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2022年7月の記事

2022年7月 4日 (月)

イザヤ書前置き

イザヤ書は66章からなる壮大な預言書です。
分量的にも、また内容においても、偉大な書であると言われています。

 

今まで私は、この書だけは手に負えないと思って真に向き合うのを避けてきましたが、人生も終わりに近づき、思い切って取り組むことを通して、御霊の助けで神の救いのご計画の全貌をもっと深く知りたいと思い、挑戦してみたいと思いました。

 

さて、著者は、アモツの子イザヤです。イザヤは、南ユダ王国で四代の王に使えました。結婚して二人の息子がいました。
イザヤと言う名の意味は、「ヤハウェは救い」です。

 

量は膨大なので、著者は複数かとおもいましたが、分かりません。
ただ言えることは、文脈から見ると編集者は一人だと思います。

 

即ち、イザヤ自身が記したもの第一イザヤ(1~39章)と第二イザヤ(40~66章)を一つにまとめてイザヤ書とした編集者がいると言うことです。
自分のことを三人称で表現しているからです。

 

 

 

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2022年7月 7日 (木)

聖書のよもやま話 目次

聖書のよもやま話 目次

 

聖書のよもやま話(1)
第一回目は、<前置き><旧約聖書の疑問><使い捨ての命><救いについて><誰でもが疑問に思うこと><旧約聖書の時代の信仰者は、すべて
「陰府」に行った><「陰府」とは>です。

 

聖書のよもやま話(2)
第二回目は、<セカンドチャンスと「金持ちとラザロ 」><残りの者と全人類の救い><預言書を読んで><神が愛ならば><再記述の法則>です。
陰府」に行った><「陰府」とは>です。

 

聖書のよもやま話(3)
三回目は、<新しい人間の創造><律法の成就と神殿礼拝の廃止><復活と聖霊降臨><神は本当におられるのか><罪と悲惨な世界>です。

 

 

 

 

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2022年7月 8日 (金)

ユダの審判

聖書の箇所は、イザヤ書1章1節から20節です。
●1節.アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。

 

第一イザヤ(1章から39章)の活動期は、ちょうどアッシリア帝国の興隆期です。
アッシリアは、紀元前732年にシリア、722年に北イスラエルを征服し、712年にはペリシテに遠征、701年にエジプト軍を撃破、そして南ユダに攻め込み、あと一歩で首都エルサレムを陥落させるところまで来ました。

 

このアッシリアによる南ユダ王国への攻撃を、イザヤは神の裁きと考えて、南ユダの民に悔い改めを説いています。
イザヤの父アモツについては、不明です。

 

6章の「イザヤの召命」に「神殿」が出てきますが、イザヤが神殿にいたということは、彼が神殿にかかわる何か役割を担う存在であったのでしょうが、詳細は不明です。

 

「ユダとエルサレムについて見た幻」ですが、イザヤは、南北に別れたイスラエルの南ユダ王国、その首都エルサレムを活動場所とする預言者ということでしょう。
そして、「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ」は、ダビデの子孫、ダビデ家に連なる南ユダの歴代の王たちです。

 

 

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2022年7月11日 (月)

シオンの審判と救い(1章)

聖書の箇所は、イザヤ書1章21節から31節です。
●21節.どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。

 

「どうして、遊女に」ですが、遊女はエルサレムの町を指すのでしょう。
今度は、主に忠実であった堕落した都エルサレムの町そのものに対する主の宣告でしょう。

 

主がエルサレムに対して持っておられる気持ちは、「どうして、遊女になってしまったのか」と言いう嘆きの言葉に現れています。
主はエルサレムを、「公平が満ち、正義が宿っていた」忠信の都として造られましたが、その時代はダビデとソロモンの時代のことを言っているのでしょう。

 

それにもかかわらず彼らは、遊女となってしまったのです。
つまり、イスラエルが主から与えられた契約に背いて、不従順、不信仰になってしまい、偶像に心を移すようになったのをご覧になって、「どうして、遊女になったのか」と嘆いておられるのでしょう。

 

 

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2022年7月15日 (金)

聖書のよもやま話(11)

