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« ゼファニヤ書前置き | トップページ | 諸国民の滅亡(2章) »

2022年6月 7日 (火)

主の怒りの日(1節)

聖書の箇所は、1章1節から2章3節です。
●1節.ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。

 

ゼファニヤ書は、「クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。」としています。
著者が「ゼファニヤ」で、彼はエルサレムをアッシリアの攻撃から守った「ヒズキヤ」王の子孫であることを強調しています。

 

その活躍時代は、「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代」です。
ヒズキヤを継いだマナセの時代は暗黒の時代で、預言者イザヤが残酷な「のこ引き」の刑で殺されたという伝承がありますが、その時代は、預言者の家系にとっては厳しい受難のときであったようです。

 

なお、この預言が記された時代はハバククとほぼ同時代だと思われています。また、「主(ヤハウェ)の日」の記述においてヨエル書との共通点が際立っています。

 

 

 

ゼファニヤ書の主題は、「主の日」です。
旧約聖書の預言書、新約聖書にも、「主の日」という言葉が頻繁に出ます。
それは、主が、終わりの日にすべてのことを完成させるために定められた期間です。一般的には、ヨハネの黙示録の7年の艱難時代を指します。

 

ゼファニヤが活躍したヨシヤの治世は、紀元前640年から609年です。
解説では、ゼファニヤ書が著わされたのは、その内容から、ヨシヤ王が徹底的な宗教改革を行う紀元前622年よりも前、630年ごろのことではないかと想定されています。イザヤやホセアの時代、紀元前700年代から半世紀以上たっていました。その間に預言者が現れた形跡はないそうです。

 

●2節.わたしは地の面から/すべてのものを一掃する、と主は言われる。

 

ヨシヤが王となってしばらくは、マナセ、アモンの時代状況がそのまま存在していたようです。
そこに預言者ゼファニヤが登場して、「わたしは地の面から/すべてのものを一掃する」と言う天地万物を創造された主の言葉を告知します。

 

「集めてから、取り除く(一掃する)」というニュアンスだと言うことです。
もちろん、人々がこの言葉を聞き流し、なおも不信仰の罪を続けるなら、語られたとおりに裁きを受けると言うことでしょう。
それに、主なる神に従う者まで一掃するということではないまずです。

 

●3節.わたしは、人も獣も取り去り/空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ/人を地の面から絶つ、と主は言われる。
●4節.わたしは、ユダの上と/エルサレムの全住民の上に手を伸ばし/バアルのあらゆる名残とその神官の名声を/祭司たちと共に、この場所から絶つ。
●5節.屋上で天の万象を拝む者/主を拝み、主に誓いを立てながら/マルカムにも誓いを立てる者
●6節.主に背を向け/主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ。

 

警告にもかかわらず主に立ち返ることがなかったので、先に北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたように、南ユダ王国もバビロンによって滅び、「主を求めようとしない者を絶つ」と言う主の言葉が実現したのです。

 

なお、この「絶つ」と言う言葉を世の終わりの出来事とすると、世の終わりにすべての生き物が「取り除かれ」るのは、「不敬虔な者どものさばき」のためであって、イエスを主と告白する者たちはすべて、復活のキリストの似姿に変えられ、新しい天と新しい地に生きることができます。

 

そして、パウロによれば全被造物もその時を待っているというのです(ローマ8章19節から21節)。
つまり、ここに記された「絶つ」は、滅亡とは限りません。

 

新しい天と新しい地への入れられるために、この地から絶たれると解釈することもできるからです。
この地上から絶たれるのは、「ユダの上と/エルサレムの全住民」です。

 

具体的には、第一は、「バアルのあらゆる名残とその神官の名声」ですから、バアル神や天の万象を拝むバアルの残りの者(4,5節)です。

 

第二は、エルサレムにいた異教の「偶像に仕える祭司たち」です。マナセの時代には、アッシリア帝国の宗教政策によってアッシュル神が公然と礼拝されるようになっていたので、その異教の祭司たちがエルサレム神殿の中にもいたのでしょう。

 

第三は、「屋上で天の万象を拝む者」(5節)で、当時天文学は天体礼拝と共に盛んであったのでしょう。
第四は、「主に誓いを立てながら/マルカムにも誓いを立てる者」ですから、異教の偶像に使える祭司たちです。

 

マルカムはアモン人の神ですが、幼児をいけにえとしてささげるという野蛮で残酷な宗教であったようです。
主(ヤハウェ)への礼拝とマルコムへの礼拝が同じ人によってなされていたことを指しているのでしょう。

 

第五は、警告をしたのに「主に背を向け/主を尋ねず、主を求めようとしない者」(6節)です。
ここは主への無関心がさばきの対象となっていますから、それまでの四つをまとめたような内容です。

 

なお「主を求めようとしない者」とは、もともと信仰を持っていなかった者ではなく、一時期、信仰に熱くなりながら、その後、冷めてしまうことより生まれる、具体的な背教の姿勢が問われているのではないでしょうか。

