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2022年8月の記事

2022年8月 4日 (木)

ダマスコとエフライムの運命(17章)

聖書の箇所は、17章1節から11節です。
17章から19章25節までは、三つの国に対する神の裁きと回復の預言が記されていますが、かなり解釈が難しいです。
しかし、ここにも「その日」が頻繁に出てきます。

 

イザヤ2章2節と3節で「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」日です。

 

「主の神殿の山」とはシオンの山であり、そこが世界の中心となって、世界中の国々から人々とが主を礼拝し、主のお教えを聞くために流れるようにして集まってくるのです。

 

もちろん、その中には、「ダマスコ」(シリヤの首都)、「クシュ」(エチオピア)、「エジプト」の人々も入っています。
まさしく「その日」は、神の人類救済のご計画の最終的な段階を示すものであり、神の主権性が究極的な形においてあかしされる時になります。

 

 

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諸国民のどよめき(17章)

聖書の箇所は、17章12節から14節です。
●12節.災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。

 

「災いだ」は、再びアッシリアに対する宣告になるのでしょう。
アッシリアが襲い掛かって来る様子が海の大波としてとして描かれています。
この後に、18章でエチオピヤに対する宣告、19章でエジプトに対する宣告と続きます。

 

「多くの民」とあり、アッシリアとは書いていません。
それは、アッシリアは数多くの国を制圧して、その国民を兵役につかせたので、多国籍軍のようになってたからでしょう。
アッシリアがシリヤと北イスラエルを倒し、またガザのほうにも行き、一気に南になだれこみます。そう、「騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。」です。

 

 

 

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クシュとの陰謀(18章)

聖書の箇所は、18章1節から7節です。
イザヤ書18章から20章までは、「諸国に及ぶ主の救い」です。
17章までは、北イスラエルと南ユダの周辺諸国に対する神の宣告についてで、特に、アッシリアが勢力を拡大させていく中で、諸国に起こる事柄について、イザヤが預言していました。

 

主は、南ユダだけでなく、周囲の国民にもその救いを差し伸べておられます。
とくに、北イスラエルと軍事同盟を組んだシリヤが、いつかはイスラエルの残りの者と共に、「その日」には真の神に立ち返るという内容もありました。

 

ここ18章は、まずエチオピヤ(クシュ)とエジプトです。
その前に、時代背景を調べてみますと、紀元前714年、エチオピアの王シャバカはエジプトを征服して、第25王朝のパロの位に就きました。

 

 

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エジプトの審判(19章)

聖書の箇所は、19章1節から15節です。
●1節.エジプトについての託宣。見よ、主は速い雲を駆って/エジプトに来られる。主の御前に、エジプトの偶像はよろめき/エジプト人の勇気は、全く失われる。

 

アッシリアイスラエルやモアブ、ペリシテの地域を越えて、南進している時のことでしょう。
「エジプトについての託宣。」です。

 

「主は速い雲を駆って/エジプトに来られる。」は、神がエジプトをさばかれるために速やかに来られるという意味でしょう。
何故神はエジプトを裁かれるのか、それは、偶像です。

 

神の裁きの結果、「エジプトの偶像はよろめき/エジプト人の勇気は、全く失われる。」となります。
かつて栄光を誇っていたエジプトは、当時、クシュに支配されエチオピヤ人が王になるほど、その国力は弱まっていました。

 

「主は速い雲を駆って/エジプトに来られる。」と言うのは、主がアッシリアを用いてエジプトを裁かれると言われているのでしょう。
そして「エジプトの偶像はよろめき/エジプト人の勇気は、全く失われる。」とありますが、エジプトは極端な偶像礼拝国でありましたから、その偶像が滅ぼされると、エジプト人は支えが無くなり、よろめき、勇気も失せるのです。

 

 

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終わりの日の和解(19章)

聖書の箇所は、19章16節から25節です。
●16節.その日には、エジプトは女のように弱くなり、万軍の主が振りかざされる御手に恐れおののく。

「その日」という言葉が出てきました。そう、この地上世界の終わりの日のことです。
ですから、ここは差し迫ったアッシリアの脅威の話ではなく、その後のエジプトの歴史、そして終わりの時の究極の姿を表しているのでしょう。

「女のように弱くなり」ですが、エジプトは古代文明の発祥の地です。
歴史が長くプライドだけは高いエジプトが、弱くなるのです。

エジプトは、アッシリアに攻められて、後にバビロン、ペルシヤに攻められ、ギリシヤ時代にはプトレマイオス朝の一部になりました。
ローマの時代には完全に国としての単位は失われました。

エジプトは、そのようにしてプライドがズタズタにされて「恐れおのの」きます。
何に恐れおののくかと言えば、「万軍の主が振りかざされる御手」にです。

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アシュドドの占領(20章)

