諸国民の滅亡(2章)
聖書の箇所は、2章4節から15節です。
4節~15節には、四つの地域の国々に対し、主の裁きがなされることが記されています。具体的な名前が記されてはいますが、ユダのエルサレムを中心とする周囲の諸国のすべてを象徴していると考えます。
なぜならば、その諸国はすべて反イスラエル、反ユダヤ主義の象徴となる異邦諸国であるからです。
裁きの理由は、主の民イスラエルに対するそしりと罵りはすべて彼らを選んだ主に対するものとみなされ、その高慢のゆえに裁かれるのです。
そして、その地域はヨハネの黙示録でのメシア王国(千年王国)の中心的な地域であり、新しい聖なる都エルサレム(=回復されるエデンの園)の地域と一致するのです。
●4節.まことに、ガザは捨てられ/アシュケロンは荒れ果てる。アシュドドは真昼にその住民を追われ/エクロンは根こそぎにされる。
●5節.災いだ、海沿いの地に住む者、クレタの民は。主の言葉がお前たちに向けられている。カナンよ、ペリシテ人の地よ/わたしはお前を滅ぼし/住む者がないようにする。
●6節.海沿いの地は牧場となり/羊飼いの井戸が掘られ、羊の囲いが造られる。
●7節.その土地は、ユダの家の残りの者の所有となる。その土地で、彼らは羊を飼い/夕暮れには、アシュケロンの家で憩う。主なる神が彼らを顧み/その繁栄を回復されるからだ。
ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロンの地名が記され、その地域は「海沿いの地に住む者」「クレタの民」「ペリシテ人の地カナン」とも呼ばれています。
主は彼らのその地を消し去って、そこは「その土地は、ユダの家の残りの者の所有となる。」と預言されます。
ペリシテ人の地は、五つの町があったそうです。
ガザ、そしてアシュケロン、アシュドテ、エクロン、そしてここには記載されていませんがガテ(この時にはまだなかったのか)です。
「クレタの民」は、クレテ島のことでペリシテ人の出身地です。
ですから、彼らはそこから来て、イスラエルの「海沿いの地」、ことに「ガザ地区」があるその地域に住み着いたのです。
●8節.わたしはモアブの嘲りと/アンモン人の、ののしりを聞いた。彼らはわが民を嘲り/自分の領土について驕り高ぶった。
●9節.「それゆえ、と/イスラエルの神、万軍の主は言われる。わたしは生きている。モアブは必ずソドムのように/アンモン人はゴモラのようになり/とこしえに荒れ果て、雑草の茂る所/塩のくぼ地となる。わが民の残りの者が彼らの地を奪い取り/国の生き残りの者がそれを受け継ぐ。」
モアブもアモンも、エルサレムが破壊された時に嘲笑し、おごり高ぶりました。それに対して神は、「モアブは必ずソドムのように/アンモン人はゴモラのようになり/とこしえに荒れ果て、雑草の茂る所/塩のくぼ地となる。わが民の残りの者が彼らの地を奪い取り/国の生き残りの者がそれを受け継ぐ。」と宣言されます。
実際に、モアブとアンモン人は、バビロン、ペルシヤ、そしてギリシヤによってその地が襲われ、民族性を失いました。
南ユダ王国の残りの者は、その地を受け継ぐことになっています。
●10節.このことが彼らに起こるのは、彼らの傲慢のゆえであり、万軍の主の民を嘲り、驕り高ぶったからだ。
●11節.主は彼らに対して恐るべき者として臨まれ、地上のすべての神々を滅ぼされる。島々に住む諸国の民も、それぞれの地で主にひれ伏す。
「モアブ」と「アモン」はロトの子孫ですが、主の民イスラエルを「嘲り、驕り高ぶったから」彼らの地がソドムとゴモラのように徹底的な壊滅状態となることが預言されています。
そして、「わが民の残りの者が彼らの地を奪い取り/国の生き残りの者がそれを受け継ぐ。」としています(9節)。
11節では「主は、・・地上のすべての神々を滅ぼされる。島々に住む諸国の民も、それぞれの地で主にひれ伏す。」と預言しています。
それは、主のことがイスラエル、シオンから流れ出て、全地におよぶようになるからでしょう。
ですから、八百万の神を拝む日本人も、やがてメシア王国(千年王国)においては、日本にいながら主なる神を礼拝するようになるという預言だと思います。
「多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」(イザヤ書2章3節、ヨハネの手紙4章21節から24節参照)。
これらのことが起こるのは、「彼らの傲慢のゆえであり、万軍の主の民を嘲り、驕り高ぶった」から、すなわち、主の民イスラエルに対するそしりと罵りはすべて彼らを選んだ主に対するものとみなされ、その高慢のゆえに裁かれるのです。