 

一時の熱が冷めると、神について分かっていたと思うことが、実はまったくわかっていなかったことに気づくとか、信仰に新たな発見がなくなると、そこから他の魅力的な神々を慕い求めるという偶像礼拝が始まるのでしょう。

 

とにかく、主が「断ち滅ぼす」対象とされるのは、主を礼拝しながら、同時に別の神を求めるような霊的な浮気だと思います。

 

●7節.主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し/呼び集められた者を屠るために聖別された。

 

始まりの言葉「沈黙せよ」は、主であるヤハウェの前に恐れおののいて、主の語りかけを待つようにという思いを込めた強い呼びかけだと思います。

 

そして、最初に語られた言葉は、「主の日は近づいている。」です。
なぜならば、「主はいけにえを用意し/呼び集められた者を屠るために聖別された。」と言うことでしょう。
その上で、次節8節と9節の裁きとなるわけでしょう。

 

●8節.主のいけにえの日が来れば/わたしは、高官たちと王の子らを/また、異邦人の服を着たすべての者を罰する。

 

7節と8節は、神の主権的な決定としての裁きに対して文句は言わせないという「問答無用」的なニュアンスです。
なお、「主の日」はこの場合二つ考えられ、近いところでは「バビロンによってもたらされる南ユダ王国(首都エルサレム)の崩壊と捕囚です。

 

遠いところでは終わりの日の「メシアの再臨」の出来事です。
そう、新約から見ればメシアの再臨によってもたらされる神の定められた日を示唆し、それは神の審判と回復がもたらされる時です。

 

●9節.その日、わたしは敷居を跳び越える者すべてを/主君の家を不法と偽りで満たす者らを罰する。

 

「主の日」には、「主はいけにえを用意し/呼び集められた者を屠るために聖別された。」の聖別された者はバビロンの軍勢を指すのでしょう。

 

つまり、南ユダ王国の王族とかすべての住民を生贄にして、生贄をほふる祭司をバビロンの王になぞらえているのでしょう。
つまり主は、バビロンと言う獣によって南ユダ王国の支配階級の者たちを罰すると宣言されているのだと思います。

 

また、「異邦人の服を着たすべての者を罰する。」と言うのは、南ユダ王国の異邦の外国に頼っている人々を罰するということでしょう。
「敷居を跳び越える者」と言うのは、他人の家のものを強奪する者のことを指しているのでしょう。

 

つまり、主が神の民の南ユダ王国の指導者たち自身が「異邦人の服を着たすべての者」、すなわち、偶像礼拝の祭司たちと結託して、主の神殿を「暴虐と欺きで満たす」ようなことをしているからだと言われているのです。

 

●10節.その日が来れば、と主は言われる。魚の門からは、助けを求める声が/ミシュネ地区からは、泣き叫ぶ声が/もろもろの丘からは、大きな崩壊の音が起こる。

 

「魚の門」とはエルサレムの城壁の北の中心的な門(歴代誌下33章14節)を指すのでしょう。
「ミシュネ地区」とは当時のエルサレムの神殿の北に作られていた新しい地区(列王記下22章14節)のことでしょう。

 

「丘」は、どこを指すのは不明ですが、同じように町の北部にある丘なのでしょう。
ここは、当時のエルサレムは東から西にかけては急勾配の崖になっていたので、北にはそのような自然の要害はなく、攻撃に弱い構造であったのではと言うことです。

 

●11節.マクテシュ地区の住民よ、泣き叫べ。商人たちはすべて滅ぼされ/銀を量る者は皆、絶たれるから

 

「マクテシュ地区の住民よ、泣き叫べ。」の「マクテシュ」とは、モルタルとか漆喰という意味があるそうです。
マクテシュ地区がどこを指すのか不明ですが、「商人たちはすべて滅ぼされ」とありますから、おそらく第二区の南にあった市場であったと思われています。

 

●12節.そのときが来れば/わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し/酒のおりの上に凝り固まり、心の中で/「主は幸いをも、災いをもくだされない」と/言っている者を罰する。

 

「その時」、つまり定めの時がくれば主ご自身がさばくべき対象をくまなく捜し出し、罰する様子が描かれているのでしょう。
「酒(ぶどう酒)のおりの上に凝り固まり」とは、ワインが発酵の過程を得ないで濁ったまま放置されたので役に立たなくなったにもかかわらず自己満足をしている状態を指すのでしょう。

 

「主は幸いをも、災いをもくだされない」と言うのは、主は怠惰で不誠実な人間を捜しだし、罰を加えると言われるのでしょう。
何の努力も願いもしない者は、何事にも無関心ですから、主にすがることも、主を恐れることもしないので、主の存在にも無関心で、心の赴くままのその日暮らしをしている状態を指すのではと言うことです。

 

●13節.彼らの財産は略奪され、家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、住むことができず/ぶどう畑を植えても/その酒を飲むことができない。

 