聖書の箇所は、20章1節から6節です。
アシュドドはペリシテ領の一都市ですが、かつてイスラエルはペリシテと争って敗北を喫した際(第一サムエル4章2節)、イスラエルの長老たちが状況打破のためシロから手元に「主の契約の箱」(神の箱)を運んで来たのですが、ペリシテ軍に打ち負かされ奪われ(Ⅰサムエル4章21節)、最初に置かれた場所がアシュドドでした(Ⅰサムエル5章1節)。

 

しかし、神の箱が置かれたことでアシュドド住民に主によって災害、アシュドドとその周辺の人々を打って、腫物を生じさせられました(Ⅰサムエル5章6節)。

 

そのため、神の箱は他の町(ガト、エクロン)へ移しましたが、結果は同じでした。
それで談義した結果、「神の箱」はイスラエル領へと送り返そうと言う話になり、神の箱はイスラエルに帰還するすることになったのです(Ⅰサムエル5章)。

 

 

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バビロンの陥落(21章)

聖書の箇所は、21章1節から10節です。
再びバビロンとそれを破壊するメディヤ・ペルシヤから始まります。

 

●1節.海の荒れ野についての託宣。ネゲブに吹き荒れるつむじ風のように彼は来る/荒れ野から、恐ろしい地から。

 

「海の荒れ野」とありますが、「バビロン」を指すのでしょう。
バビロンは沙漠ですが、チグリス・ユーフラテス川という海のような大河が流れていたので、海の荒野と呼ばれていたと言うことです。
バビロンは、13~14章で、預言が語られていますが、9節にあるように、ここでは「バビロンの崩壊」です。

 

●2節.厳しい幻が、わたしに示された。「欺く者は欺き続け/荒らす者は荒らし続けている。上れ、エラムよ/包囲せよ、メディアよ/わたしは呻きをすべて終わらせる。」

 

バビロンについて、「厳しい幻」が示されました。
それは、バビロンが「欺く者は欺き続け/荒らす者は荒らし続けている。」状態になると言うことです。
エラムというのは、ペルシヤの町で、そしてメディアですから、メディヤとペルシヤの連合軍がバビロンの都市を囲んだ場面を幻としてイザヤは見ているのでしょう。

 

 

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エドムについての預言(21章)

聖書の箇所は、21章11節から17節です。
●11節.ドマについての託宣。セイルから、わたしを呼ぶ者がある。「見張りの者よ、今は夜の何どきか/見張りの者よ、夜の何どきなのか。」

 

「ドマ」の意味は、「静か」ということですが、エドムの地名でしょう。
「セイルから」も同様エドムを指すのでしょう。

 

エドムが8節に登場した見張りに、「見張りの者よ、今は夜の何どきか/見張りの者よ、夜の何どきなのか。」と聞いています。
二度も聞いています。

 

この「見張りの者」は、夜回り、すなわち、「夜警」のことでしょう。
「今は夜の何どきか」と言うのは、朝まで何時か、夜の時間はあとどのくらいあるのか、すなわち、アッシリアの侵攻迄どのくらい時間があるのか、私たちは征服される、夜が来る。いつになったら夜が明けるんだ、と問いかけているのでしょう。

 

 

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2022年8月 6日 (土)

いやし難いエルサレムの罪(22章)

聖書の箇所は、22章1節から14節です。 1~14節で起こっている出来事は、南ユダの最後の王ゼデキヤの治世(9~11年目)にエルサレムに起こる騒乱と混乱を指しています。 最後には、頑ななイスラエルの民のバビロン捕囚と言う主の裁きで終わります。 ●1節.幻の谷についての託宣。どうしたのか、お前たちが皆、屋上にいるのは。 「幻の谷についての託宣。」ですが、エルサレムを隠喩的に表現しています。 「幻の谷」は5節でも言及されていていますが、「幻の谷」がエルサレムを指すのか、バビロンを指すのかについては議論があるそうです。 しかしこの箇所の背景には、イザヤ自身が701年に語ったエルサレムの支配階級に対する怒りの言葉であるといわれていますので、そうであればこの箇所は、「エルサレムについての託宣」であることになります。 と言うことは、この託宣は、主に聞き従わないエルサレムを、諸外国と同じ神の審判の下において、「エルサレムの住民の不信仰を責める」ためでないかとみられます。

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シェブナの罷免(22章)

聖書の箇所は、22章15節から25節です。
●15節.万軍の主なる神はこう言われた。「さあ行け、あの家令のところへ。宮廷を支配しているシェブナのところへ。」
●16節.ここでお前は何をしているのか/ここでお前は何者だというのか。ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り/岩をえぐって住みかを造ろうとする者

 

「シェブナ」は、しもべの名前でしょう。しもべはもう一か所20節で「ヒルキヤの子エルヤキム」が出てきます。
主はこの二人のしもべを通して、幻の谷であるエルサレム、神の民であるイスラエルはいったいどうあるべきなのか、すなわち、主に忠実に歩むべきだと教えられているのでしょう。

 

この時代は、ヒゼキヤの治世の時で、アッシリアの王セナケリブがエルサレムを包囲した頃といえます。
「あの家令のところへ。宮廷を支配しているシェブナのところへ。」とありますが、彼はユダの王ヒゼキヤの宮廷を司っていたのでしょう。

