キュロスによる解放(44章)
聖書の箇所は、44章24節から28節、45章1節から13節です。
●24節.あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。
●25節.むなしいしるしを告げる者を混乱させ/占い師を狂わせ/知者を退けてその知識を愚かなものとする。
万物の造り主、主は、「自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」と、この方は「むなしいしるしを告げる者」「占い師」「知者」を退けて、その知識を愚かにします。
この「むなしいしるしを告げる者」(自慢する者)、「占い師」「知者」というのは、バビロンの祭司や占い師や知恵ある者たちのことを指しているのでしょう。
言い換えると、彼らは、人類最古の文明メソポタミヤ文明を築いたシュメール人の伝統を受け継いでいると誇り、その宗教と占い、特に占星術を信じていましたので、主は、そんな彼らのしるしを破り、占いを狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにするといわれているのです。
●26節.僕の言葉を成就させ/使者の計画を実現させる。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い/ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を再び興す。
主なる神は、ご自分の僕を通して語られたことを成就させ、使者たちを通して語られた計画を成し遂げられます。
バビロンの祭司や占い師や知恵ある者たちの言葉が退けられ、主が預言者を通して語られたことは、必ず成し遂げられるということでしょう。
その内容は、「エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い/ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を再び興す。」ですから、廃墟となったエルサレムとユダの町々を再建し、人々がもう一度暮らせるようにするということでしょう。
当時イスラエルはバビロン捕囚の中にあり、注解書によると、そのバビロンの町は高さ90㍍、幅24㍍の城壁に囲まれていたそうです。
そして、その周囲は実に65㎞にも及び100の門と250もの見張り塔があったそうです。
そして、城壁は地下11mまで深く掘られていましたから地下を掘って侵入しようとして困難でした。
そのようにバビロンの町は誰も落とすことができない難攻不落の都市と呼ばれていたそうです。もちろん、備蓄の食料も全住民の20年分もあったそうです。
主なる神は、そんなバビロンを滅ぼし、ユダの民をイスラエルに帰還させ、廃墟となったエルサレムとユダの町々を再建し、人々がもう一度暮らせるようにするといわれるのです。
それは、次節27節と28節です。
●27節.深い水の底に向かって、乾け、と言い/お前の大河をわたしは干上がらせる、と言う。
●28節.キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。
どのようにして主は難攻不落と言われたバビロンの城壁を打ち破ったのでしょうか。
それは「深い水の底に向かって」は、「乾け・・お前の大河をわたしは干上がらせる、」とあります。
「深い水の底」とはバビロンを象徴するユーフラテス川のことです。
この川に向かって「乾け・・お前の大河をわたしは干上がらせる、」と言われたのです。
事実は、バビロンを滅ぼしたメド・ペルシャの軍隊は、ユーフラテス川に支流を作って川の流れを変えて、川の本流を干上がらせたのです。
そして川底を渡って町に侵入し、パーティーで酒に酔っぱらっていたバビロンの王たちを打ち滅ぼしたのです。
すごい発想です。だれがそんなことを考えたのでしょうか。
バビロンの王ベルシャツァルもまさかそんな方法で攻めてくるなんて想像もしなかったでしょう。
なぜならば、メド・ペルシャの大軍が城壁を取り込んでいるという状況でも、バビロンの王たちは、千人の要人を招いて酒を飲み交わしていたそうです。(ダニエル書5章参照)
そのようにして、メド・ペルシャは、当時世界最強と言われたバビロンを、たった1日で、しかも全く血を流すことなく落とすことに成功したのです。
しかも、この神の言葉は預言ですが、その預言がイザヤに語られたのは、この出来事が現実に起こる150年も前であったのです。
ですから、預言された当時は、メド・ペルシャのキュロス王も生まれていませんし、バビロンという国も興っていませんでした。
当時は、北イスラエルを滅ぼしたアッシリアという国が世界を席巻していた時代です。
イザヤは、北イスラエルのアッシリア捕囚も、ユダ王国のバビロン捕囚も、その開放もわかるはずがないのに、どのようにしてバビロンに捕らえられていたイスラエルが解放されるのかということを、あらかじめ具体的に語ったのです。
このようなことはとても人間にはできないことで、事実ならば、聖書の神は存在し、我々を導いておられる創造主であり、全知全能の神なのです。
このイザヤの預言は、これで終わることなく、28節にあるように、主はメド・ペルシャのキュロス王によって、「エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。」とあります。
すなわち、バビロンによって破壊されたエルサレムの神殿が再建されるということです。
この預言のとおりバビロンを滅ぼしたメド・ペルシャのキュロス王はユダヤ人をエルサレムに帰還させ、総督ゼルバベルという人を通してこの神殿の再建を許可します。
紀元前516年にエルサレムの第二神殿が再建されます。
それはエルサレムがバビロンによって滅ぼされた時から、ちょうど70年後の時でした。
●45章の解説.
