捕囚の開放(42章)
聖書の箇所は、42章18節から25節、43章1節から7節です。
●18節.耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
●19節.わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。
●20節.多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。
「耳が開いているのに、何も聞こえない人」とか「目に映っても何も見え」ない人は、イスラエルの民を指すのでしょう。
19節の「わたしの僕」はその「目の見えない者」ですから、イスラエルの民を指すのでしょう。
彼らには神によって贖われ、神によって養われたにもかかわらず、神の声を聞こえていても聞こうとしないし、心に留めようともしませんでした。
それは、イスラエルの民が神の僕であるにもかかわらず、神は霊の存在ですから、霊的に盲目であり、霊的に耳の聞こえない者だということでしょう。
主はそのような彼らを見て驚いておられるのです。
なぜならば、異邦人ならば神の声が聞こえていても聞こうとしないのは当然ですし、何が真実か見えていてもみようとしないのは当然ですが、イスラエルの民は、神に買い取られ、養われた神の僕ですから、そのようなことはあり得ないのです。
神は、イスラエルの民を出エジプト時には数々の奇跡としるしを行い、彼らをエジプトから脱出させました。
荒野では四十年間もマナをもって養われ、水は、岩から噴出させ与えてくださいました。
そして約束の地カナンへと導かれると、その地の住民を追い払い、約束のとおりに彼らに乳と蜜の流れる地を与えてくださいました。
このように神は、彼らを特別に取り扱ってくださったのですが、それは、そのことによって彼らが、この方こそまことの神であり、全宇宙を造られた創造主であることを知るためなのですが、彼らは、見ても見ないふり、聞いても聞かないふりをして、心をかたくなにしてしまったのです。
このようにしてイスラエルは、人類救済と新しい人類の創造という遠大な神の御計画のために選ばれた民です。
主が、どんなに多くのことを見せても、心に留めようとしないで、多くのことを聞かせても、聞き従おうとしませんでした。
そんなかたくななイスラエルの民を見て主は驚いておられるのです。
●21節.主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。
●22節.この民は略奪され、奪われ/皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく/奪われても、返せと言う者はない。
主(創造主)は、ご自分の「正しさ」ゆえに、「目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。」イスラエルの民を裁かなければならない。
そのことによって、義なるご自分の「教えを偉大なものとし、」、そして、ご自分を「輝かすことを喜ばれる。」のです。
●23節.あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。
●24節.奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった。
「これを聞き取る者があるか。」というのは、イスラエルの民に起こる苦難は、主の裁きの結果なのですが、それを正しく聞き取り理解している者はあるか、と言われているのでしょう。
もちろん、イスラエルの苦難は、アッシリアによる北イスラエル崩壊と捕囚、バビロンによる南ユダ王国の崩壊と捕囚です。
「奪う者にヤコブを渡し」ですが、ヤコブはイスラエルの民を指します。
だれが、「奪う者にヤコブを渡し」、「略奪する者にイスラエルを渡したのは誰」でしょうか。それは主です。
イスラエルが、主の「その教えに聞き従おうとしなかった。」からです。
●25節.主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。
主が、義なるゆえの裁きを前もって預言者を通してイスラエルの民に告知されたのに、彼らは言うことを聞かずエルサレムは燃やされ、民は捕囚の目にあいました。
その時でさえ「炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、(主の裁きの結果であることを)気づく者はなかった。」のです。
纏めるとこういうことでしょう。
あなたを選び、教え導き、養い育ててきたのに、あなたは私の気持ちも知らないで、裏切った。私は正義の神ゆえあなたを裁かなければならない。だからあなたを滅ぼすということです。しかし、すごいですね。
逆に言えば、私があなたを選んだ目的が、それだけあなたたちにとって重要なことだということでしょう。
それはもちろん、全人類の罪からの救済計画と、新しい人類の創造です。
●43章1節.ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
ここは前節までの裁きに対する対比で、「あなたを造られた主は/今、こう言われる。」という書き出しで始まります。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」ですから、今度は、主のイスラエルに対する強い愛を感じます。