 

そのシェブナは主に「ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り/岩をえぐって住みかを造ろうとする者」と言われていますが、「高い所」に墓ですから、自分の栄誉を残そうとしているのでしょう。

 

 

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ティルスの審判(23章)

聖書の箇所は、23章1節から18節です。
イザヤは、13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する神の裁きの宣告が語られてきましたが、その最後のところ23章で、フェニキヤの主要都市であったティルス(別名ツロ)に対する宣告が語られています。

 

ツロは「岩」という意味で、地中海東岸のフェニキヤ人の古代都市国家と言うことです。
ツロは、広大な土地を有していませんでしたが、地中海を舞台に世界中の国々と貿易をして栄え、巨万の富を築いていました。

 

●1節.ティルスについての託宣。泣き叫べ、タルシシュの船よ。ティルスは破壊され、住む家もなくなった。キティムの地から帰るやいなや/彼らはそのことを知らされた。

 

ティルスはツロですから、ツロに対する宣告です。
タルシシュというのは、やはり町の名で、今のスペインにあるそうです。
当時は地の果てと思われていたそうです。

 

ここにタルシシュが出てくるのは、タルシシュがツロの貿易相手国だったからでしょう。
ツロは、それほど遠方の国々とも貿易をしていたのです。

 

 

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神の世界審判(24章)

聖書の箇所は、24章1節から23節です。
24章では、イザヤの預言は、周辺諸国にとどまらず全世界に及びます。

 

そうです、主が南ユダと周辺諸国に行なわれたことが、全世界の規模で同じように行なわれるのです。
そして、それは、「その日」、つまり、終わりの時に主が行なわれることです。
ですからこの24章から27章は「イザヤの黙示録」ともいわれている箇所です。

 

もう一度確認しますが、イザヤが「その日(には)」という語句をもって語る内容は、さほど遠くない将来から、歴史における「終わり」の時、つまり、終末に起こる出来事をも含んでいます。

 

なお、「見よ」という語句もイザヤ書では「その日」と似た意味をもって使われています。
しかし、この24章の終わりの日の神の世界審判を語る未来の預言ですが、紀元1世紀末ごろに著されたヨハネの黙示録にそっくりです。

 

●1節.見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。

 

「見よ」ですから、終わりの日の大患難時代に関する預言が始まります。
4節まで続くのですが、1節には「見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。」とあり、4節には、「地は乾き、衰え/世界は枯れ、衰える。地上の最も高貴な民も弱り果てる。」ともにしおれる。」とあります。

 

 

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神の驚くべき御業・モアブの滅亡(25章)

聖書の箇所は、25章1節から12節です。
●1節.主よ、あなたはわたしの神/わたしはあなたをあがめ/御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。

 

25章と26章は、終わりの日の7年間の大患難時代が終わり、神の国が建てられた時に、つまり主の救いが完成した時にうたわれる歌です。
特に気になるのは、今までさんざん神に逆らってきた人間が、「わたしの神」と呼んでいるのと、「あなたは驚くべき計画を成就された/遠い昔からの揺るぎない真実をもって。」です。

 

主が神の国を建てたのは、いま考え出したことではなく、「遠い昔からの揺るぎない真実をもって、」なされた計画の成就だと言うことです。
私たち人間が創造されたのも、この人間の悲惨な歴史も、すべて終わりの日の神の国を成就するためにあるのです。

 

したがって、この人間世界のすべての出来事は、どんなに悲惨であっても、どんなに無意味のように思えても神にとって無駄なことは一つもなく、意義あることなのです。

 

 

 

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勝利の歌(26章)

聖書の箇所は、26章1節から6節です。
●1節.その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。

 

「城壁と堡塁」は、物理的なものではなく、ゼカリヤ書2章には火の城壁とも書かれていますから、これは主ご自身の臨在による城壁、また主の天使たちの城壁のことではないでしょうか。

 

「その日」、すなわち終わりの日(千年王国と、その後に続く新天新地)には救いのために、城壁と堡塁によってユダの地は守られるのです。
「堅固な都」とは、メシア王国(千年王国)の中心となるエルサレムを意味するのでしょう。神の救いが城壁で、塁が都を指すのでしょう。
●2節.城門を開け/神に従い、信仰を守る民が入れるように。

 

その都に入れるのは、「子羊の命の書に名が書いてある者」(黙示録21章27節)、すなわち、「城門」には、救いのために「城壁」と「塁」が築かれますが、その門を通って入ることができるのは「誠実を守る正しい民」であり、「志の堅固な者」です。

 

ここには、「神に従い、信仰を守る民」とあります。
だれの名前を記すかを決めるのは神ですが、その基準は、神に忠実かつ従順であるなら,その書に名前が記されます。

 

 

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復活を求める祈り、主の審判(26章)

聖書の箇所は、26章7節から27章1節です。
●7節.神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。

 

