創造と贖いの神(40章)
聖書の箇所は、40章12節から31節です。
●12節.手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。
神は、ご自分は天と地を造られた神、そして天と地をご自分の手に収めておられる神であるとイスラエルの民に語っておられます。
だれもこの地球にある水の量を量ることも、この巨大な宇宙を量ることも、地のちりを枡に盛って、山や丘をてんびんで量るもできません。
しかし、イスラエルの神はこの天地万物を作られた神ですから、その水を手のひらに、大宇宙を手の幅に収めることができ、地のちりを枡に盛って量ることができます。
●13節.主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。
主の霊、すなわち、聖霊の働きを述べています。
聖霊は主の働き手です。聖霊の働きは主の意志によって働くのですが、聖霊は天地万物を創造し、それを現在も掌握し、維持されている方です。
だから、「主の霊を測りうる者があろうか。」と言っているのでしょう。
ですから、「主の霊」とは、この創造者なる神の知恵、はかりごと、能力のことでしょう。
●14節.主に助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。
天地万物の創造主である主に、誰か「助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者」があろうかと言っています。
ということは、創造主である主は、そのようかことは一切必要のない方だということです。
ただ、私たちは主の前にひれ伏して、測り知ることのできない主の知恵と知識の富に圧倒されるばかりです。
人間を含めて天地万物を見れば、測り知ることのできない主の知恵と知識を知り、恐ろしくなります。
神がこのようにご自分のことを言っておられるのは、ご自分は、この天地万物を創造された神なのに、あたかも自分が神であるかのように、神に教えようとする人間がいるからでしょう。
いまでも世界を見渡せば、そのようなことを言っておられる教祖様がおられます。
●15節.見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく/天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。
「国々」というのは、イスラエルの国ではなく異邦人の国々、イスラエルの神を神としていない偶像を拝んでいる国々のことを指すのでしょう。
そのような国々を「革袋(バケツ)からこぼれる一滴のしずく/天秤の上の塵」と表現しています。
そして、島々も、細かいちりのようなものです。
●16節.レバノンの森も薪に足りず/その獣もいけにえに値しない。
主の大きさをたたえるのに、レバノンの木がいかに多くても、そこに住む獣がいかに多くても、「薪に足りず/その獣もいけにえに値しない。」と言っています。
レバノンとはレバノン杉のことで、当時そのレバノン杉は、高級で立派なことで有名でした。
そのレバノン杉がどんなにあっても、「薪に足りず」、また、どれほどの数の動物を全焼のいけにえとしてささげても、「いけにえに値しない。」のです。
●17節.主の御前に、国々はすべて無に等しく/むなしくうつろなものと見なされる。
イスラエルは、小さな集団で、周りを大国が取り囲んでいますが、彼らの栄光は、この天地万物を作られたイスラエルの神に比べたら「無に等しく/むなしくうつろなもの」です。
すべての国々は、主の前には「無に等しく/むなしくうつろなもの」なのです。
なぜならこの方は天地を創造された神だからです。
この方があなたの神であり、あなたを救ってくださったのです。
●18節.お前たちは、神を誰に似せ/どのような像に仕立てようというのか。
●19節.職人は偶像を鋳て造り/金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。
●20節.献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を/巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。
18節からは、偶像を作ることの愚かしさを描いています。
おろかにも人間は、天地万物を創造された真の神がいるのに、鋳物や木によって神を作ろうとします。
また、樹齢何百年という太い杉の木にしめ縄をして、それを神として拝みます。
家内安全、無病息災、商売繁盛と書かれた紙きれが自分を守ってくれると思って大切に持っています。
しかし、それはただの紙切れであり、ただの木や石であり、ただの金属で、それらに何の力もありません。
気休めにはなるでしょうけれども、真の神を知らない人々は、そうして気休めするしかないのです。
真の神知らなければ、自分がどこからきてどこへ行くのか、なぜ生きているのか、この天地万物の神秘はどのように考えればよいのか、この世は不安で不思議でいっぱいです。
どのように考えても、創造主がおられなければ理解できないことばかりです。
●21節.お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか/初めから告げられてはいなかったのか/理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。
この世界は不思議でいっぱいなのに「お前たちは知ろうとせず聞こうとしない」と言われています。
鋳物や木によって作った偶像の神、樹齢何百年という太い杉の木、家内安全、無病息災、商売繁盛と書かれた紙きれがあなたをつくって支えている神とでもいうのか、そうでないのは、あまりにも明らかで、自明の理ではないか、ということでしょう。
●22節.主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる。
この「地を覆う大空」の大空は、「天蓋」とも訳せ「円」を意味するそうですから、聖書には、「地球は丸い」という記述は存在するのです。
真の神が「大空の上」ですから、天と地を超越したところにおられ、「主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる。」ですから、天地をご自分の住まいとされ覆うように偏在されている、ということでしょう。
「主は天をベールのように広げ、天幕のように張り」ですが、この「広げ」という言葉は42章5節にも使われていますが、神さまは天を造られて、それを引き延ばされました、ということでしょう。宇宙は引き延ばされた、そう、膨張したのです。
どのように引き延ばされたかは、そこに何らかの力が加わったのですから、そこに天地を創造された真の神がおられなければ理解できません。
●23節.主は諸侯を無に等しいものとし/地を治める者をうつろなものとされる。
「諸侯・・地を治める者」ですが、この世のどんな王たちや支配者たちでも、どんな政治的指導者であっても、「無に等しい・・うつろなものとされる。」ですから、この方と比べることはできないということでしょう。
●24節.彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく/地に根を張る間もなく/風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。
「彼ら」は、つまり政治の指導者とか財産家たちでしょう。
彼らすべて神の前では無駄と言っているのでしょう。
●25節.お前たちはわたしを誰に似せ/誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。
