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2022年10月22日 (土)

無力な偶像(44章)

聖書の箇所は、44章9節から20節です。
●9節.偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。

 

石や木で作った偶像の神は、無力で物事を正す力(2節、「エシュルン」)はありません。それは何の役にも立たない神であり、それを造る者もみなむなしく「見ることも、知ることもなく、恥を受ける」のです。

 

主は、ここで自分と偶像の究極の対比が行われています。
人間はえてして目に見えるものに頼り求めますので、偶像をつくりますが、実際に目に見えるものを手にすれば、そこには命がありません。
偶像は人間が作ったものですが、わたしたちは聖書の神、主(創造主)が作られたのです。

 

 

●10節.無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて
●11節.その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず/皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。

 

「恥を受ける」というのは、ずっと期待し、信頼してきたことが崩れて失望落胆することを意味するそうです。
偶像とはそういうものだということでしょう。

 

これが「偶像を鋳る者・・その仲間」たちの運命なのです。
期待して偶像をつくっても、役に立たないから「恥を受ける」のです。

 

偶像とは、「切り刻んだもの」という意味だそうで、それは人が勝手にイメージしたものに具体的な形に切り刻んだものにすぎないということです。

 

人間は、目に見えて形あるものに心を寄せます。

 

●12節.鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが/飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。

 

主(創造主)との対比です。
偶像をつくる者は、「飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。」が、聖書の神、主はそのようなことはありません。

 

●13節.木工は寸法を計り、石筆で図を描き/のみで削り、コンパスで図を描き/人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り/神殿に置く。
●14節.彼は林の中で力を尽くし/樅を切り、柏や樫の木を選び/また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。
●15節.木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め/一部を燃やしてパンを焼き/その木で神を造ってそれにひれ伏し/木像に仕立ててそれを拝むのか。
●16節.また、木材の半分を燃やして火にし/肉を食べようとしてその半分の上であぶり/食べ飽きて身が温まると/「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
●17節.残りの木で神を、自分のための偶像を造り/ひれ伏して拝み、祈って言う。「お救いください、あなたはわたしの神」と。

 

主は皮肉を込めて、期待して、望みをもって「柏や樫の木」で偶像をつくり、その偶像にひれ伏して「お救いください、あなたはわたしの神」と、「ひれ伏して拝み、祈って言う。」と言っておられますが、これは神が皮肉を込めてこのように言っておられるのでしょう。

 

それは、その偶像の材料となる木や、雨を降らせて育てているのは、神ご自身だからです。
それは、神が造られたものを使って、それを神と呼んでいる、という矛盾、それに気が付かない偶像礼拝者と関係者に対する皮肉でしょう。

 

●18節.彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず/心もふさがれていて、目覚めることはない。

 

偶像に頼ることの滑稽さ、空しさ、情けなさを「悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず/心もふさがれていて、目覚めることはない。」と表現しています。

 

●19節.反省することもなく、知識も英知もなく/「わたしは半分を燃やして火にし/その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり/木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。
●20節.彼は灰を食らい/惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず/「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わない。

 

偶像礼拝者は、木を火で燃やしたら灰ですが、その灰になりはてるものを神と拝んでいるのです。
そして、その偶像を指して、「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とも言わない、ということですから、それは「惑わされた心は、その道を誤らせ」ている状態なのです。

 

私があなたをつくったのに自分を無視して偶像をつくり拝している姿が、腹立たしくて、無念で仕方がない主の気持ちが伝わってきます。

 

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