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2022年9月の記事

2022年9月 4日 (日)

センナケリブの攻撃(1)(36章)

聖書の箇所は、36章1から22節です。
この36章から39章はイザヤ書の前半部分の締めくくりですが、その締めくくりにイザヤの時代に起こった歴史的な事実が記されています。
その意味は、これまでイザヤが預言したことが本当に起こったということを明らかにするためだと言うことです。

 

預言の成就が確認されているのは、エルサレムを完全に包囲したアッシリアに対して、神が御使いをもって超自然的に介入され一晩で18万5千人を打ち倒されたことで南ユダは守られたと言う出来事です。

 

それは世の終わりに起こることも同じように成就するということを表しています。世の終わりには、艱難時代があり、ハルマゲドンの戦いがあり、イスラエルの残りの者が救われ、千年王国(メシア王国)が樹立されます。
これらのことが必ず起こると言う証です。
聖書の預言は絶対成就する、だから、主の書物を調べて読まなければなりません。これをつまびらかにたずねて読まなければならないのです。

 

 

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2022年9月10日 (土)

センナケリブの攻撃(2)(37章)

聖書の箇所は、37章1から20節です。
●1節.ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。

 

ここには、南ユダに迫っていた危機的な状況に対して、ヒゼキヤ王がどのように対処していったのかが記されています。
アッシリアの王セナケリブから遣わされたラブ・シャケは、揺さぶりをかけてヒゼキヤ王に降伏を呼びかけました。

 

絶望的な状況の中で、ヒゼキヤが対処したのは、まず、「衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。」のです。
荒布とは、断食して祈るときとか、喪に服する時に着るもので、悲しみと悔い改め(自己謙虚を表す)を表すものです。

 

ヒゼキヤ王は、王であるにもかかわらずその王位も衣も脱いで、荒布を身にまとい、神殿に入ったのです。
敵が攻めてきても、自分がどうなろうとも、「主の神殿」でとことん祈り抜く覚悟であったのでしょう。

 

●2節.また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。

 

また長老三人には、 「布をまとわせ、」て、預言者のところへ行かせました。
預言者のところに行くというのは、主の御言葉を聞き従いたいと言う意思表示でしょう。

 

 

 

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センナケリブの攻撃(3)(37章)

聖書の箇所は、37章21から38節です。
●21節.アモツの子イザヤは、ヒゼキヤに人を遣わして言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。あなたはアッシリアの王センナケリブのことでわたしに祈った。

 

イザヤがヒゼキヤ王に神の言葉を伝えました。当然、神はヒゼキヤ王の祈りを聞かれたと言うことでしょう。

 

●22節.主がアッシリアの王に向かって告げられた言葉はこうである。おとめである、娘シオンは/お前を辱め、お前を嘲る。娘エルサレムは/お前に背を向け、頭を振る。

 

アッシリアの王セナケリブに対する主の言葉ですが、すごい表現ですね。
「おとめである、娘シオンは・・お前に背を向け、頭を振る。」ですから、お前アッシリアは恥をかき、お前の思う通りにはならない、と言うことでしょう。

 

●23節.お前は誰をののしり、侮ったのか/誰に向かって大声をあげ/高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか。

 

 

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2022年9月16日 (金)

ヒゼキヤの病気(38章)

聖書の箇所は、38章1節から22節です。
●1節.そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。

「そのころ」と言うのは、 エルサレムがアッシリアの包囲を受けていた時でしょうから紀元前701年の頃でしょうか。
そのころヒゼキヤは病気になっていたのですが、ここから15年間、寿命を延ばされて、そして彼は紀元前686年に死んでいます。
エルサレムがアッシリアに包囲されていた時に、ヒゼキヤは病気で苦しんでいたのです。

イザヤが主の言葉として、死の宣告をし、家族に遺言を残せと言われていますから、相当重かったのでしょう。
主はヒゼキヤに死を宣告すれば、彼が主に助けを求めることを知っていたはずですから、やはりこの死の宣告は、彼が主に助けを求めることを見越して、神の栄光を現わす機会に用いられたのかもしれません。

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2022年9月17日 (土)

聖書のよもやま話(14)

