫けらのような存在だから、神は助けてくださるのです。

 

これはイスラエルが、周辺諸国に比べたら小さく、少数民族であることを示しているのでしょう。
「あなたを贖う方」の「贖う」とは、代価を払って買い取るという意味です。
キリスト者から見れば、キリストの十字架という代価でもって全人類の罪は贖われたのです。

 

●15節.見よ、わたしはあなたを打穀機とする/新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。
●16節.あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。

 

神はイスラエルを、「新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機」とする、と言われています。
「多くの刃をつけた打穀機」は、もろ刃の打穀機で、下に鋭い刃が付いた重い木の台で、刃は石の刃であったと説明されていますから、それを引くことによってその穂から粒をとったのでしょう。

 

「新しく、鋭く」というのは、その脱穀機を使い古しますと、石の刃が丸くなって穀物がよく落ちなくなります。
しかし、それに新しい石の刃が付け替えますと、鋭くなった石の刃によって、収穫がたくさんできるようになる。

 

神は虫けらのようなイスラエルを、その鋭い、新しいもろ刃の打穀機にすると言われたのです。
そのようなイスラエルはいまだ実現していませんが、やはり、終わりの日に救われるイスラエルの残りの者を指すのでしょう。
この残りの者は、救われて全世界にみ言葉を伝える者になるのです。

 

●17節.苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず/渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。

 

神は、イスラエルを外敵から救うだけでなく、「(渇きで)苦しむ人、貧しい人」も「わたしは彼らを見捨てない。」と言っておられます。
バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民は、きっと、水を捜し求めても得ることができず、舌が干からびるほどの、のどの渇きに苦しめられていたでしょう。

 

●18節.わたしは不毛の高原に大河を開き/谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし/乾いた地を水の源とする。

 

18節と19節は、バビロン捕囚によって希望のない苦しみの中にいるイスラエルを回復してくださるという預言でしょう。
もちろん、それは終わりの日に千年王国の姿でもあるのです。

 

●19節.荒れ野に杉やアカシヤを/ミルトスやオリーブの木を植え/荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。

 

そして神は「荒れ野を湖とし/乾いた地を水の源」とするといわれています。
19節にイスラエルの荒れ野に「杉やアカシヤを/ミルトスやオリーブの木を植え/荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。」とありますが、これらの植物は、みな荒れ野では育たないものだということです。

 

つまり「荒れ野を湖とし/乾いた地を水の源」とすると約束されているのです。
なお、現在のイスラエルでは、これらの植物が育てられているということです。

 

●20節.彼らはこれを見て、悟り/互いに気づかせ、目覚めさせる/主の御手がこれを成し遂げ/イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。

 

こうして、最後にイスラエルは、これらもろもろの救いの御業が、「主の御手がこれを成し遂げ/イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。」悟るのです。

 

●21節.訴え出て、争うがよい、と主は言われる。お前たちの論拠を示せ、とヤコブの王は言われる。

 

「お前たち」は、偶像の神を堅固にして、自分たちを守ろうとした地中海の島々に言っているのでしょう。
つまり、偶像の神とご自分と、どちらが本物の神なのか、その証拠を持って来い、というわけです。

 

すなわち、偶像の神が本当の神ならば、その証拠があるはずで、神は神としての証拠を見せることができることによってのみ、その正当性が認められるということでしょう。

 

「島々」は、ひいては、終わりの日の異邦の国々を指しているのでしょう。

 

●22節.起こるべきことをわたしたちに示し、告げてみよ。初めにあったことを告げてみよ。我々はそれを心に留めよう。あるいは、来るべきことを聞かせてみよ。未来のことを悟るとしよう。

 

「初めにあったことを告げてみよ。」とは、先(初め)にどんなことがあったのかを告げよということではなく、それがあった理由を、意味を「告げて見よ」ということでしょう。

 

過去の歴史を見て、あったことの理由を知り、神がどのような方なのかを正しく知ることができる者だけが、未来のことを正確に告げることができるということなのでしょう。

 

それはこの天地万物を造られた創造主なる神を知ることになるのです。

 

