聖書の箇所は、29章9節から16節です。
●9節.ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
●10節.主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。
前節までのエフライム(北イスラエル)は、実際に「濃い酒のゆえ」に酔いしれてまともな判断、すなわち、主の御言葉を聞かなかったのですが、そんな彼らを見て南ユダ王国(エルサレム、アリエル)の人たちは物笑いの種にしていました。
しかし、エルサレム(南ユダ)自身も同じ問題がありました。
それは「濃い酒のゆえでは」ではなく、主が「深い眠りの霊を注ぎ」、「預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。」ので、主の言葉を聞くことができなかったのです。
●11節.それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。
●12節.字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。
この箇所の問題点は、「封じられているから読めない」「「わたしは字が読めない」です。
南ユダ王国(エルサレム、アリエル)の人たちにとって、主の「すべての幻」が、書物の中の言葉の意味を聞いたときに「封じられているから読めない」と答えるようなものだと言っているのです。
そして、それは「字の読めない人」に「どうぞ、読んでください」と頼むようなものだと言うのです。
書物(幻も同じ)が難しいからではなく、理解したいと思っていない、悟りたいと思っていないからと言えます。
マタイの福音書7章7節から8節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とありますから、読んでもわからない人は、心から知りたいと願っていない人だと言えます。
聖書は預言が多く、たとえ話が多いので、とくに黙示録などは幻をもって語っているので、主に言葉の意味を求め主の霊が働かなければ意味が分からないところがあります。
わたしは旧約聖書の同じ言葉を探してその意味を調べて読んでいます。
●13節.主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。」と同じ言葉がマタイの福音書15章8節のイエスの言葉にありますね。
心の伴わない口先だけの主の賛美は意味がないのです。
聖書の言葉を説教していても、聖書の言葉から外れて人間の言葉(自分の主張、自分が学んだ神学)を読んだり聞かせたりしている場合もあるのです。
●14節.それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」
「賢者の知恵」とは、自分の専門分野について自負している人のことでしょう。
イエスの言葉、マタイの福音書15章8~9節「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」はこの13節と14節を引用しておられるのでしょう。
●15節.災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。
●16節.お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と。
9節から始まった、神の南ユダ(エルサレム)に対する嘆きの真の原因は神の言葉をおろそかにして、神ではなく、エジプトに助けを求めたからです。そのために神の言葉を理解するために必要な霊の目が完全に塞がれてしまったからでしょう。
神の言葉は、封印されているので、必要な霊の目がなければ書かれていることが理解できないということでしょう。
15節の「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と言うのは、わたしたちは「主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中」で、ですから、隠れて物事を行なうときにはいつも、このような言葉を心に思います。
エルサレムが、主の言葉をおろそかにして、主に隠れてエジプトと同盟を結んだ時の指導者もそうでした。
形式的な礼拝とか賛美は、自分のはかりごとを主に隠すようになると言いたいのでしょう。
エルサレムはエジプトと同盟を結んでアッシリアの脅威から逃れようとしましたが、それはイザヤの警告を無視した人間的な解決でした。
彼らエルサレムの指導者は、「謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中」ですから、そうした自分たちの謀を隠し、闇の中で事を行っていたのです。
「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」とエルサレムの指導者は言いますが、しかし、主はすぐそこにおられてすべてのことをご存じです。
わたしたちは、主がすぐそばにおられるのに、まるで見ておられないかのように考えるのは、主を人間と同じ立場に引きずりおろしていることになります。
16節の「造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。」言うことでしょう。
これらの言葉から分かることは、エルサレムのエジプトとの同盟は、イザヤの忠告を無視したばかりが、その計画を秘密裏に行なおうとしていたのでしょう。
しかもそれを神の目からも隠すことができると考えていたのです。そんな彼らに対して主は、「お前たちはなんとゆがんでいることか。」(16節)と嘆かれています。
「ゆがんでいる」と言うのは、「陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」ですから、陶器が陶工に向かって、あなたは信用できないと言っているようなものだと言うことでしょう。
神の助言であるイザヤの言葉を拒絶して、自分の思いや考えで国の将来を導こうとしたことは、神の民としては逆さまなのです。
エジプトと同盟を結んだ指導者は、神の民という自分たちの立場を良く知っていたので、神の言葉に従わないのに後ろめたさを覚え、隠れて事を行っていたのでしょう。逆に言えば、その人たちが神を崇める言葉は、口先だけの空虚な言葉であったのです。
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