聖書のよもやま話(11)
第十一回目は、<デキレース>です。
<デキレース>
キリストの十字架死の意義とキリストは神の子とか神であるとか罪のない存在と表現しますが、まずそのことについて考えてみます。
人間はアダムの時代に神から離反し、その状態が今も続いています。
この神から離反している状態を聖書は(神に対する)罪といいます。

 

なぜ神に対する罪かと言いますと、人間の創造は創造主である神によってなされ、人間は自由意思を与えられ、神のご計画をもって新しい人類の創造という遠大な目標の下に人類の歴史は形成されています。

 

ヨハネの黙示録にそのことが預言されています。
ですから、人類がどのような歴史を歩もうが、人類の歴史の行き先は既に決まっているのです。
もちろん、人間には自由意思を与えられていますから、神の思惑通りに行かない場合もあるでしょうが、神はそれらをすべてご計画の貫徹のために用いてご計画を完成されるのです。

 

 

 

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聖書のよもやま話(12)

聖書のよもやま話(12)
第十二回目は、<千年王国と新しい天地に住む者><永遠の命について><残りの者と艱難時代>です。

<千年王国と新しい天地に住む者>
イザヤ書では、「終わりの日」「その日」「見よ」「ついには」という語句は、だいたいその内容が終末に起こることを預言しています。
ただ「その日」とあっても、近未来の場合もあるので注意を要しますが、全体のマスタープランの概要をもとに見るとわかります。

また、王が支配する王国というのは、メシア王国(千年王国)のことで、新しい人類が住む「新しい天と新しい地」のことではありません。
メシア王国(千年王国)を支配する王は、メシア・キリストです。
人類社会の究極の姿である新しい人類が住む「新しい天と新しい地」は、神が支配する世界です。

<イザヤ書32章1節>
見よ、正義によって一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。

「見よ」ですから、終わり墓碑の出来事の預言で、「正義によって」と対句である「公正によって」を指すのでしょう。
「正義によって一人の王が統治し」の一人の王は、イエス・キリストなのでしょう。

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聖書のよもやま話(13)

聖書のよもやま話(13)
第十三回目は、<地獄に送られる人間><神の国は正義><日本人と宗教>です。

<地獄に送られる人間>
●ペトロ第二の手紙3章9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」とあるように、神は、ひとりでも滅びることを望んでおられません。

神は、すべての人が救われることを願っておられるのです。
それに裁くと言いましても地獄に送るとはどこにも書いていません。
裁きイコール地獄ではありません。

もちろん、アダム以降に生まれた全人類の内、神を受け入れないで死んだ人はそのうちのほとんどですから、神は、すべての人が救われることを願っておられると言うのならば、救いのチャンスがこの世だけでしたらそれも不可能でしょうから、セカンドチャンスもあると思います。
また、キリストは生まれ変わりを否定していませんから、そういうことも考えられます。

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2022年7月20日 (水)

終末の平和(2章)

聖書の箇所は、イザヤ書2章1節から5節です。
2章1節から5節は、「終わりの日」のメシア王国(千年王国)において実現する主にある平和についての預言が記されています。
これとほぼ同じ内容の預言がミカ書4章1-3節にもありますが、どちらが先に預言されたかは不明です。

 

●1節.アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

 

イザヤが見た幻は、1章1節の「幻」と同じで、いずれも「ユダとエルサレム」についてこれから起こる出来事です。
「幻に見たこと」ですから、イザヤは神からの啓示を肉体的な目と耳ではなく、霊的な心の目、すなわち、幻で見たと言うことでしょう。
「見たこと」は、預言的完了形と言うことですから、やがて必ず実現することなのです。

 

その幻は、「これから起こる出来事」ですから、静止画ではなく、動画で見たのではないでしょうか。
そのような預言者を、予見者または先見者と言うそうですが、重要な言葉なので、ここで改めてその意味を調べてみたいと思います。
「預言者」は、神と特別な関係をもって呼び出された者、召された者を意味します。

 

 

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高ぶる者に対する審判(2章)

聖書の箇所は、イザヤ書2章6節から22節です。
この箇所には、神に従わない神の民に対するさばきと警告が記されています。

 

●6節.あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。この民がペリシテ人のように/東方の占い師と魔術師を国に満たし/異国の子らと手を結んだからだ。