前節までは「その日」の平和と平安について歌っていますが、「平ら」とか「まっすぐ」ですから、ここから義について、正義について歌います。

 

いずれも、「その日」終わりの日、千年王国のことでしょう。
「神に従う者の行く道は平ら・・まっすぐ」ですが、神に従う者の道は、何の障害や困難もないということではなく、障害や困難があっても主がその道をならして平にしてくださるので、躓いたり倒れたり迷ったりすることないということでしょう。

 

●8節.主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み/わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは/わたしたちの魂の願いです。

 

 

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主のぶどう畑、都の破滅、イスラエルの回復(27章)

聖書の箇所は、27章2節から13節です。
イザヤ書の著者イザヤは、24章から「その日」、すなわち、終わりの日に世界レベルでどのようなことが起こるのかを語ってきましたが、25章と26章でユダヤ人の残りの者たちの歌について語ります。

 

27章は、その続きで、ユダヤ人の残りの者たちの歌ではなく、逆に神がイスラエルのために歌う歌、すなわち、「その日」(終わりの日)のイスラエルである「ぶどう畑」の神ご自身の喜びの歌が記されています。

 

●2節.その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。
●3節.主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
●4節.わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば/わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。

 

「その日」のイスラエルを神は「見事なぶどう畑」に喩えておられます。
「見事なぶどう畑」ですから、イスラエルが実を結び神がその実を喜んでおられることを歌っているのです。

 

終りの日のイスラエルの残りの者は、キリストを受け入れて、福音伝道の先兵となって活躍します。それが神に選ばれたイスラエルの存在の意味なのでしょう。

 

 

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サマリアの陥落(28章)

聖書の箇所は、28章1節から6節です。
この28章から31章には、北イスラエルのヒゼキヤ治世下(紀元前716-687年)のイザヤの預言が集められているそうです。
そしてその預言は、ヒゼキヤがアッシリアに反抗し降伏するに至った前703-701年に集中していると言うことです。

 

1節から6節の北イスラエルの首都「サマリアの陥落」に関する預言は、前724年-722年におけるアッシリアによる攻城(紀元前722年に北イスラエルは滅びます)の時期にエルサレムに対する主の警告として語られています。

 

なお、1-22節が扱う主題は、主の教えに従わない指導者とその国に下される主の裁きと、その中でも示される主の救い(その日における残りの者の祝福)の約束です。

 

この時イザヤは、南ユダ王国の首都エルサレムにいて、神にのみ信頼し、政治的には非同盟、中立の立場を貫くことを主張していましたが、その忠告に対し北イスラエルの首都サマリアの支配者たちは、まさに「酒の酔いによろめく者」(1節)でしかなかったようです。

 

また、28章は、1節から6節はサマリヤ(北イスラエルの首都)の滅亡と正気を失って深酒に酔ってエジプトと同盟を結んだ南ユダのエルサレムの祭司や預言者たちへの叱責で、7節から22節は、イスラエルの神の回復の預言、そして、23節から29節は、終わりの日の神のご計画による出来事、定めはすでに確定していているという三つの部分からなっています。

 

 

 

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酒に酔った祭司と預言者(28章)

聖書の箇所は、28章7節から13節です。
●7節.彼らもまた、ぶどう酒を飲んでよろめき/濃い酒のゆえに迷う。祭司も預言者も濃い酒を飲んでよろめき/ぶどう酒に飲まれてしまう。
濃い酒のゆえに迷い/幻を見るとき、よろめき/裁きを下すとき、つまずく
●8節.どの食卓にも吐いた物が溢れ/至るところに汚物がある。

 

「彼ら」は、南ユダ王国の指導者(ユダの霊的、宗教的指導者であった祭司や預言者も)を指すのでしょう。
南ユダ王国の指導者酒に酔っていたのでしょう。

 

北イスラエルの指導者同様、南ユダ王国の泥酔状態にある指導者たちの様です。
彼らは、神に選ばれたイスラエルの指導者ですから物事を霊的に判断し、裁く立場に着いている人たちです。
その人たちが、世の楽しみに耽って、神を忘れて酔っ払っている状態です。

 

 

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シオンの隅の石(28章)

聖書の箇所は、28章14節から22節です。
●14節.嘲る者らよ、主の言葉を聞け/エルサレムでこの民を治める者らよ。

 

「嘲る者ら」は、後ろにエルサレムとありますから、南ユダ王国の指導者層のことでしょう。
「彼らもまた」(7節)北イスラエルの指導者らと同じようにと言うことでしょう。

 

酔いどれの指導者層のエフライム(北イスラエル)の姿を描いておられましたが、それを物笑いの種にしているエルサレム(南ユダ王国)に対して、主は語っておられるのです。

 

彼らはイザヤの語る主の言葉を聞いて、馬鹿にするなと反発しました。(9節)
自分たちを知識人だと思っていた彼らは、額面通り教えていたイザヤの話は幼稚な話だと全く興味も示さず、愚かしいものだと見下げて、聞こうとしませんでした。

