ほぼ全員救済のこれだけの根拠
●ローマの信徒への手紙11章6節から8節と11節、12節、15節
〇6節「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」・・ユダヤ人の残りの者の救いは恵み、行いではない
〇7節「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。」・・ユダヤ人の救われた残りの者もかたくなな者も神がそのようにされたからです。
その人がそのようになりたいと思って努力したわけではありません。
〇8節「神は、彼ら(異邦人)に鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。」・・異邦人が神から離反しているのは、神が異邦人をそのようにされたから。ユダヤ人と同じ
〇11節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいた(十字架)とは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」・・十字架は異邦人に救いを持たらし、ユダヤ人に(救いをもたらすために)妬みをもたらすため。
〇12節「彼ら(ユダヤ人)の罪が世の富となり、彼らの失敗(十字架)が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(異邦人)が皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」・・十字架は異邦人が全員救いにあずかるのが目的。この救いはあくまでも、永遠の命につながる霊的な救いだともいます。
〇15節「もし彼ら(ユダヤ人)の捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」・・十字架が世界に救いと和解をもたらすならば、ユダヤ人が救われるのは、死者からの復活となる。
●コリントの信徒への手紙一/15章22節
「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。」・・キリストの十字架は、全人類が肉において死に霊において生きるためです。
アダムにあってすべての人が死ぬことになったのならば、キリストにあって(一部の人でなく)すべての人が生かされるのは当然です。
その人が、現生、来世、どちらの世界でキリストを知るのかは神様の御心次第です。
ということは、生前の罪はこの肉体の死により贖われ、霊により生きるようにされたということになります。
聖書の神は、正義と公平と愛の神です。だから、過去・現在・未来のすべての人間に対し、公平に義をもって愛を実現してくださるでしょう。
そうであれば、この悪魔が支配する不公平な世における、それもたった80年ほどのその人の責任によらない生前の行いだけで、その人を地獄に送るのは、これほど不公平なことはありません。
聖書は、人間は霊的な存在で、新しい人類の誕生と言う計画のためにこの世があり、この世はその計画を達成するための一時的な場所とされています。
だから神の子とされた人間の本籍は天国なのです。
ですから、この世界で生きた行いだけで、その人の霊的な命が必要か否かを決めるようなことはないと思います。
この世界は新しい人類の創造という神の目的のための御計画の中で必要なことを体験する場であり運命を決定する場ではないと言うことです。
誰がみても人は生まれた時代、生まれた国、生まれた両親、育った環境、持って生まれた資質も違います。それぞれが全部異なります。それもその人の責任によらないのです。
それなのに、この地上の世界に生きていた時だけを取り上げてその人の生涯を裁くのは、不公平極まりないと思います。
もし、神がそのような神ならば、愛のかけらもありません。独善者といえます。
もちろん、キリストの教えが、選ばれた者だけが天国に行き、そのために利用されたその他の人々は、使い捨ての命として最後には地獄に行くという教えならば、そういうことでしょう。
その場合は、選ばれた者は何を基準に選ばれたのか、聖書にはどこにも書いていません。
●ヨハネの黙示録20章12節・13節
〇12節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
〇13節「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」・・・救われていない死者(命の書に名前がない死者)は、行いによって裁くとありますが、裁くとあって地獄に送るとは書いていません。
第一、救われないで死ねば地獄に行くのならば、わざわざ行いで裁く必要はありません。
死ねば即地獄に送ればよいことです。
ただし、ヨハネの黙示録20章10節「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」には地獄に行くのは、悪魔と反キリストと偽預言者だと特定されている。
地獄に行くのはそういう者ならば、それに該当する人間は、どれほどいるのでしょうか。
ほとんどの人は、該当しません。
わたしは人間のこの地上世界の80年ほどの命は、来世も含めて永遠に生きる命のほんの一瞬の命の時間だと思うのです。
神はすべての出来事を益にしてその人を永遠の命の世界に導かれるのでしょう。