 

「あなたは」ですから、主は、「ご自分の民、ヤコブの家(イスラエル民族)」ですから、イスラエルを捨てられたのです。
それは、ペリシテ人(カナンの地の先住民族、辞書には、古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群、とあります。)と同様に東方、つまりアッシリアの「占い師と魔術師」を招いて、「異国の子らと手を結んだ」、即ち、伺いを立てていたからです

 

 

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2022年7月25日 (月)

エルサレムの審判(3章)

聖書の箇所は、イザヤ書3章1節から4章1節です。
●1節.見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。

 

2章2~4節のメシア王国の預言が実現する前(そして、メシア・キリストの地上再臨の前)に起こることが、2章6節と、この箇所に記載されています。

 

それは、エルサレムとユダから「支えが除かれる」ことです。
1節から7節は、「エルサレムとユダ」が、戦争によりもたらされる飢饉と指導者たちが殺されるために無政府状態になることが預言されているのでしょう。

 

このような状態は、バビロン捕囚の前の状況、あるいは、獣と呼ばれる反キリストによる大艱難時代のイスラエルの状況を示しているのかもしれません。

 

 

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エルサレムの将来の栄光(4章)

聖書の箇所は、イザヤ書4章2節から6節です。
神は、不信仰、不従順、偶像礼拝で汚れたエルサレムをさばかれるだけでなく、イスラエルの残りの者を贖い、聖めることによって、エルサレムを神の都にふさわしくされます。

 

●2節.その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。

 

「生き残った者にとって主の若枝」となると、メシア預言なのでしょう。
この「若枝」ということばは、メシヤ(キリスト)の呼び名です。

 

ですから、前節までの預言は、終わりの日のメシア預言(主の再臨)と、ユダのバビロン捕囚の預言の両者を指していると思います。
ユダ王国の首都エルサレムがバビロンによって滅ぼされるだけでなく、世の終わりには世界の軍隊(反キリスト)によって滅ぼされそう(完全に滅ぼされない)になるのです。

 

 

 

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2022年7月27日 (水)

ぶどう畑の歌(5章)

聖書の箇所は、イザヤ書5章1節から7節です。
イザヤは、「愛の歌を歌おう」という言葉で、「エルサレムに住む人、ユダの人」をぶどう畑に例えて、全イスラエルを語っているのでしょう。

 

と言っても、北イスラエル王国はアッシリアの侵略と捕囚により滅び、その後回復することはないので、イスラエルは南ユダ王国のみとなります。

 

●1節.わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。

 

「わたしは歌おう」の私は、預言者イザヤ自身で「愛する者」は主のことでしょう。そして、「ぶどう畑」は、神の民イスラエル(「エルサレムに住む人、ユダの人」)のことでしょう。

 

 

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富める者の横暴(5章)

聖書の箇所は、5章8節から24節です。
●8節.災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。

 

7節の「見よ、叫喚(ツェアカ)」と嘆き悲しまれた理由ですが、「災いだ」と言う言葉で、始まります。(8節、11節、18節、20節、21節、22節です。)

 

一つ目の「災いだ」です。
「畑に畑を加える者・・この地を独り占めにしている。」ですから、他の人のことなど考慮しないで、自分のことだけを考えて、余地を残さぬまでに土地を買収し、自分の財産を増やそうとしている者のことでしょう。
つまり、貪欲の罪です。

 

レビ記25章23節・24節で主は、イスラエルの土地の売買を禁じられています。
23節「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。」24節「あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。」

 

彼らの土地は、主が彼らに与えられたのであって、本質的には彼らのものではなく、主のものだと言うことです。
そして、土地を売ってはならないというのは、主が各部族、各氏族、各家族に与えた土地は、代々相続し、失われることのないようにと言うことでしょう。

 

 

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遠くからの敵(5章)

聖書の箇所は、5章25節から30節です。
●25節.それゆえ、主はその民に対して怒りを発し/御手を伸ばし、彼らを打たれた。/山々は震え、彼らの死体は通りの真ん中に/ごみのように横たわっている。/それでもなお、主の怒りは去らず/その手は伸ばされたままだ。
●26節.主が遠くの国々に対して旗を揚げ/地の果てから口笛を吹いて呼ぶ。/すると見よ、彼らは速やかに駆けつけて来る。