 

神の言葉は真理ですから、人間の言葉のように理屈は必要ないし単純です。
そんなイザヤをあざけっていた者たちに対して主が語られているのでしょう。

 

 

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農夫の知恵(28章)

聖書の箇所は、28章23節から29節です。
●23節.聞け、わたしの声に耳を向けよ。聞け、わたしの言うことに耳を傾けよ。

 

この箇所は、農作業のたとえが書かれています。
イザヤは、「わたしの声に耳を向けよ。聞け、わたしの言うことに耳を傾けよ。」と言って、この農作業のたとえを語りました。
この意味ですが、ここまでイザヤが語ってきたことは、神に信頼することです。

 

しかし、イスラエルは、目先の利害と言うか、人間的な考えで、主の忠告を無視してやってきました。
イザヤは、人間的にならないで、いつでも、ただ神に信頼しなければならないことを語ってきましたが、その言葉をも無視してきました。
この農作業のたとえは、そのまとめであると言えるでしょうか。

 

 

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エルサレムの攻城と救い(29章)

聖書の箇所は、29章1節から8節です。
●1節.ああ、アリエルよ、アリエルよ/ダビデが陣を張った都よ。年毎に、祭りの数を増し、巡り来らせよ。
●2節.そのとき、わたしはアリエルを苦しめる。アリエルには嘆きと、ため息が臨み/祭壇の炉(アリエル)のようになる。

 

「ああ、」と主はイザヤによって嘆きの叫びの声を上げ「わたしはアリエルを苦しめる。」と言われます。
ここでのアリエルは、励ます意味での「ああ」、あるいは「さあ」と訳されているそうです。

 

「アリエルよ、アリエルよ/ダビデが陣を張った都」ですが、「ダビデが陣を張った都」と言えば、エルサレム(「シオン」はエルサレムの優雅な呼び方)のことです。

 

ですから、「アリエル」もエルサレムを指すのでしょう。
アリエルには、英雄を意味する「神の獅子(ライオン)」と「祭壇の炉」という意味があるそうです。

 

 

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酔いしれる指導者(29章)

聖書の箇所は、29章9節から16節です。
●9節.ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
●10節.主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。

 

前節までのエフライム(北イスラエル)は、実際に「濃い酒のゆえ」に酔いしれてまともな判断、すなわち、主の御言葉を聞かなかったのですが、そんな彼らを見て南ユダ王国(エルサレム、アリエル)の人たちは物笑いの種にしていました。
しかし、エルサレム(南ユダ)自身も同じ問題がありました。

 

それは「濃い酒のゆえでは」ではなく、主が「深い眠りの霊を注ぎ」、「預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。」ので、主の言葉を聞くことができなかったのです。

 

●11節.それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。
●12節.字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。

 

 この箇所の問題点は、「封じられているから読めない」「「わたしは字が読めない」です。
南ユダ王国(エルサレム、アリエル)の人たちにとって、主の「すべての幻」が、書物の中の言葉の意味を聞いたときに「封じられているから読めない」と答えるようなものだと言っているのです。

 

そして、それは「字の読めない人」に「どうぞ、読んでください」と頼むようなものだと言うのです。
書物(幻も同じ)が難しいからではなく、理解したいと思っていない、悟りたいと思っていないからと言えます。

 

マタイの福音書7章7節から8節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とありますから、読んでもわからない人は、心から知りたいと願っていない人だと言えます。

 

聖書は預言が多く、たとえ話が多いので、とくに黙示録などは幻をもって語っているので、主に言葉の意味を求め主の霊が働かなければ意味が分からないところがあります。

 

わたしは旧約聖書の同じ言葉を探してその意味を調べて読んでいます。

 

●13節.主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。

 

「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。」と同じ言葉がマタイの福音書15章8節のイエスの言葉にありますね。

 

心の伴わない口先だけの主の賛美は意味がないのです。
聖書の言葉を説教していても、聖書の言葉から外れて人間の言葉(自分の主張、自分が学んだ神学)を読んだり聞かせたりしている場合もあるのです。

 

●14節.それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

 

「賢者の知恵」とは、自分の専門分野について自負している人のことでしょう。
イエスの言葉、マタイの福音書15章8~9節「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」はこの13節と14節を引用しておられるのでしょう。

 

●15節.災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
●16節.お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と。

 

9節から始まった、神の南ユダ(エルサレム)に対する嘆きの真の原因は神の言葉をおろそかにして、神ではなく、エジプトに助けを求めたからです。そのために神の言葉を理解するために必要な霊の目が完全に塞がれてしまったからでしょう。

 

神の言葉は、封印されているので、必要な霊の目がなければ書かれていることが理解できないということでしょう。
15節の「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と言うのは、わたしたちは「主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中」で、ですから、隠れて物事を行なうときにはいつも、このような言葉を心に思います。

 

エルサレムが、主の言葉をおろそかにして、主に隠れてエジプトと同盟を結んだ時の指導者もそうでした。
形式的な礼拝とか賛美は、自分のはかりごとを主に隠すようになると言いたいのでしょう。