そう、新しい天地の創造と新しい人類の創造と言う究極の目標に向かってです。
どんなにつまらないと思われる人生を送った人でも、その行いはそのひとのために用いられ益、すなわち生かしてくださるのです。
天地創造の最終目標に向かって、どのような人でも必要があって生まれてきたのです。
この地上世界には、無駄なものは何一つありません。
神はその人を必要あって生まれさせたのです。
そして、この世の体験を益として新しい人類へと導かれます。
ただし、そのためには一つ条件があります。
キリストの十字架で罪を贖い霊的な命を救い、最後の審判で生前の行いで裁き、新しい人類の創造への準備ができるのですが、人間が新しい人類への創造の御計画を享受するためには、自ら神と霊的につながる必要があるのです。
わたしは、そのチャンスが、この地上だけではなく、死後の世界においても準備されていると思うのです。
●ペトロの手紙第一3章18節・19節・20節
〇18節.「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」
〇19節.「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
〇20節.「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。」
キリストは十字架から復活までの間に、ノアの時代に神に逆らって洪水で死んだ者たちのところに行って宣教されています。セカンドチャンスを明確に肯定しています。
当然、ノアの時代に神に逆らって洪水で死んだ者以外のキリストを知らないで、または逆らって死んだ過去・現在・未来の人もその中に入るでしょう。
この人たちは、陰府の国に行けば当然神を知りキリストを知り何が真実かを認識しますから、当然、すべての人がキリストの言葉を受け入れるでしょう。
もちろん、それでも神を、キリストを否定する人は地獄かもしれません。
キリスト以降に生まれたまだ生きている者のこの世界では、キリストの十字架以降は弟子たちが伝導しているという事実はありますが、すべての人に生前に平等にキリストの救いを知るチャンスがあったかどうかは、疑問です。
ほとんどの人がキリストを知らないで死んだというのが、現実でしょう。
それに何回も書いていますが、この世は不公平極まりない世界ですから、とてもこの世の行いだけで、地獄に行くとか天国に行くなどを決められるわけがありません。
ですから、キリストを知らないで、死ねば地獄に行くという教えははなはだ疑問です。
キリスト教は、そのように信じなければクリスチャンではないと言われたら、私は真のクリスチャンではないかもしれません。
でも、そのようになるように祈るのは許されるでしょう。
●ペトロの手紙第一4章6節
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」・・キリストを受け入れないで死んでも、その罪は死ぬ(肉体が滅ぶ)ことで贖われます。
そして、キリストは霊において生きるようにしてくださいます。
そう、肉体において「死んだ者にも福音が告げ知らされ」生きる者としてくださるのです。
●ヨハネの手紙第一2章2節
「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う生贄です。」・・キリストの十字架は、全世界の人々の罪を贖うためだと断定しています。
十字架は実行されたのですから、当然、全世界の罪はすでに(死ぬことにより)贖われるのです。同時に、それは、全人類が霊において生きるためです。
キリストを受け入れないで死んだ人の罪は死ぬ(肉体の滅び)ことにより贖われますが、生前の行いは千年王国の後で復活し神の前で裁かれます。
そして、霊によって生きるのです。
霊的には罪はキリストの十字架死ですでに贖われていますから、裁かれるのは行いだけです。
というわけで、わたしは確信的な反キリストでない限りほとんどの人には死後にセカンドチャンスを与えられてキリストに導かれると思っていますし、そのように祈っています。
最後に、C.S.ルイスの言葉を記しておきます。
「人間は結局、二種類に分けられる。神が『汝の意のままになれ』と言う人と、神に『御身の意のままに』と言う人だ。地獄に行く者はみな、自分で地獄を選んでいる」
神のみこころがどうであろうとも、私の願うようにしてください、私の思いのままにしてくださいというタイプの人間と、神に「御身の意のままに」、すなわち、あなたのみこころのとおりにしてくださいと言う人の二種類です。
神に『汝の意のままになれ』と言われてもあくまでも自己を主張するものは、当然、地獄行きだということでしょう。このような人は、ごく少数だと思います。
当然来世においては神もキリストの存在も明らかですから、神とキリストの前で両者を否定する人はいないでしょう。ほとんどの人は真実を知り、悔い改めに導かれることでしょう。
●ヨハネの黙示録20章12節
「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
●ヨハネの黙示録20章13節
「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」