 

24節に続き、主の「それゆえ」が続き、裁きの理由を語られます。
今度は、「山々は震え、彼らの死体は通りの真ん中に」ですから、主は自然災害というか大地震によって彼らを裁かれます。

 

「彼らの死体は通りの真ん中に/ごみのように横たわっている。」(25節)ですが、死体がゴミのように横たわって、すなわち、その辺にごろごろ散乱するようになるのです。

 

 

 

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イザヤの召命(6章)

聖書の箇所は、6章1節から13節です。
●1節.ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。

 

「ウジヤ王が死んだ年に」とありますが、ウジヤは、南ユダ王国の王ですから、南ユダ王国においての出来事でしょう。
ですから、1章から5章までは、ウジヤが生きている時に預言したものですが、6節以降はウジヤ王が死んだ後の預言となります。

 

歴代誌下26章22節に、「ウジヤの他の事績は、初期のことも後期のことも、預言者、アモツの子イザヤが書き残している。」とありますから、彼はウジヤの傍にいて、王が行なっているのを記録していた人でしょう。

 

イザヤは、王族に属している人かもしれません。
ウジヤ王は、16歳で即位し52年間、王であったとあります(歴代誌下26章3節)。
そして同4節に、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」とあります。
その王の下で、イザヤは、預言活動を行なったのです。

 

イザヤは、「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」の「高く天にある御座」は、神の至高性を表わしているのでしょう。
「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」とあるのは、主の権威が神殿いっぱいに満ちている様を表しているのでしょう。

 

 

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インマヌエルの預言(7章)

聖書の箇所は、7章1節から17節です。
7章は、南ユダ王国のアハズ王(在位:紀元前735年 - 紀元前715年)がアッシリアに頼ることを選択し、将来の破滅につながる結果を招いたこと明らかにしています。

 

すなわち、前735年のシリヤ・エフライム戦争を背景に語られています。
しかしそれでもなお、神が、生き残っている者となった民(4節)と共におられるという希望が語られています。

 

この希望は、イザヤの二人の子の名、即ちシェアル・ヤシュブ(3節、「残りのものは帰ってくる」)とインマヌエル(14節、「神は我らとともにおられる」)という名において示されています。

 

この話が9章5-6節まで繰り返され、新約につながる来るべきメシヤ像を明らかにします。
7章は大きく二つの部分に分けられ、一つは1~9節の部分、もう一つは10~25節の部分です。

 

前者は、差し迫る国家的危機に対して、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・心を弱くしてはならない。」というメッセ―ジです。

 

 

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大いなる荒廃・速やかな略奪(7章)

聖書の箇所は、大いなる荒廃は7章18節から25節、速やかな略奪は8章1節から4節です。
南ユダ王国のアハズ王は、頼りにしたアッシリアに苦しめられるのですが、その様がここに書かれています。

 

主に信頼しないならば、主は、「あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来(ダビデ王国が分裂した日以来)、臨んだことのないような日々を臨ませる。」、すなわち、今まで経験したことのない未曾有の「日」が来ると、イザヤは預言します。

 

その未曾有の出来事が四つの日に起こることとして描かれています。
そのために主に雇われるのが「アッシリアの王」です。

 

この王が20節で「かみそり」にたとえられています。
「その日」が、18節・20節・21節・23節と繰り返されますが、この「その日」は、終末論的な「終わりの日」ではなく、やがて明らかになる「エルサレム陥落の日」、あるいは「バビロンへの捕囚」を意味していると思います。

 

 

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2022年7月30日 (土)

神のみを畏れよ(8章)

聖書の箇所は、8章5節から15節です。
●5節.主は重ねて私に言われた。
●6節.この民は緩やかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子の前に恐れ崩れる。

 

主は重ねてイザヤに警告の意味で言われました。
それは、6節の「この民は緩やかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子の前に恐れ崩れる。」と言う預言です。
「この民」とは、南ユダの民のことでしょう。

 

しかし、主はご自分の民を「わが民」と言われないで、「この民」と言われています。
主の声に従わない民は、もはや「わが民」と主は言われないのです。

 