 

エルサレムはエジプトと同盟を結んでアッシリアの脅威から逃れようとしましたが、それはイザヤの警告を無視した人間的な解決でした。
彼らエルサレムの指導者は、「謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中」ですから、そうした自分たちの謀を隠し、闇の中で事を行っていたのです。

 

「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」とエルサレムの指導者は言いますが、しかし、主はすぐそこにおられてすべてのことをご存じです。

 

わたしたちは、主がすぐそばにおられるのに、まるで見ておられないかのように考えるのは、主を人間と同じ立場に引きずりおろしていることになります。

 

16節の「造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。」言うことでしょう。
これらの言葉から分かることは、エルサレムのエジプトとの同盟は、イザヤの忠告を無視したばかりが、その計画を秘密裏に行なおうとしていたのでしょう。

 

しかもそれを神の目からも隠すことができると考えていたのです。そんな彼らに対して主は、「お前たちはなんとゆがんでいることか。」(16節)と嘆かれています。

 

「ゆがんでいる」と言うのは、「陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」ですから、陶器が陶工に向かって、あなたは信用できないと言っているようなものだと言うことでしょう。

 

神の助言であるイザヤの言葉を拒絶して、自分の思いや考えで国の将来を導こうとしたことは、神の民としては逆さまなのです。

 

エジプトと同盟を結んだ指導者は、神の民という自分たちの立場を良く知っていたので、神の言葉に従わないのに後ろめたさを覚え、隠れて事を行っていたのでしょう。逆に言えば、その人たちが神を崇める言葉は、口先だけの空虚な言葉であったのです。

 

イスラエルの回復(29章)

聖書の箇所は、29章17節から24節です。
●17節.なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。
●18節.その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
●19節.苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い/貧しい人々は/イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。

 

この箇所は、「その日」とあるように、終わりの日のメシア王国(千年王国)において実現する神の民イスラエル(エルサレム)の回復の預言でしょう。

 

17節の「なおしばらくの時がたてば」は、18節の「その日」を指すのでしょう。
「その日」、すなわち、世の終わりの時に、「レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。」ようになるのですが、現在のレバノンは、2020年3月には債務不履行(デフォルト)を宣言し、その直後に死者200人超、負傷者6500人以上を出したベイルート港の爆発がありました。

 

 

 

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エジプトとの同盟(30章)

聖書の箇所は、30章1節から7節です。
●1節.災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀を立てるが/わたしによるのではない。

 

盟約の杯を交わすが/わたしの霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。
「背く子ら」は、南ユダの民のことで、反逆の子らとも訳されていますから、そこにははっきりと神に対する背きの意思があったのだと思います。

 

そのようなつもりはなかった、などと言えないのでしょう。
当時、南ユダ王国はアッシリアに攻め込まれ「謀を立てる」のですが、その謀は「わたしによるのではない。盟約の杯を交わすが/わたしの霊によるのではない。」と主は言われているのです。

 

 

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2022年8月 7日 (日)

背信の記録(30章)

聖書の箇所は、30章8節から17節です。
●8節.今、行って、このことを彼らの前で/板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ。
●9節.まことに、彼らは反逆の民であり/偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。

 

8節は神のイザヤに対する命令です。
「このこと」ですから、神は今の出来事を書物に書き記すように言われたのでしょう。

 

それは、「後の日のため、永遠の証しとせよ。」ですから、後の日に、この出来事が神から出たことであり、今の彼らの苦難や苦悩は、彼らが私の言葉に従わなかった結果であるということを明確にし、理解させるためです。
神は前もって警告を発し、その言葉が必ず実現するということを示すために、ご自分の言葉を書き記すようにと言われたのでしょう。
この神の言葉は、聖書(新約聖書)にも当てはまるのでしょう。

 

 

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救いのとき(30章)

聖書の箇所は、30章18節から26節です。
●18節.それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

 

「それゆえ」は、17節以前の南ユダの悲惨な結末を指し、主の目には、南ユダが選んだエジプトとの同盟の結果がすでに見えているので、「主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。」ですから、主は憐れんでそのような事態にならないように助けようとされているのでしょう。

 

そして、「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」とあり、また、15節に「立ち帰って/静かにしているならば救われる。」とありますから、主を信頼して静かにしている人は、「立ち上がられる」(救われる)と言うことでしょう。

 

「あなたたちを待ち」と言うのは、放蕩息子の父がいつ帰って来るのか分からない自分の息子を忍耐と大いなる期待をもって待っている(ルカ15:20)、そんなニュアンスの語彙だと言うことです。

 

 

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アッシリアに対する審判(30章)

聖書の箇所は、30章27節から33節です。
●27節.見よ、主の御名は遠くから来る/怒りに燃え、立ち昇る濃い煙を伴って。その唇は憤りに満ち/舌は焼き尽くす火のようだ。
●28節.主の霊は、首にまで達する水が/涸れ谷にみなぎり溢れるように臨む。主は国々を欺きのふるいでふるい/迷わす手綱を諸国民の顎にかけられる。