●26節.目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方/それぞれの名を呼ばれる方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。
主(創造主)を「誰に似せ/誰に比べようとするのか、」とし、その「力の強さ、激しい勢い」を、「天の万象を創造したかを見よ。」と言って、悟らせようとされているのでしょう。
●27節.ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。
北イスラエルはアッシリアに、今、南ユダはバビロンに滅ぼされ、民は捕囚の身になったが、彼らにとっては自分たちの国がなくなってしまったわけですから、「わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」思うようになってもおかしくありません。
イスラエルの民の、イスラエルの神に対するつぶやき、不満が述べられています。確かに神が天地万物をつくられた偉大な方だということはわかる。
しかし、その方は私とどんな関わりがあるのでしょうか。私が民族滅亡という絶望の淵にあるのに、助けてはくれません。神は私たちには関心がないのでしょうか。
南ユダの民は、この時バビロン捕囚の身にあり、苦しみと、困難を神に訴えても、神は何とも言ってくれないし、沈黙されるのみで、関心がないと思ったのでしょう。
そうした中にあって彼らは、「わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」思ったのです。
しかし、沈黙しておられても真の神はおられるのです。
神はご自分が創造された万物の状況を知っておられ、また、維持し、支配されています。
その方が私たちの人生の中に絶望と思えるような状況が起こるのを許されるのは、そこに神の何らかの深いご計画があるからなのでしょう。
南ユダのバビロン捕囚は、彼らが神に従わなかった罪の結果ですが、そのことをもって神は彼らに大切な真理を教えようとされているのでしょう。
そして、神は最終的にすべてのことを働かせて益とされるのです。
●28節.あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
改めてイザヤは契約の民、イスラエルの民に、「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。・・・」と問いかけています。
イスラエルの民は忘れられたとぼやいても、主があなたのことを知らないことはないのです。
「地の果て」は、どこにも主(創造主)はおられる、ということでしょう。
そしてその天地を創造された方は、「倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。」のです。
このような方は常識的には存在しません。ところが、神である主が力をもって来られ、その御腕で統べ治めるときになれば可能なのです。
主が力をもってこの地上を統治されるのは、キリストの地上再臨後です。
まさに、メシア王国(千年王国)のあるべき姿です。
そのときには、すでに携挙されて天にいるキリストの花嫁である真のキリスト者の集団はキリストとともに朽ちないからだを与えられて地上に来ます。(ヨハネの黙示録20章4節)
その人たちは、病気になることもなく、また死ぬことさえありません。
患難時代に信仰のゆえに殉教した人々も、キリストの再臨の時によみがえり、やはり復活して朽ちないからだになっています。
なお、千年王国では艱難時代を生き延びて、生身の体のまま復活のからだをもたずに流れ込む人々がいますが、そのような人々も病気になることはほとんどないはずです。
なぜならば、千年王国は、キリストが統治されサタンもいません(ヨハネの黙示録20章2節)から、地には平和が訪れ、神の教えによって人々が愛し合って生きるようになりますから、ほとんどストレスのない健康な身体で生活することができるからです。
ですから、千年王国で生きる人は「倦むことなく、疲れることなく」ですから、走ってもたゆまず、歩いても疲れないのです。
メシア王国(千年王国)は「新しい力」を持って生きるきわめて活動的な世界と言えます。
そんな世界がやがて来ることを信じて待ち望む者は、なんと幸いでしょう。
なお、そのほかの死者は、千年王国では「その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。」とあります。(ヨハネの黙示録20章5節)
●29節.疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
創造主である主は、「疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力」を与えてくださいます。
神はおられるだろうが、こんなちっぽけな私の問題には関わらないだろう、ではないのです。
弱り切った私たちの心身に刷新する力をもたらすのは「神のことば」です。
その創造主である神はどのような方であるかを纏めてみると。
第一に、ヨハネの黙示録1章8節に「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。
「わたしはアルファであり、オメガである。」です。
「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)
アルファであり、オメガは、最初であり、最後、すなわち、永遠に生きておられる方なのです。
この方はわたしたちが胎内に形造られた時から、いや、そのずっと以前からも、わたしたちのことを知っておられます。
私たちは、いつも神に覚えられているのです。たとえ苦しみの中にいる時でも・・。そしてこの永遠に変わることのない神が、あなたの必要に答えて働いてくださるのです。
第二に、神は天地万物、地の果てまで創造された全能の方です。
第三に、神は疲れたり、たゆんだりすることがありません。
第四に、その英知は測り知れません。
「英知」とは、口語訳では「知恵」(洞察力)です。
神は測り知れない知恵、英知による正しい判断力で、物事を正しく見分けることができるのです。
●30節.若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
ここでは、体力に自信のある若者を取り上げておられます。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れ」る、とありますが、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるのです。
「若者」が取り上げられているのは、おそらく、体力を誇ることができる年代だからでしょう。若者はお年寄りに比べて体力があり、気力もあり、元気ですが、若者も疲れ、倦きることがあるのです。
●31節.主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る」のです。
すばらしい約束です。主を待ち望む、つまり、主を信じあがめて、主が自分に関わってくださることを期待する者は、新しく力を得るのです。
そしてその力は「鷲のように翼を張って上る」姿に似ているのです。
イザヤは絶望的なバビロン捕囚の中で、南ユダの人々に、主を仰ぎ見るように進めています。捕囚の生活に疲れ果て、不満と失望を抱いていた彼らに力を与え、勇気づけてくださる主に信頼することで、その苦しみを乗り越えていくようにと励ましているのでしょう。
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