そのこの民であるユダの民が「緩やかに流れるシロアの水を拒み」とはどういうことでしょうか。
「シロアの水」とは、エルサレムの丘を東西に流れる地下水道のことですが、ソロモンがそこで祭司ツァドクと預言者ナタンに油注がれ王となりました(1列王1:45)ので、小さいものですが、ダビデ王朝にとって非常に重要なものでありました。

 

 

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主を待ち望む(8章)

聖書の箇所は、8章16節から23節です。
●16節.わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。

 

新改訳は、「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」と、主の命令として訳しています。
新共同訳はイザヤ自身の決意として訳されています。

 

つまり、主のメッセージが人々にとっては躓きであっても、そのメッセージが神からのものであったことが明白になるまで信じ、主のことばが確かなものであることに望みをかけようとの決意でしょう。

 

「証しの書」の証は、主から警告されたことを含む主の戒めと証言で、啓示の言葉であって、「教え」は、主の意思でしょう。

 

 

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ダビデの位(8章)

聖書の箇所は、8章23節から9章6節です。
●23節.今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。
ダビデの位
先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

 

「先」と「後」は、私たちが考える時間感覚とは異なり、「先」とは未来・将来のことではなく、その逆で「昔」「事のはじまり」を意味し、「後」とはやがて確実に起こる「将来」のことを意味すると言うことです。

 

即ち、この「先に」とは「ゼブルンの地とナフタリの地が、はずかしめを受けた」ことを指します。
「ゼブルンの地とナフタリの地」はいずれも北イスラエルの地ですが、その地は、アッシリアの王ティグラテ・ピレセルによってはずかしめを受けたのです。

 

しかしそのようにされたのは、主ご自身でした。
調べてみると、「はずかしめを受けた」の原文は受動態ではなく、使役態で「恥ずかしめさせた」と記されているそうです。

 

 

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北イスラエルの審判(9章)

聖書の箇所は、9章7節から10章4節です。
●7節.主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。

 

主がヤコブに送られたみ言葉は、多くの預言者が北イスラエルに関して預言しましたが、そのことを指すのでしょう。

 

●8節.民はだれもかれも/エフライム、サマリアの住民も/それを認めたが、なお誇り、驕る心に言った。

 

ここ8節から12節は、北イスラエルの民の虚勢に対する裁きです。
民の虚勢に対するさばきとしての神の徹底的な処罰の目的は、主の熱心さ故、神の怒りの感情だけではなく、ご自分の民を救うためなのです。
しかし、結論は、北イスラエルの民は高慢になり、最後まで万軍の主を求めなかったのです(13節)。

 

●9節.「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」
エフライム族はイスラエルの代表的な部族ですが、通常、エフライムと言う場合は、北イスラエル全体のことを指しています。
またサマリアは北イスラエルの首都です。

 

 

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アッシリアの傲慢(10章)

聖書の箇所は、10章5節から19節です。
●5節.災いだ、わたしの怒りの鞭となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。

 

主は、アッシリアを用いて北イスラエルを裁かれましたが、主は、そのアッシリアに対し、「災いだ」と嘆きの言葉を発せられています。
そして主は、アッシリアは、北イスラエルを裁くための道具(「憤りの杖」)でしかないことを述べています。

 

もちろん、当のアッシリアの王は、その様にはとらえないで、ただ多くの国々を滅ぼすことしか考えていなかったでしょう。
主は、そのようなアッシリアの王の高慢に対して、アッシリアを罰すると言われています。

 

王の高慢ぶりは、13節と14節に記載されています。
アッシリアは、「わたしの怒りの鞭」ですから、単なる神の道具であるのにかかわらず、その立場を逸脱して思い上がったと言うことでしょう。

 

 

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残りの者の帰還、アッシリアを恐れるな、敵の攻撃(10章)

聖書の箇所は、10章20節から34節です。
<残りの者の帰還>
●20節.その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。

 

「その日」、すなわち、終わりの日には、「イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者」は、「自分たちを撃った敵」(アッシリアのことでしょう。)、アッシリアとか、アラムといった周辺諸国にたよることなく、イスラエルの真の神に頼るようになるのです。

