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2022年10月の記事

2022年10月 5日 (水)

創造と贖いの神(40章)

聖書の箇所は、40章12節から31節です。
●12節.手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。

 

神は、ご自分は天と地を造られた神、そして天と地をご自分の手に収めておられる神であるとイスラエルの民に語っておられます。
だれもこの地球にある水の量を量ることも、この巨大な宇宙を量ることも、地のちりを枡に盛って、山や丘をてんびんで量るもできません。

 

しかし、イスラエルの神はこの天地万物を作られた神ですから、その水を手のひらに、大宇宙を手の幅に収めることができ、地のちりを枡に盛って量ることができます。

 

 

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諸国民の審判(41章)

聖書の箇所は、41章1節から29節です。
●1節.島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。

 

ここは、「島々」に対する主の呼びかけですが、島々とは、イスラエルから見た島々、それは地中海の島々のことでしょう。
呼びかけは、イスラエル以外の異邦の国々ですから、偶像礼拝の国々を指しているのでしょう。

 

「互いに近づいて裁きを行おう。」は、「国々の民よ、力を新たにせよ。」とありますから、力を新たにして(元気を出して)、「進み出て語れ」、ですから、「互いに近づいて裁きを行おう。」、で、論じあおうということでしょうか。

 

裁きの場で偶像を拝む諸国の民に、偶像の神と真のイスラエルの神を比較し、どちらが本物の神なのか、どちらが信頼に値する力ある神なのかをたがいに近づいて論じ合おうではないか、ということでしょうか。

 

 

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2022年10月13日 (木)

主の僕の召命(42章)

聖書の箇所は、42章1節から9節です。
イザヤ書の四つの「主の僕の歌」の最初の歌です。
ここの特徴は、「預言者的しもべ」が強調されています。

 

●1節.見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
イザヤ書40章以降、「僕」という語句がよく出てきますが、「彼」が単数形なので、「わたしの僕」がイスラエルであれば、おかしくなります。

 

この僕は、ヤコブの時代ではわかりませんでしたが、神の僕で「わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」者ですから、メシヤ、すなわち、イエス・キリストの誕生を指すのでしょう。(参考箇所マルコの福音書1章11節、マタイの福音書12章17節から21節)

 

 

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神の勝利(42章)

聖書の箇所は、42章10節から17節です。
前節までは、やがて来られるメシヤ、イエス・キリストがどのような方かが語られました。
10節以降は、その主を見た者はどうあるべきなのかが語られています。

 

●10節.新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。

 

「新しい歌を主に向かって歌え」は、前節までの「わたしの僕」イエスキリストが再臨されるという預言に対し、地の果てから、海を渡ってその向こうにある島々に至るまでですから、世界中のいたるところで「主の栄誉を歌え」ということでしょう。

 

 

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捕囚の開放(42章)

聖書の箇所は、42章18節から25節、43章1節から7節です。
●18節.耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
●19節.わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。
●20節.多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。

 

「耳が開いているのに、何も聞こえない人」とか「目に映っても何も見え」ない人は、イスラエルの民を指すのでしょう。
19節の「わたしの僕」はその「目の見えない者」ですから、イスラエルの民を指すのでしょう。

 

彼らには神によって贖われ、神によって養われたにもかかわらず、神の声を聞こえていても聞こうとしないし、心に留めようともしませんでした。

 

 

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2022年10月17日 (月)

ほぼ全員救済のこれだけの根拠

●ローマの信徒への手紙11章6節から8節と11節、12節、15節
〇6節「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」・・ユダヤ人の残りの者の救いは恵み、行いではない

 

〇7節「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。」・・ユダヤ人の救われた残りの者もかたくなな者も神がそのようにされたからです。
その人がそのようになりたいと思って努力したわけではありません。

 

〇8節「神は、彼ら(異邦人)に鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。」・・異邦人が神から離反しているのは、神が異邦人をそのようにされたから。ユダヤ人と同じ

 

 

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主の僕の召命(イザヤ42章)

聖書の箇所は、イザヤ書42章1節から9節です。
イザヤ書の四つの「主の僕の歌」の内、メシヤ、イエス・キリストの誕生を指す最初の歌です。
ここの特徴は、「預言者的しもべ」が強調されています。