●23節.将来にかかわるしるしは何か、告げてみよ。お前たちが神であることを悟るとしよう。良くも悪くも行ってみよ/我々は共に見せてもらおう。

 

「将来にかかわるしるしは何か、告げてみよ。」ですが、これは、神は、偶像の神にはできないことがわかっていて、将来のことを予告した預言を持ってきなさい、「我々は共に見せてもらおう。」と言っておられるのでしょう。

 

旧約聖書で預言が大きな部分を占めていることの証です。
将来にかかわるしるしを、告げることができるのは、真の神だけです。

 

この「我々は」というのは、神とイスラエルのことを指しているのでしょう。
逆に言えば、22節と23節で神は、何度も偶像の神々を信じる人々に対して、わたしが神であることを、「将来にかかわるしるし」で調べてみよ、と言っておられるのです。

 

預言こそ、神が生きておられることの一番強力な証拠の一つなのです。

 

●24節.しかし、お前たちは無に等しく、働きはむなしい。お前たちを選ぶ者は忌むべき者だ。

 

そして神は偶像の神に、「しかし、お前たちは無に等しく、働きはむなしい。」と断定されます。

 

●25節.わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように/彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる。

 

「北」とはペルシャのことで、「人」とはそのペルシャの王であるキュロスのことでしょう。
キュロス王は、「日の昇るところからわたしの名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように/彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる」というのです。

 

これはペルシャの王キュロスがやって来て、バビロンを攻撃するという預言でしょう。
陶器師が「陶工が粘土を踏むように」支配者を踏みにじるのです。

 

この預言は、紀元前700年頃で、実際に起こったのは約150年後の紀元前539年です。

 

この時代は、まだペルシャ帝国は興っておらず、アッシリア帝国の時代でした。
この後にバビロニヤ帝国が興り、ペルシャ帝国、メド・ペルシャ帝国が興るのはその後のことです。

 

イスラエル地形は、南にエジプト、東は砂漠で、西に地中海ですから、イスラエルの入るには、南と北だけしかありません。
南はエジプトなので、あとは反対方向の北だけです。だから25節で「北から」となっているのでしょう。

 

●26節.誰か、初めからこれを告げ/わたしたちに悟らせ、前もって示し/そのとおりだと言わせた者があったか。ひとりとして告げた者はなく、聞かせた者もない。お前たちが言うのを聞いた者もない。

 

聖書の神は、「初めからこれ(ペルシヤが興ること)を告げ/わたしたちに悟らせ、前もって示し/そのとおりだと言わせた者があったか。」と言われます。

 

逆に言えば、ペルシヤが世界帝国になることを、150年以上も前から預言していた者はないだろう、預言していたのは聖書の神だけですから、聖書の神は、実際に起こった時の事を考えて、「わたしは前もって、こう告げていたのだ。」と強調されているのでしょう。

 

●27節.見よ、シオンに初めから告げられていたことは/ここに実現した。エルサレムに良い知らせを伝える者を/遣わそうとして

 

「シオンに初めから告げられていたこと」、すなわち、主がイスラエルのシオンの丘に戻ってこられるという預言です。これは、黙示録によれば終わりの日の千年王国で実現します。

 

「ここに実現した」ですから、未来に実現するのですが、必ず実現するから、実現したのです。
そして主は、戻って来られたこと、主が顧みてくださったことを、主ご自身がイスラエルに「良い知らせを伝える者」(預言者のこと)を用意して、「遣わそうと」とされています。

 

キュロス王を登場させ、バビロンを滅ぼし、ご自身の民をエルサレムに帰還させることができたのです。
いったいだれがこのようなことをあらかじめ告げることができるでしょうか、誰もできません。
ただ、聖書の神だけがこれを計画し、成し遂げられたのです。

 

●28節.見回しても、ひとりもいない。彼らの中に、助言を与えうる者はない。彼らに問いかけても、ひと言も返さない。
●29節.見よ、彼らはすべて無に等しく、業もむなしい。彼らの鋳た像はすべて、風のようにうつろだ。

 

28節と29節は、「彼らの鋳た像はすべて、風のようにうつろだ。」と結論されているように、偶像を指してこのように言っておられるのです。

 

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