 

31節に「主がその鞭をもって打たれるとき/アッシリアは主の声のゆえにおののく。」とありますから、この箇所は、イスラエル(南ユダ)を苦しめていたアッシリアに対する主の裁きであることは分かります。

 

「主の御名は遠くから来る」はどういう意味でしょうか。
主の御名が来るというのは、全世界の創造主であり、神の民の救い主、贖い主が来られるということです。

 

それが遠くからやって来るというのは、おそらく、時間的な距離ではなく、今まで神の民、南ユダを見捨てられていたような状態であった神がやって来られるということを表しているのでしょう。

 

 

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エジプトに頼るな(31章)

聖書の箇所は、31章1節から9節です。
●1節.災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。/彼らは、戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことに頼りとし/主を訪ね求めようとしない。

 

30章に続いて、エジプトに頼ろうとする南ユダに対して、戦車の数とか騎兵の数に頼らないで「主を訪ね求めよ」と呼びかけています。
この時代の時代背景は、北方のアッシリアと南方のエジプトの巨大な二つの大国に挟まれた中東の国々が、生き残るためにどちらの国と同盟を結ぶのかが迫られている状況でした。

 

●2節.しかし、主は知恵に富む方。/災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない。/立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる。

 

 

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正しい王の支配〈32章)

聖書の箇所は、32章1節から8節です。
参考に記しておきますと、イザヤ書において、「終わりの日」「その日」「見よ」「ついには」という語句は、だいたいその内容が終末に起こることを預言しているのでしょう。

 

ただ「その日」とあっても、近未来の場合もあるので注意を要しますが、全体のマスタープランの概要をもとに見るとわかります。
また、王が支配する王国というのは、メシア王国(千年王国)のことで、最終のステージとなる「新しい天と新しい地」のことではありません。

 

●1節.見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。

 

「見よ」ですから、終わりの日の出来事の預言で、「高官たちは、公平をもって」支配するのです。
「正義によって/一人の王が統治し」の一人の王は、イエス・キリストなのでしょう。

 

 

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憂いなき女たち(32章)

聖書の箇所は、32章9から14節です。
●9節.憂いなき女たちよ、起きて、わが声を聞け。/安んじている娘たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。

 

「憂いなき女たち」を南ユダに喩えて、まだ悔い改めていない南ユダに対して「わが言葉に耳を傾けよ。」と言って主が問い詰めておられるのでしょう。

 

「憂いなき女・・安んじている娘」と言うのは、南ユダの民は、主がおられなくても構わないと言ううぬぼれと自己満足の中に生きていたので、その者たちをそのように表現しているのでしょう。

 

●10節.安んじている女たちよ/一年余りの時を経て/お前たちは慌てふためく。/ぶどうの収穫が無に帰し/取り入れの時が来ないからだ。

 

なぜ「安んじている女」なのかと言えば、「一年余りの時を経て」、彼女たちは「慌てふためく」ようになるからです。
なぜならば「ぶどうの収穫が無に帰し/取り入れの時が来ない来ないからだ」とします。

 

 

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神の霊の働き(32章)

聖書の箇所は、イザヤ書32章15から20節です。
●15節.ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。/荒れ野は園となり/園は森と見なされる。

 

「ついに」は、終末、最後の時を指し示し、預言しています。
「ついに」ですから、「終わりの日」に、「霊が高い天から注がれる。」ことで神の民は悔い改め、「荒れ野は園となり/園は森と見なされる。」ようになるのです。

 

つまり、神の民は平和で安全ので、安らかな憩いの場に住むことになると預言されているのです。
1948年に建国した今のイスラエルは、まだ「霊が高い天から注がれ」ていません。
それは終わりの日に実現するのでしょう。

 

●16節.その時、荒れ野には公正が宿り/園に正義が住まう。

 

 

 

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救いを求める祈り(33章)

聖書の箇所は、33章1から6節です。
イスラエルの歴史で起こっていることは、コリント第一の手紙10章11節を読むと、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。
それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」とあります。

 

つまり、イスラエルの歴史の中で起こった出来事はこれから起こる「世の終わり」の出来事の型になっているということなのです。
ですから、聖書を読みイスラエルの歴史を学ぶことは、将来、この世界で起こる出来事について、また神のご計画の全体像を正しく知ることにつながるのです。
そのためにもこの33章は特に重要な箇所です。

 

●1節.災いだ、略奪されもしないのに、略奪し/欺かれもしないのに、欺く者は。お前は略奪し尽くしたときに、略奪され/欺き終えたときに、欺かれる。

 

再び「災いだ」で始まりますが、今度は、エルサレムや南ユダではなく、彼らを滅ぼそうとする敵アッシリアのセナケリブに対する主の裁きです。

 

 

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2022年8月19日 (金)

正しい者を守られる神(33章)