 

●1節.見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。

 

イザヤ書40章以降、「僕」という語句がよく出てきますが、「彼」が単数形なので、
「わたしの僕」がイスラエルであれば、おかしくなります。

 

 

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神の世界審判(イザヤ24章)

聖書の箇所は、24章1節から23節です。
24章では、イザヤの預言は、周辺諸国にとどまらず全世界に及びます。
そうです、主が南ユダと周辺諸国に行なわれたことが、全世界の規模で同じように行なわれるのです。

 

そして、それは、「その日」、つまり、終わりの時に主が行なわれることです。
ですからこの24章から27章は「イザヤの黙示録」ともいわれている箇所です。
もう一度確認しますが、イザヤが「その日(には)」という語句をもって語る内容は、さほど遠くない将来から、歴史における「終わり」の時、つまり、終末に起こる出来事をも含んでいます。

 

 

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メシア、イエス・キリスト誕生の預言(イザヤ7章)

その一.メシアは、処女から生まれる
聖書箇所は、イザヤ書7章13節から14節です。
●13節.イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
●14節.それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

 

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2022年10月22日 (土)

イスラエルの贖い(1)(43章)

聖書の箇所は、43章8節から28節です。
●8節.引き出せ、目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民を。

 

これはイスラエルの民を指して主が言っておられるのでしょう。
イスラエル人はなおも「目があっても、見えぬ民を/耳があっても、聞こえぬ民」なのです。

 

けれども「引き出せ」ですから、離散した先から連れ出されるのです。
この引き出せは、主が一方的に、離散したユダヤ人をイスラエルの地に引き戻されるということでしょう。

 

 

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イスラエルの贖い(2)(44章)

聖書の箇所は、44章1節から8節です。
●1節.そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。
●2節.あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。

 

主は、イスラエルを、「わたしの僕ヤコブ」「わたしの選んだイスラエル」、そして「イスラエル」が「エシュルン」と言い換えられます。
この「エシュルン」というイスラエルの呼び名は、イスラエルの愛称(雅名)だということです。
申命記32章15節とか同33章5節と26節でもその愛称で呼ばれています。

 

この「エシュルン」の語源は、真っ直ぐにする、正しく考える、物事を正すといった意味の動詞「ヤーシャル」から来ているそうです。
その意味から見ると、現実のイスラエルにはほど遠い存在です。

 

 

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無力な偶像(44章)

聖書の箇所は、44章9節から20節です。
●9節.偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。

 

石や木で作った偶像の神は、無力で物事を正す力(2節、「エシュルン」)はありません。それは何の役にも立たない神であり、それを造る者もみなむなしく「見ることも、知ることもなく、恥を受ける」のです。

 

主は、ここで自分と偶像の究極の対比が行われています。
人間はえてして目に見えるものに頼り求めますので、偶像をつくりますが、実際に目に見えるものを手にすれば、そこには命がありません。
偶像は人間が作ったものですが、わたしたちは聖書の神、主(創造主)が作られたのです。

 

 

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2022年10月29日 (土)

イスラエルの贖い(44章)

聖書の箇所は、44章21節から23節です。
●21節.思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。

 

「ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕」ですから、(イスラエルの先祖ヤコブは自分で造った神を拝んでいるのではなく、自分を造られた神を拝んでいるから、「あなたはわたしの僕」ということでしょう。
だが今は違う、「わたしを忘れてはならない。」ということでしょう。

 

●22節.わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。

 

 

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キュロスによる解放(44章)

聖書の箇所は、44章24節から28節、45章1節から13節です。
●24節.あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。
●25節.むなしいしるしを告げる者を混乱させ/占い師を狂わせ/知者を退けてその知識を愚かなものとする。

 

万物の造り主、主は、「自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」と、この方は「むなしいしるしを告げる者」「占い師」「知者」を退けて、その知識を愚かにします。

 

この「むなしいしるしを告げる者」(自慢する者)、「占い師」「知者」というのは、バビロンの祭司や占い師や知恵ある者たちのことを指しているのでしょう。

 

 

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