聖書のよもやま話(14)
第十四回目は、<旧約聖書の編纂><旧約聖書の成立過程><旧約聖書のユダヤ教での聖典化><旧約聖書と新約聖書>です。

 

<旧約聖書の編纂>
口伝伝承が編集され文字化され、まとまりのあるものが最初に成立したのは前5世紀から前4世紀頃とされています。
その時代のユダヤ民族は、ペルシアの支配下にあった時期です。
バビロン捕囚からの帰還がおわり、第二神殿の再建も終わった頃でしょうか。

 

民族としてのアイデンテイテイが求められた時であったと思います。
ユダヤ教が民族宗教として成立したと言えるのは、紀元前13年の「出エジプト」の出来事の時でしょうから、それから聖書の最初の部分が生じるまで、800年から900年の時間を経ています。

 

<旧約聖書の成立過程>
旧約聖書の中で、最初に文字化され編纂されたのは「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五つの文書からなる、いわゆる「(モーセ)五書」でしょう。
これに預言書・諸書が加わって、タナハと言われるようになりました。

 

 

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2022年9月19日 (月)

聖書のよもやま話(15)

第十五回目は、<新約の神と旧約の神との違いと関係><神と人との契約><宗教><人間が子供を産むという奇跡と処女降誕><キリストがなされた奇跡>です。

<新約の神と旧約の神との違いと関係>
新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題を考えてみたいと思います。
その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。

「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネの福音書第5章39節)
イエスは、旧約聖書という書物には、わたしのことが書いてあるといっているのです。

ところがこの書物にはイエスという名前はどこにも見あたりません。イエスのイの字もでてこないのです。
それでも、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で、たとえば比喩で現しているということになると思うのです。
だから、旧約聖書はそういう風に読む必要があるのではないかと思うのです。

新約聖書にはイエスのことが書いてあり、旧約聖書はそのイエスを証言しているといえます。

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2022年9月22日 (木)

聖書のよもやま話(16)

第十六回目は、<神話><物質の悪化と無秩序化の法則><受肉の意味><イエス・キリストのすごい言葉>です。
<神話>
神話をネットで調べると、「人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている。」とありました。

 

我々人類は、歴史の営みの中で膨大な神話を生み出しました。
種々雑多な根源が混ざり合って、すなわち、真実の歴史や寓話や祭儀や人間が物語の中で感じる喜びなどが混ざり合って、そこから生み出されたと思うのです。

 

ですから、神話は全くの創作でもなく、真実も込められています。
世界中には、無数の宗教が存在しますが、そういう神話の性質から見て当然のことでしょう。もちろん、この人類を含む宇宙は、人間にとって想像を絶する存在で、未知であり、神秘ですから、神話が生まれるのは当然ともいえます。

 

わたしは聖書(旧約聖書の創世記)の神を信じるのですが、そこには、この宇宙、天地万物の創造とか悪魔と神との両方の超自然的な源も神話として生み出され記されています。

 

 

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2022年9月28日 (水)

バビロンからの見舞客(39章)

聖書の箇所は、39章1節から8節です。
2節に「ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中にひとつもなかった。」とあるように、ヒゼキヤは、病気のために見舞いに来たバビロンの使節団に対して、偵察かもしれないのに、王宮内を案内して回り、もてなしのつもりで、得意になって宝物庫から武器庫まで、洗いざらい見せました。

 

ここでイザヤが、「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。」(6節)、という主のことばを告げていて、さらに、「あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある。」(7節)とも言っているからです。

 

●1節.そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンがヒゼキヤに手紙と贈り物を送って来た。病気であった彼が健康を回復したことを聞いたからである。

 

 

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帰還の約束(40章)

聖書の箇所は、40章1節から11節です。
イザヤ書前半部分の1章から39章では、罪を犯した南ユダに対して主が裁きを行ない、それから回復する預言を読み、ここ40章以降はその回復が中心に書かれています。

 

時代背景は、前章まではイザヤが生きていて、ヒゼキヤが南ユダの王であった前後の時代で、アッシリアが南ユダの首都エルサレムを包囲して、主がエルサレムを救われることがその背景でした。

 

40章以降は、そのときから100年以上先になります。
アッシリアではなく、バビロンからの救いがその背景にあります。

 

 

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