 

「自分たちを撃った敵」を終わりの日の預言とみると、それと同じようなことがこの世の終わりにも起こるのです。
黙示録を参考に終わりの日に起こるとされていることを纏めてみます。

 

即ち、21節から23節で起こることです。
終わりの日に「自分たちを撃った敵」アッシリア、すなわち反キリストがヨーロッパのリーダーとして現れ、中東の和平と、パレスチナ問題を一気に解決し、イスラエルは、一時的にその者と和解し、神殿が再建されることになるのですが、そのことによってそのリーダーをメシアと錯覚することになります。

 

 

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2022年7月31日 (日)

平和の王・帰還と救い(11章)

聖書の箇所は、11章1節から16節です。 11章は、メシアの統治による平和(1~9節)と、離散した民が帰還(10~16節)の二つの預言です。 <平和の王> ●1節.エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち アッシリアは、そびえ立つ木でありましたが、それは主のよって切り倒されます。 エッサイというのはダビデの父の名で、「切り株」と言うのは、神に選ばれてイスラエルの王となったダビデの家ですから、ダビデの家は一旦断絶するという事が語られているのでしょう。 それは、10章27節後半から34節にかけて記されているアッシリアによる北エルサレム進軍と密接に結び付けて理解すべきことなのでしょう。 そして、その根株から「若枝」が出てきて育つと言う、主にある希望をイザヤは語ります。 「エッサイの株」ですが、正確には「エッサイの切り株」と言うことでしょう。 そして、「エッサイの根株」は、エッサイから出る子孫を意味しますが、この預言はエッサイの息子であるダビデのことを指しているのではないのは、イザヤの時代は、ダビデの時代よりずっと後だから明確です。

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救いの感謝 救いの感謝(12章)

聖書の箇所は、12章1節から6節です。
12章は1章からの小イザヤ書と言われている個所の最後の章です。

 

「小イザヤ書」と言われる所以は、1~12章の中にイザヤ書全体がコンパクトにまとめられているからでしょう。
なお、12章にも「その日」が出てきますが、預言書を読むときは、近未来、例えば、数年(数百年)先の歴史において起こることもありますが、大方は「終わりの日」、すなわちメシア王国(千年王国、御国の到来)の時のことを指しています。

 

●1節.その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。

 

「その日」ですから、終わりの日には、「あなた」ですから、イスラエルの民は、自分たちへの主の怒りは、自分たちを滅ぼすためのものではなく、終わりの日には慰められるのです。

 

 

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バビロンの審判(13章)

聖書の箇所は、13章1節から22節です。
ここ13章から23章は、イスラエルとかかわった異邦人の国に対する預言がまとめられています。
その中には、イザヤの時代の預言もあれば、世の終りに成就する預言も含まれています。

 

時系列では記されていないので、神の人類救済の歴史のマスタープランを頭に入れて読む必要があるのでしょう。
一応、預言の箇所を書いておきます。

 

13章1節は、バビロンに対する神の宣告。
14章28節は、ペリシテ全土に対する神の宣告。
15章1節は、モアブに対する神の宣告。
17章1節は、ダマスコに対する神の宣告。
19章1節は、エジプトに対する神の宣告。
21章1節は、再びバビロンに対する神の宣告。
21章11節は、ドマ(=エドム)に対する神の宣告。
21章13節は、アラビヤに対する神の宣告。
22章1節は、エルサレムに対する神の宣告。
23章1節は、ツロに対する神の宣告。
30章6節は、ネゲブに対する神の宣告です。

 

さて、13章と14章23節までは、バビロンに対する預言ですが、それは同時に、ヨハネの黙示録における「大バビロン」の滅びと重ねることが出来ます。

 

 

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イスラエルの回復・バビロンの滅亡(14章)

聖書の箇所は、14章1節から23節です。
引き続きイスラエルとかかわった諸国民に対する預言がまとめられています。
イザヤ書の13章~23章には、イザヤの時代の預言もあれば、世の終りに成就する預言も含まれています。

 

