神の勝利(42章)
聖書の箇所は、42章10節から17節です。
前節までは、やがて来られるメシヤ、イエス・キリストがどのような方かが語られました。
10節以降は、その主を見た者はどうあるべきなのかが語られています。
●10節.新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。
「新しい歌を主に向かって歌え」は、前節までの「わたしの僕」イエスキリストが再臨されるという預言に対し、地の果てから、海を渡ってその向こうにある島々に至るまでですから、世界中のいたるところで「主の栄誉を歌え」ということでしょう。
●11節.荒れ野とその町々よ。ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。セラに住む者よ、喜び歌え。山々の頂から叫び声をあげよ。
●12節.主に栄光を帰し/主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
11節の「ケダル族」は、アラブ人だということです。
創世記25章13節を見ると、その先祖はイシュマエルなのですね。
サラの女奴隷ハガルがアブラハムに産んだこどもがイシュマエルで、そのこどもがケダルです。
ケダルは後のアラブ人で、そしてイスラム教を開いたムハンマドが出てきたそうです。
このケダル人について聖書は、詩篇120篇5節から7節のところで、次のように言っています。
「わたしは、不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍ら住むとは。平和を憎む者とともにわたしの魂が久しくそこに住むとは。平和をこそわたしは語るのに彼らはただ、戦いを語る。」
つまり、この時代からケダル人であるイスラム教徒は、イスラエルに敵対していたのです。
両者は敵対関係にあるのに、主は、そのケダル族にも新しい歌をうたうように召しておられます。
しかし、新約聖書エフェソへの手紙2章11節以降(キリストにおいて一つとなる)を読むと、やがてケダル人の村々も、イスラエルの民と一緒になって「主の栄誉」をほめたたえるようになるのでしょう。
つまり、コーランの神アラーではなく聖書の神、その御子イエス・キリストを信じるようになるのです。
●13節.主は、勇士のように出で立ち/戦士のように熱情を奮い起こし/叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。
●14節.わたしは決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ/激しく息を吸い、また息を吐く。
●15節.わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。
13節に、主は、「勇士のように出で立ち・・鬨の声をあげ、敵を圧倒される。」とあります。再び来られる時は戦士として敵に対峙されるのです。
黙示録のキリストの再臨の時の最後の裁きのときと同じです。
そして、14節で主は、その時までは、「わたしは決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。」としています。
主は罪と罪悪に対して忍耐しておられましたが、「子を産む女のようにあえぎ」ですから、時が熟し、罪が満ちたので、世を裁かれるのです。
●16節.目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。
「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。」ですから、主は救いの御業を最後に行なわれます。
暗闇の中にいて真理(キリスト)を知らなかった人々が知るようになります。
そして「闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。」ですから、主への道も、その真理によってまっすぐにされる、すなわち、罪が赦され、そのまま主に会えるようになるのです。
●17節.偶像に依り頼む者/鋳た像に向かって/あなたたちがわたしたちの神、と言う者は/甚だしく恥を受けて退く。
「偶像に依り頼む者」は、神の国の栄光にあずかることはできない、ということでしょう。真実を前にして偶像を拝する者は「甚だしく恥を受けて退く。」とします。
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