これは黙示録の「最後の裁き」の箇所ですが、もし、この世でキリストを信じないで死ねば地獄に行くならば、この最後の裁きは必要がありません。
死ねばすぐに地獄に放り込めばよいことです。
キリストを受け入れないで死んだ人は、その人の生前の行いによって裁かれるのです。
生前の行いを裁くのは、霊的にはキリストの十字架でその罪はすでに贖われていますから、裁きの対象ではないからでしょう。
もちろん、裁きですからいろいろ段階はあると思いますが、地獄に送るとはどこにも書いていません。行いの裁きで、霊の裁きではないのですから、当然ですね。
明確に地獄に送ると書かれているのは、ヨハネの黙示録20章10節に書かれている通り、悪魔と獣(反キリスト)と偽預言者です。
もちろん、神とキリストを目の前にしてあくまで反キリストを貫く人間は、地獄かも知れません。そのような人は、神とキリストが支配される天の国では居場所がありませんからね。
なお、地獄は、その人の霊的な死ではありません。人間は、キリストの罪の贖いのための十字架死で肉において死に、霊において生きるようになったのです。
だから最後の審判での裁きは、行いに対してであり霊に対してではないのです。
●ヨハネの黙示録21章8節を参考に書いておきます。
「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
おくびょうな者と人を殺す者を同列に扱うなどちょっとわからないところがありますが、おそらく前提とするものがありそれを表現するためにこのように書いたのだと思います。
それは、不信者のことを言おうとしているのでしょう。
そのような人は、キリストを知らないで、あるいはキリストを拒否して死んだ人で、セカンドチャンスにもキリストを受け入れなかった人なのでしょう。
そう、キリストに反抗するのでもないが、何が真実かわからないでさまよっている人、あくまでもキリストを信じない人です。
そのような人は、反キリストと同じく、神とキリストが支配される世界において、居場所はないでしょうからね。彼らが相続するのは、「火と硫黄の燃える池」です。
火の池には、20章10節で、すでに悪魔が投げ込まれていて、反キリストと偽預言者もすでに投げ込まれていますから、不信者が最後になるのでしょう。この火の池に投げ込まれることを「第二の死」と言っています。
<最後に、ほぼ全員救済の決定的な聖句>
前にもほぼ全員救済のことは書きましたが、今回は、イザヤ書に見事に同様のことが預言されている箇所がありますので、補足の意味で掲載します。
主であるイスラエルの神は、ご自分が真の神であり、創造主であると宣言されます。
聖書箇所はイザヤ書45章18節から25節です。
●18節.神である方、天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた方/混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方/主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。
イスラエルを救われた真の神、主は、ご自分の救いの手をイスラエルだけにとどめておかれません。そのことは次節19節以降ですが、ここでは「わたしが主、ほかにはいない。」と、ご自分が天地万物の創造神であることを宣言されています。
それも「混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方」としていますから、創造するだけでなく天地万物を秩序をもって創造したといわれているのです。
こうして、イスラエル以外の異邦の諸国に対して、ご自分の救いを受け入れるよう呼びかけておられるのでしょう。
●19節.わたしは隠れた所で、地の闇の所で/語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって/混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。わたしは主/正義を語り、公平を告知する者。
イスラエルの神は、異邦の諸国民から見れば「御自分を隠される神」(15節)ですが、神ご自身はご自分を「わたしは隠れた所で、地の闇の所で/語ったことはない。」と言われています。
イスラエルの神は、何か事を成す場合は必ず預言者をもって事前に予告されます。
異邦人が「御自分を隠される神」と言っているのは、イスラエルの真の神がどのような方かを知らないからです。
●20節.国々から逃れて来た者は集まって/共に近づいて来るがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ/救う力のない神に祈る者。
●21節.意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。
「国々」は、メド・ペルシヤ帝国によって征服された国々を指すのでしょう。
主は、それらの国々の民を「偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ/救う力のない神に祈る者。」と言っています。
そして、主は滅びた国々の民に、偶像に期待して裏切られた民に「集まって/共に近づいて来るがよい。」と言って、「意見を交わし、それを述べ、示せ。」ですから、偶像が前もってキュロス王によるイスラエルのバビロン捕囚からの解放を告げていたなら、その証拠を示せということでしょう。