「地上のすべての神々を滅ぼされる。」ことが主の目的です。
そして、主は南ユダ帝国の残りの者だけでなく、「島々に住む諸国の民も、それぞれの地で主にひれ伏す。」ですから、(全世界の)諸国の異邦人に対しても救いの手を伸ばされます。
千年王国において、エルサレムにおられるイエス・キリストを礼拝するのはイスラエルの民だけではなく、世界中の人々です。
ほとんどすべての人が救われると言う私の信仰の根拠です。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロの手紙二/ 3章9節)・・ミカ書4章1節から2節参照
●12節.クシュ人よ、お前たちもまた/わたしの剣によって刺し殺される。
「クシュ」はエチオピアのことで、エチオピアの王がエジプトを治めていたこともありましたから、ここでは、エジプトと考えても良いでしょう。
主はエチオピヤも「わたしの剣によって刺し殺される。」と宣言されます。
この時のエチオピアは、今のエチオピアでなく、エジプトの南部とスーダンを含む国であったそうです。
イスラエルは、エジプトとアッシリアという二つの大国に挟まれて、長い間、その対応に苦慮していたと言うことです。
●13節.主はまたその手を北に向かって伸ばし/アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ地とし/荒れ野のように干上がらせられる。
ここでは南ユダ帝国の周辺の大国の一つであるアッシリアが滅ぼされます。
ユダの最大の敵であるこれら両大国が滅ぼされると言うことは、イスラエルの民にとっては大喝采となるところでしょうけれども、よく考えると、大国であるエジプトとアッシリアが滅ぼされるというのは、今日において、日本におけるアメリカが滅亡するということです。
そのように強大な国々が滅びるような事態にあって、日本は、いや、小国イスラエルは無事では済まないでしょう。
●14節.そこには、あらゆる獣が/それぞれ群れをなして伏す。ふくろうと山あらしは柱頭に宿り/その声は窓にこだまする。杉の板ははがされ、荒廃は敷居に及ぶ。
●15節.これが、かつてにぎやかであった都だろうか。かつて、人々は安らかに住み、心の中で/「わたしだけだ。わたしのほかにだれもいない」と言っていた。どうして、都は荒れ果て/獣の伏す所となってしまったのか。ここを通り過ぎる者は皆/驚きのあまり、口笛を吹き、手を横に振る。
アッシリアと首都ニネベも荒れ果てた地となることが預言されています。
メディヤが紀元前612年に、バビロンと共にニネベを倒しました。
その廃墟の様子がここに書いてありますが、今もその遺跡の所は何も建てられていないそうです。
ニネベの人は「わたしだけだ。わたしのほかにだれもいない」と、心の中で言っていたと書かれています。
直訳は、「私だけで、ほかにはいない」ですから、傲慢です。
アッシリアのニネベも驕りゆえに裁かれたのです。
主が、天地万物の創造者であり至高者です。主が他にあってはならないのです。
アッシリアもバビロンもペルシアもアレキサンダー率いるギリシアも、そしてローマ帝国であっても、どんなに栄耀栄華を誇っていても、枯れるとき、散るときがやって来るのです。
進んだ文明も華やいだ文化も、豊かな富も強大な軍事力も、国民の命をほしいままにし、自分を神と崇めさせるような独裁者が巨大な権力を持つ国も明日を保証してはくれないのです。
〇「残りの者」について一言。
神との契約を破棄した神の民イスラエルに、神の裁きが臨み民は世界中に離散したが、その民の中から、あたかも切り株から生命が芽生えるように、「残りの者」という少数の真のイスラエルが生じて、「聖なる種子」を形作ります(イザヤ6章13節)。
ただし、残りの者には、当然、離散の時に生きていた人たちは死んでいますから、その子孫と言うことになります。
この「聖なる種子」こそ、「イスラエルの聖なる方、主に、真実をもって、たよる」(イザヤ10章20節)者たち、すなわち「残りの者」です。
この「残りの者」が、メシア王国(千年王国)、および「永遠の御国」における「新しい聖なる都エルサレム」のメンバーになるのです。
ただし、この残りの者は、すべてイエスを主と信じる者ですから、現に1948年に建国され世界中から帰還するイスラエルの民は、イエスを主と信じていないから「の子r地の者」とは違います。
その人たちが、イエスを主と信じたときに、現にあるイスラエルの民は、「残りの者」となるわけです。
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