主はイスラエルを愛しておられるのですが、その理由の一つは、イスラエルをご自分が造られたからです。
一度失ったものを再度自分の手に取り戻したときに喜びを語っているようです。
もう、二度と離さない、という強い主の思いが感じられます。
かたくななイスラエル(ヤコブ)に、「恐れるな」と言われます。
それは、「わたしはあなたの名を呼ぶ。」は、主が彼らを贖われ(代価を払って買い取った)、彼らは主のものだからということです。
だから、どんなことがあっても見離さず、見捨てることはないということでしょう。
たとえ彼らが神に背き、罪のどん底に落ちようとも、主は彼らを見捨てるようなことは絶対にされないのです。
●2節.水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。
主が怒られ、義による裁きの試練の中にあっても、彼らは滅びることがないことを約束され、ここでは、どのようなときにも私は共にいるといわれています。
●3節.わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
バビロンを滅ぼしたペルシヤ帝国は、エジプトもエチオピヤ(クシュのこと)も征服しました。「セバ」は、エチオピヤからさらに南方にある地域です。
主は、そうした国々を彼らの身代金として支払い、彼らをバビロンから救われたのです。バビロンで捕囚の目にあっているユダヤ人については、彼らをエルサレムに帰還させ、神殿を建てるように命じたのです。
この出来事を主は、「エジプトをあなたの身代金と」と言われているのではということです。
●4節.わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。
神はイスラエルの民を、エジプト・エチオピヤ(クシュのこと)・セバという国々を贖いの代価(あなたの魂の代価)として買い取られたのです。
こうしてイスラエルは、神のものとなりました。
ですから、神の目にあなたは「あなたは価高く、貴い」のです。
●5節.恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。
●6節.北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
主は1節で「恐れるな」と言われましたが、ここでも「恐れるな」と言われています。それだけイスラエルの民が恐れていたのでしょう。
その恐れは、捕囚におけるバビロンの圧制の中で、自分たちのこれからの行く末を考え不安になっていたのでしょう。
もちろん、大国として台頭してきたペルシヤに対する恐れもあるのでしょう。
この時はまだペルシヤが自分たちをバビロン捕囚から解放するなど分からなかったともいます。
しかし主は、「恐れるな。たしはあなたと共にいる。」と言われます。
そして主は「わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。」ですから、離散しているイスラエル人を、東から、西からですから、世界各地から集める約束されているのです。
もちろん、バビロンに捕囚されているエルサレムのユダヤ人だけでなく、アッシリアの捕囚で捕え移され他の地域にいた北イスラエルの人々も、各地に離散していましたから、そういう彼らを遠くから集め、祖国エルサレムに帰還できるようにされるということでしょう。
やがて、バビロンは、ペルシヤの支配の中に入ったので、クロス王の計らいによりバビロン捕囚の中にあるエルサレムのユダヤ人は祖国エルサレムの地に戻ることができました。
バビロン捕囚から70年後のことです。
6節を読むと、やはり、終わりの日にご自分がこの地上に戻って来られる時、起こると言われた、「マタイの福音書25章31節「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」が実現するのです。
主が御使いたちを遣わすと、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めるのです。世の終わりには、再びイスラエルが復興するのです。
この「人の子」は、イエス・キリストですから、イエス・キリストは、世の終わりに、ご自分がこの地上に戻って来られる時、このようなことが起こるのです。
「北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな」ですが、おそらくこの北とは東ヨーロッパや旧ソ連のことで、「南」というのはエチオピヤのことを指しているのではないかと言われています。
●7節.彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。
この7節ですが、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者」ですから、イスラエルの人々を指すのでしょう。
そして、彼らを選んだのは、「わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者」とするためだとしています。
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