預言は広範囲にわたり、時系列では記されていないので、神の救いの歴史のマスタープランを頭に入れておかねば、混乱させられます。
13章と14章1~23節は、バビロンに対する預言ですが、それは同時に、人類の歴史が一気に「その日」、すなわち、終わりの日に飛んでヨハネの黙示録における「大バヒロン」の滅びと重ねられています。

 

同時に、終わりの日における「イスラエルの回復」の預言が1節と2節で語られているのです。
その間の教会時代と呼ばれる時代は、イエス・キリストが来られることによって明らかになりますのでイザヤはそのことは知りません。
神様の人類救済のマスタープランを、あたらしい人類の創造をしっかりと頭に入れて読んでいきたいと思います。

 

なお、イザヤの時代のバビロンは、黙示録にも反キリストの比喩として出てきますが、黙示録では大バビロンと、「大」がついています。
大バビロンと言う言葉は黙示録にしか出てきません。
サタンが支配する反キリストの異邦人諸国を総称する意味で大バビロンと言うことでしょうか。

 

 

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アッシリアの軛・ペリシテに対する警告(14章)

聖書の箇所は、14章24節から32節です。
イザヤ書は、13章から新しい段落に入り、23章まで、イスラエルを取り囲む周辺諸国への宣告を語っています。

 

その筆頭に上げられたのはバビロンでしたが、そのバビロンは、単に一つの国としてバビロンではなく、黙示録の終わりの日の預言に出てくる「大バビロン」の象徴、神に敵対する勢力、世界の反キリストとしての連合軍であるバビロンを預言していました。
ここからは、アッシリアとペリシテに対しての裁きの宣告の告知です。

 

<アッシリアの軛>
●24節.万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。
●25節.わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし/わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛は、わが民から取り去られ/その重荷は、肩からはずされる。」
●26節.これこそ、全世界に対して定められた計画/すべての国に伸ばされた御手の業である。
●27節.万軍の主が定められれば/誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば/誰が引き戻しえよう。

 

 

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モアブの破滅(1)(15章)

聖書の箇所は、15章1節から9節です。
15章と16章は、モアブに対する主の裁きの預言とそれを嘆く主の姿が記されています。15章はモアブに対する主の裁きの預言が記され、16章はその裁きの預言の理由が記されています。

 

この時代、つまり、イザヤが活躍した時代は、北にはアッシリアという巨大な勢力が生まれ、南にはエジプトという勢力があり、その間に挟まれた中東の国々がその二つの巨大な勢力の間で揺れ動く時代であったと言うことです。

 

中東諸国は、自然と親アッシリア政策と反アッシリア政策に分かれ、自分たちでも小競り合いを繰り返しながら、自分たちが生き残る道を巡って右往左往していたそうです。

 

現代の中東情勢も聖書時代と変わらず小競り合いを繰り返し、諸民族の特性も変わっていないように思います。
しかし、預言者イザヤの南ユダに対する言葉は、一貫して、「静まれ」と語り、親アッシリアでもなく、反アッシリアでもなく、主なる神にのみ信頼するようにと語り続けます。

 

 

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モアブの破滅(2)(16章)

聖書の箇所は、16章1節から14節です。
●1節.使者を立て、貢ぎ物の羊を送れ/その地を治める者よ/荒れ野の町セラから、娘シオンの山へ。
●2節.「アルノンの渡し場に集うモアブの娘らは/巣を追われ、さまよう鳥のようです。

 

「使者を立て、貢ぎ物の羊を送れ」とありますが、ここを素直に読むと、これから逃れようとしている南ユダに、そしてエルサレムに小羊を贈れ(モアブは牧畜の国)と言うことでしょうか。

 

モアブは貢ぎ物をダビデの時代からイスラエルに納めていましたが、イスラエルの王アハブが死ぬと、モアブの王は背き貢物送らなくなりました。

 

けれども今、再び羊を送れ、と主がモアブに言っておられるのです。
それも「その地を治める者」に送れ」と言っています。

 

当時の南ユダの支配者のことでしょうか、それともシオンの山におられる主ご自身、のことを指しているのでしょうか。
どちらにしても、モアブの民が国外に逃げようとしていますので、主は、モアブに、南ユダに、そしてエルサレムに助けを求めよ、と呼びかけておられるのでしょう。

 

 

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