何度も書きますが、イザヤがイスラエルのバビロン捕囚からの解放を預言したのは、そのことが実現する約150年前のことです。
ちなみに、イスラエル解放が預言されたのが、紀元前700年代で、実際に解放されたのはキュロス王の解放宣言が紀元前538年です。
だから主は、「だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。」と言われるのです。
このことが事実ならば、すごいことです。
イスラエルの神、聖書の神はおられるのです。今も働いておられるのです。
まさに、「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。」です。
●22節.地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。
ここで主は、メド・ペルシヤ帝国によって滅びた偶像礼拝の国々から逃げてきた人だけでなく、「地の果てのすべての人々」にも「わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」と呼び掛けておられます。
なお、「救いを得よ。」の原語は、男性複数2人称受動態の命令形で、「あなたがたは救われよ」という恵の言葉です。
●23節.わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
主の力強い言葉が続きます。
万能の主、聖書の神が「わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。」と誓われます。
この誓は、「すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て」ですから、全人類の救済を誓われています。
●フィリピの信徒への手紙2章11節
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
●24節.恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
●25節.イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。
この個所は、すべての人が救われるが、そこには二つのタイプの人たちがいるのです。主を目の前にして、「主に対して怒りを燃やした者」とそうでない者です。
ただし、「イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。」のです。
「主に対して怒りを燃やした者」というのは、主を信じなくて死んだ人の中で、主に敵対心をもって、確信犯的に主を否定して死んだ人のことを指すのでしょうが、ほとんどいないと思います。
その人たちは、主を、キリストを目の前に見れば、どんなに怒っても、主も、キリストも目の前にすれば否定しきれませんから信じざるを得ませんが、もっと早く、生前に信じていればよかったと後悔するかもしれません。でも、どのような形であれすべての人が救われるのです。
逆に言えば、主と、キリストを信じるということに対して、正反対にいた人ほど、真実を知ればキリストを知り死んだ人より忠実な僕になるかもしれません。
また、「イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。」のであれば、イスラエルの子孫でない人々もすべて主によって正しいものとされるのは当然として、誇ることはないかもしれませんね。
最後にイエスの言葉を書いておきます。
ご自分を殺そうとしているユダヤ教指導者層に対する執り成しの祈りで、そこには(生きている人間、既に死んでいる人間を含む)全人類の罪の許しを願うイエスの強い思いが込められています。
イエスの言葉が神の言葉なら、この言葉は必ず実現します。
ルカの福音書23章34節です。
「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
●イエスの十字架死は全人類の罪を贖うための死です。
この出来事には、全人類を罪から救いあげたいという神の強い意志があり、目的があります。
それは神の愛と憐れみの故ですが、神の全人類救済計画の一環であるともいえます。
よって、イエスの十字架の御業で全人類が救われないのならば、それは神の御計画の失敗だといえないでしょうか。
神のなさることは必ず成るのです。
今の人類社会は悲惨な状態にありますが、神は人類創造の初めからこのようになることをご存じであったと思うのです。
そうでしょう。サタンが支配するこの地上に無垢な人類を置かれたのですからそのようにしか考えられません。
そうであれば、なおさらではないのでしょうか。
« 捕囚の開放(42章) | トップページ | 主の僕の召命(イザヤ42章) »
「おじさんの聖書」カテゴリの記事
- メシア、イエス・キリスト誕生の預言(イザヤ7章)(2022.10.17)
- 神の世界審判(イザヤ24章)(2022.10.17)
- 主の僕の召命(イザヤ42章)(2022.10.17)
- ほぼ全員救済のこれだけの根拠(2022.10.17)
- 善いサマリヤ人(2018.01.02)
コメント