聖書の箇所は、33章7から16節です。
●7節.見よ、アリエルの人々は巷で叫び/平和の使者たちはいたく嘆く。

 

これは、エルサレムがアッシリアに対して、何をすることも出来ない状況を現しているのでしょう。
「アリエル」、「神のライオン」あるいは「神殿の炉」という意味ということです。
ですから、此処は南ユダの名のある人たちを指すのでしょう。

 

「平和の使者」は、和平協定のためにユダからアッシリアに遣わされた人たちのことでしょう。
「巷で叫び・・いたく嘆く。」ようになります。

 

せっかく和平協定を結びこれで安泰だと思っていたのに、アッシリアがその和平協定を破ってしまったからです。
アッシリアがユダを攻めてきたとき、ヒゼキヤ王はアッシリアを、聖所のありとあらゆる金銀を使って、なだめようとしました。
けれどもアッシリアは、その多額の金銀を受け取ったのに、やはりエルサレムを包囲しました。

 

その時のユダの民の叫びがこの7節なのでしょう。
「平和の使者たちはいたく嘆く」は、ヒゼキヤ王の平和外交が無駄になったことを南ユダの民が嘆いているのでしょう。

 

 

 

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主は彼らの王(33章)

聖書の箇所は、33章17から24節です。
●17節.あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ/遠く隔たった地を見る。

 

「麗しく装った王を仰ぎ」の王は、新約聖書を読めば、やはりメシア王国(千年王国)におけるイエス・キリストしかいないでしょう。ですから、これも終わりの日の出来事なのでしょう。

 

「遠く隔たった地を見る」ですから、終わりの日にイエス・キリストは再臨されシオンの丘に下りられ、世界を治められ千年王国を築かれます。

 

●18節. あなたの心はかつての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか/量った者はどこにいるのか/やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。

 

「恐怖を思って」と言うのは、南ユダがアッシリアに取り囲まれたときの出来事のことでしょう。
「数を調べた者」とか「量った者」、また「やぐらを数えた者」、「傲慢な民」(16節)とは、もちろんアッシリアのことです。

 

彼らは南ユダを侵略し、そこにあった金、銀、財宝を、あるいは、捕虜の数を数えていました。また、奪った土地を測量していました。
「やぐら」とは、アッシリアの攻撃を防御する見はり塔のことですが、アッシリアはそのやぐらの数を数えて武装を解除していきました。
そんなアッシリアはどこに行ったのか今はいません。

 

 

 

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2022年8月28日 (日)

エドムの審判(34章)

聖書の箇所は、34章1から17節です。
イザヤ書34章と35章は「神の最終の審判」と「神による回復」によるワンセットの箇所で、特にここは神の新しい人類の創造というマスタープランの最終ステージについて預言されています。

 

●1節.もろもろの国よ、近づいて聞け/もろもろの民よ、耳を傾けよ。聞け、大地とそこに満ちるすべてのもの/世界とそこに生ずるすべてのものよ。

 

「もろもろの国よ・・もろもろの民よ」ですから、主は、イスラエルにも異邦人にも、すべての国々に呼びかけておられます。
それだけ大切な内容だと言うことでしょう。

 

●2節.主はすべての国に向かって憤りを発し/怒りは、その全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め/彼らを屠るために渡された。
●3節.刺し貫かれた人々は投げ捨てられ/死骸は悪臭を放ち/山々はその血によって溶ける。

 

神の激しい怒りは、すべての国に対して発せられます。
もちろん、終わりの日の大艱難時代のことでしょう。いわゆる、ハルマゲドンの戦いのことでしょう。
人類社会の悪は満ち満ちているのです。神は満を持して裁かれるのです。

 

 

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栄光の回復(35章)

聖書の箇所は、35章1から10節です。
33章からアッシリアが滅ぼされ平和な世界がもたらされるということを語ってきたイザヤは、この35章で再びその平和な世界について語ります。

 

それはイザヤの時代で言えばアッシリアからの解放で、遠い未来のことで言うと、世の終わりに起こる七年間の患難時代の後にもたらされる千年王国(イエス・キリストのメシア王国)のことでしょう。
千年王国において、この地上がどのように祝福に満ちた世界に変わるのかを見ていきたいと思います。

 

●1節.荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。
●2節.花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

 

7年間の艱難時代に荒野と砂漠になってしまった地(一切植物が育たない乾いた地)に花が咲きます。
しおれて衰えると言われた「レバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロン」が、以前のすばらしい姿に回復します。そうですね、荒野と砂漠の地が、エデンの園のように回復するのです。

 

そして、これらの地域からエルサレムを眺めると、そこには「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」ですから、主ご自身の栄光が見えるのです。

 

レバノンは杉の木で有名ですが、それは常緑のしるし、またカルメルとかシャロンも果樹とか花で有名ですが、それは豊かな実のしるしです。
自然界がこのようになってしまったのは、最初の人間アダムが罪を犯して、子孫代々罪の中を歩んだからで、その影響が自然界全体に及んでしまいました。

 

 

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