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2022年10月17日 (月)

メシア、イエス・キリスト誕生の預言(イザヤ7章)

その一.メシアは、処女から生まれる
聖書箇所は、イザヤ書7章13節から14節です。
●13節.イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
●14節.それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

 

13節のイザヤの憤りの言葉に続いて、イザヤは、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。」(14節)と、告知します。

 

そして、イザヤは「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」とインマヌエル預言(「神、われらと共にいます」の意)をします。

 

まさに、イエス・キリストの処女降誕の預言です。(マタイの福音書1章22節・23節)
ただし、この「処女」と言うのは見方がありまして、アハズの時代におけるこの処女とは、8章3節に出てくる女預言者のことで、預言者イザヤの妻ではと言うことです。

 

彼女はイエスの母マリヤのような意味での処女ではなく、若い女性であったので、処女は若い女性をさすのではと言うことです。

 

この預言は、信仰を持って主にしるしを求めない者に与えられるしるしとして語られています。

 

インマヌエルの預言は、主を信じない者は、裁かれるほかないのですが、しかし、主はその背信の民をなお愛し続けるというメッセージです。

 

イスラエルにとっては、インマヌエル「神はわたしたちと共におられる」の預言は、現実を、恵みによって実現される約束であって、イスラエルの残りの者をユダヤの地に帰らせる約束として語られています。

 

今を生きる私たちは、このインマヌエルをそのようにとらえますが、キリストを知らない、またヨハネの黙示録を知らない当時の人々は、インマヌエル(「我等と共に、神がいます」)は、歓喜と勝利の歌声として理解されていたでしょう。
すなわち、アハズ王はシリヤ・エフライム同盟軍からの脅威をかわすために、彼らが最も恐れるアッシリアと手を結び、その脅威からユダ王国を解放することに成功しましたから、それがこのしるしの成就だと思って人々は心底から歓声を上げて喜んだと思います。

 

ユダに驚異を与えたアラム(シリヤ)とエフライム(北イスラエルの最大の部族)の両国は、アッシリアによって滅ぼされ、北イスラエルの民は、囚われてアッシリアに連れていかれました。

 

前節までは、イザヤとアハズ個人に主は語られていましたが、この預言は、「あなたたちに」(ダビデの家全体だと思います。イスラエルのこと)となっています。

 

歴代誌上17章11節から14節に主なる神がダビデの家と結ばれた契約があります。
それは、ダビデの家、すなわち、ダビデの子孫の中から世継ぎの子(ダビデの子、メシア王国の王イエス・キリストのこと)を起こし、彼の王国(メシア王国)を建てるとの約束です。

 

そして、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。
わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座は、とこしえに堅く据えられる。」とあります。

 

そしてその子は「おとめが身ごもって、男の子を産み」ですから、その子が生まれる時は、男の子が「処女」(若い女と言う意味もありますが)から生まれると言うことです。
その男の子の名が「インマヌエル」ですから、神がわたしたちとともにおられる、という意味で、神が人の形をしてわたしたちと共におられる(神であり人である方)、ということです。

 

その二.メシアは、ベツレヘムで生まれる
聖書箇所は、ミカ書5章1節から2節です。
シオンの娘(エルサレム)が敵に対して圧倒的に打ち勝つことを神が約束してくださっています。けれどもその人物が、人ではなく、実に神が立てられた王、キリストによって実現します。

 

●1節.エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 

4章14節と5章1節は、メシア(救い主)が生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させるために並べてあると言われています。
並べて書いてみますと
4章14節
今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ。
5章1節
エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
即ち、「イスラエルを治める者」の頬が杖で打たれるエルサレムと、「イスラエルを治める者」が出るエフラタのベツレヘムが対照されています。

 

と言うことは、「お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者」がベツレヘム(=エフラタ)で、「彼の出生」ですから、生まれるということです。
この預言は、約700年後にベツレヘムで生まれたイエス・キリストによって実現しました。

 

「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」(そこから治める者がでること)、「出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」ですからまさにキリストです。

 

●2節.まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。

 

「ユダの氏族」と言うのは、イスラエルのダビデの父エッサイはベツレヘム出身でした。
ダビデはエッサイの八番目の末の息子で、成長し彼が統一国家の時代のユダとイスラエルの王となります。

 

そして彼の世継ぎの子からイエス・キリストが生まれるのです。
ベツレヘムはユダの氏族の中で「最も小さいもの」とされています。

 

「最も小さい」は、小さい、つまらない、若い、年下、末の子、弟、妹を意味すると言うことです。

 

「イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」ですから、神は、この王が出ることが「永遠の昔」から定められていると言います。

 

聖書では、ほかにも例は多くあるのですが、小さな氏族、小さな者、末の者、弟や妹、小さな村、閑村といったところから神のために大いなるものが生まれるのです。
これを神の「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(1節)、つまり、永遠の昔からの不変の神の定めだと言うことでしょう。

 

ベツレヘムから「イスラエルを治める者が出る。」(1節)という神の約束は、イエスの誕生によってある意味において実現しました。
それでは、イエス・キリストが「イスラエルをおさめる者」となるのは、これからの終わりの日のキリストの再臨を待たねばなりません。

 

2節の冒頭の言葉「まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。」がそのことを現しているのでしょう。

 

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