45章に入りますが、40章から48章までのテーマは、「イスラエルの神、救い主」です。
そして49章から57章までが「僕」についてで、主が救われるのは僕の苦難を通してだということです。最後に、58章から66章は、救いの完成です。
40章には神の偉大な力について、41章から44章までは、「恐れるな」とか、「わたしはあなたを見捨てない」という言葉で、主が守ってくださることが書いてありました。
45章からは、主がイスラエルを救うご計画です。
主はメド・ペルシャのキュロス王について、「わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。」と言われます。
主はイスラエルを救う、救い主としての働きを、メド・ペルシャのキュロス王を聖別して用いて行なうということでしょう。
メド・ペルシャのキュロス王がバビロンを平定した後最初に行なったことは、ユダヤ人をバビロンからエルサレムに帰還させ、第二神殿再建の布告を出したことです。
しかし、キュロス王はペルシヤ人でゾロアスター教の信者でした。
またユダヤ人から多額の賄賂を受け取ったのでもありません。
キュロス王はイスラエルに何の義理もないのに、ユダヤ人をエルサレム帰還という方法で解放し、そして第二神殿の再建という霊的にも解放したのです。
その理由がエズラ記1章1節から2節に書いてあります。
主が、キュロスの心を動かされ、・・・文書にも記して「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムにご自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。・・あなたたちの中で主の民の属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上っていくがよい。」です。
キュロク王は、本当になぜそこまでユダヤ人に寛大な政策を取ったのでしょうか。
それは、これによると、主の霊が主の御霊がキュロスの心を動かされたからなのです。
イスラエル解放の時期と預言された出来事の事故が事実ならば、確実に聖書の神、主がおられ働いておられることを証ししていることになります。
信じられないけれども事実なのでしょう。
もし、作り話だという方がおられたら、それを証ししてほしいです。
●45章1節.主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。
●2節.わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし/青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り
「主が油を注がれた人キュロス」ですから、キュロス王は主によってイスラエルのために用いるために聖別されたということでしょう。
「わたしは彼の右の手を固く取り」は、神がキュロス王を歴史の表舞台に連れだしたことを意味しているのでしょう。
「国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。」の「国々を彼に従わせ」は、メド・ペルシャが、メディア、リディア、新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを統一したことを示しているのでしょう。
「王たちの武装を解かせる。」は、王の力を失わせるという意味ですが、これが文字通り、バビロンの最後の王ベルシャツァルに実現しました(ダニエル5章6節参照)。
「扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。」は、キュロス王は、バビロンの真ん中を流れているユーフラテス川を迂回させることによって、減水し、門の下に隙間が空くのでそこから潜り抜けて攻め込みましたので、乱交パーティーを開いていて、護衛は泥酔していましたが、難なくバビロンに侵攻し、ベルシャツァル王を殺し、血をほとんど流さずにたった一日で制圧したそうですから、ここはそのことを言っているのでしょう。
2節の「山々を平らにし/青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り」というのも、難攻不落と言われたバビロンを粉々に打ち砕くとの預言でしょう。
1節と2節を纏めると、キュロスの前の一切の障害となるものをすべて主が取り除かれること、「国々を彼に従わせ」ですから、そのために主がキュロスに肩書きを与え、力を与えることが約束されているのでしょう。
●3節.暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。
「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。」というのは、当時の国々は、他国と戦って自分が不利になったり負けたりして、宝とか富を略奪されることに備え、分からないように隠したそうです。
けれども、「あなたは知るようになる」ですから、それらも主はキュロスに見つけさせるようにされたのです。
しかし、聖書の神がなぜ、偶像礼拝の国メド・ペルシャのキュロス王に隠された宝物を見つけさせたのでしょうか。
それは、隠された財宝の中には、バビロンの王ネブカデネザルがイスラエルから持ち帰った神殿の聖なる器具もあったことでしょうから、それらもイスラエルに返還されるようにするためということでしょう。
しかし、聖書の神は、メド・ペルシャのキュロス王は偶像礼拝の国で異邦の民です。イスラエルの神を信じていたわけではないのです。
キュロス王は、ペルシャの神ゾロアスター教神を信じていました。
そのような者も聖書の神は用いてイスラエルを救われるのです。
おそらく、「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である」とありますから、聖書の神、わたしこそ真の神であると自己の唯一性を宣言し、イスラエルの創造主であることを、キュロス王に知らしめて、イスラエルを救うための道具として従うようにされるためではないでしょうか。
聖書の神は、神の民だけではなく、場合によってはこのように偶像礼拝をする異教徒とか未信者をも用いてご自分の計画を推し進められることもあるということです。
ということは、当時の状況を考えると、聖書の神のわたしこそ真の神であると自己の唯一性の宣言は、イスラエルを中心として、ペルシャの王となるキュロス、エジプト・クシュ・セバ人、諸国からの逃亡者たち、そして地の果てのすべての者たちに、それぞれに対してなされているといえるのではないでしょうか。
●4節.わたしの僕ヤコブのために/わたしの選んだイスラエルのために/わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが/あなたは知らなかった。
●5節.わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。
●6節.日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
「あなたは知らなかった。」ということは、偶像礼拝の多神教の神を拝する異邦人で、聖書の神を知らなくても、主はイスラエルを救うためにキュロス王を、「油注がれた者」、すなわち、聖別し、用いられたのですが、キュロス王はそのことを知らなかったのです。
その理由は、6節に書いてある通り「日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる」ためなのです。
これは、イスラエルに起こった驚くべきことを世界の諸国が知ることにより、その出来事が聖書の神の御業であることを知らせるためということでしょう。
そして、諸国の異邦の民は、この方以外に神はないということを知るようになるのです。
●7節.光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。
「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者」ですから、主はこの世界の光と闇、平和と災いのすべてを掌握されている、すなわち、この世界のすべての主権をお持ちだということが明確に述べられています。
この言葉の背景には、ペルシャの宗教ゾロアスター教の影響があるそうです。
つまり、ゾロアスター教は二元論で、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ二つの対立する原理に基づいており、その対立によって世界が造られると考えていたということです。
しかし主は、そうではなく、光もやみも神ではなく、神によって造られたものにすぎないと言っておられるのです。
●8節.天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。
「わたしは主、それを創造する。」ですから、天地万物の創造と働きは、わたしによると主は言われています。
全世界の「正義」と「救い」の恵みが、天から滴り落ちる「露」と表現されています。
その正義と救いをもたらされるのは、「わたしは主、それを創造する。」ですから、イスラエルの神、聖書の神、主であるということでしょう。
●9節.災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか/「何をしているのか/あなたの作ったものに取っ手がない」などと。
●10節.災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い/なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は。
新約聖書ローマ書9章2節の「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者 に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。」は、この箇所が引用されているのでしょう。
ユダヤ人によって、異邦に国であるペルシャのキュロス王によって救われることに納得できなかったのでしょう。
自分たちは、偶像の神ではなく真の神を信じ、神に選ばれた民なのに、なぜ、異邦人に救われなければならないのか、ということでしょうか。
主は異邦人を、いや、悪魔でさえも、ご自分の栄光(ご計画)のために用いられます。
そのイスラエルの民の疑問に対してパウロは同章21節で、「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」と言っています。
聖書の神は、この天地万物のすべてを支配しておられます。その神に対して「どうしてですか・・」と抗議するようなことがあってはならないのです。
それはちょうど「土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者」ということでしょう。
イスラエルは「土の器のかけらにすぎない」のです。
「土の器のかけら」は、陶器師である神に用いられて初めて価値が生まれるのです。
●11節.イスラエルの聖なる神、その造り主/主はこう言われる。あなたたちはしるしを求めるのか。わたしの子ら、わたしの手の業について/わたしに命ずるのか。
「あなたたちはしるしを求めるのか。」は、新改訳では、「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。」となっています。
「あなたたち」は、イスラエルを指しますが、イスラエルは、主がなされることについて不満を述べているのでしょう。
●12節.大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ/その万象を指揮するもの。
主は改めて、「大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし・・」、すなわち、わたしが創造主だと異教の偶像の神々を拝む者たちに宣言されています。
●13節.わたしは正義によって彼を奮い立たせ/その行く道をすべてまっすぐにする。彼はわたしの都を再建し/わたしの捕らわれ人を釈放し/報酬も賄賂も求めない。万軍の主はこう言われた。
「彼」はキュロス王ですから、主はキュロス王を「正義によって彼を奮い立たせ」ですから、キュロス王は自分の代価とかわいろなど自己の利益のためにイスラエルの民を捕囚から解放したのではなく、主がそうされたからです。
そして、偶像を拝む異邦の民に対して、主は次(14節以降)のように挑まれます。
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