彼ら即ち南ユダ王国の王族たちが富をむさぼっているところを神がバビロンを通して罰しておられる場面でしょう。
「魚の門」はエルサレムの城の北の門で、バビロンは北から攻めてきました。

 

「マクテシュ地区」は、商人が集まり商いが盛んなところで、集まっている商人たちが滅ぼされます。
「酒のおりの上に凝り固まり、」とあるのは、ぶどう酒を他の器に入れ替えないでそのまま置いておくと、ぶどう酒がだめになるのでその姿をここは描いているそうです。

 

つまり、なんの変化もなく平穏でいるので、霊的に怠惰な状態になっている状態、神に無関心な状態を指します。
そして「主は幸いをも、災いをもくだされない」と心の中で言っているのです。

 

「彼らは家を建てても、住むことができず/ぶどう畑を植えても/その酒を飲むことができない。」とありますが、これが主を尋ね求めない者の姿を指しているのでしょう。

 

12節の状態にある彼らを襲う悲惨がここ13節で描かれています。
なお、これは主が申命記28章15から68節で、主の御声を聴こうとしない者、主の命令に無関心になった者に対して下すと警告された「神の呪い」の要約ではと言うことです。

 

●14節.主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。

 

7節の「主の日は近づいている。」が繰り返されています。
その日は、非常に早く来ると警告されているのでしょう。

 

●15節.その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。
●16節.城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。

 

15節と16節で「日」が六回出てきます。
創世記の創造の御業と関係があるのでしょうか。
ここはエルサレム滅亡の宣告です。

 

●17節.わたしは人々を苦しみに遭わせ/目が見えない者のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからだ。彼らの血は塵のように/はらわたは糞のようにまき散らされる。

 

主は、「わたしは人々を苦しみに遭わせ」と言われています。
その結果、人々は「目が見えない者のよう」(希望の見えない状態)になるのです。

 

その理由が、「彼らが主に対して罪を犯した」からと記されています。
「彼らの血は塵のように/はらわたは糞のようにまき散らされる。」とは、人間の「血」とか「はらわた」といういのちそのものが、糞のように無価値で、忌まわしいものとして撒き散らされると言うことでしょう。

 

●18節.金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの日に/地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を/地上に住むすべての者に臨ませられる。

 

「主の日」に関し、「その日」「主の大いなる日」(14節)、そして15節に、「(主の)憤りの日/(人間にとって)苦しみと悩みの日、(目に見える世界の)荒廃と滅亡の日/(暗さの協調として)闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。」、16節に「城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日」とありますが、これらは、神のご計画におけるいわば「定まった日」(カイロス)のことです。

 

主の日は、主の「憤りの日」で、主が地上で人が行なっている悪に対する報いのため日です。
「雲と濃霧の日」は、地球的規模、宇宙的規模における破滅を指しているのでしょう。

 

そして、「角笛と鬨の声の日」とは軍事的側面を言っているのでしょう。
また主は18節で、「金も銀も彼らを救い出すことはできない。」と強調しておられますが、お金さえあれば何でもできるという人間の金と富に対する信仰を粉砕されているのでしょう。

 

纏めてみると、イスラエルの指導者たちは周辺の強い国々の神々を拝むことによって、平和を実現できると思っていたが、それはかえって主の「ねたみ」を買って、自分たちを滅ぼすことになるというのです。

 

彼らは自分の身を自分で(偶像礼拝で)守ろうとするあまり、主の激しい怒りの日を「近くに」招き寄せたのです。

 

●2章1節.共に集まれ、集まれ/恥を知らぬ国よ

 

ここは、主がいてもいなくても同じだと思っていた恥知らずな国民に向かって、主の御前に急いで集まるようにという招きとして解釈できます。
また「集まれ、集まれ/恥を知らぬ国」の「集まれ、集まれ」は、へりくだって主を尋ね求める集会を開きなさい、という意味にとれます。

 

●2節.判決が出されぬうちに。もみ殻のように、その日は飛び去る。主の燃える怒りがお前たちに臨まぬうちに。主の怒りの日がお前たちに臨まぬうちに。
●3節.主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ/恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう。

 

主は「南ユダ王国の人々に悔い改めを呼びかけておられるのでしょう。
「恥を知らぬ国」の「国」のヘブル語は、普通、異邦の国民のことを指す時の言葉だそうですから、この言葉は、異邦人と何ら変らない行ないをしている国民、と言うことになります。

 

「判決が出されぬうちに」、つまり、「もみ殻のように」ですから、脱穀してもみ殻を吹き飛ばすときのように、主の目に役に立たない無価値な者にならないうちに主の前に立ち返ることの勧めでしょう。

 

「主の怒りの日がお前たちに臨まぬうちに。」悔い改めなさいとなります。
主の燃える怒りに襲われる前に、主の前に立ち返ることが勧められているのでしょう。

 

3節で主はユダに対し、裁きの前に悔い改めを求めます。
いや、「主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ」ですから、「イスラエルの残りの者」(3章13節)と言い換えても良いかと思います。

 

主は、「主を求めよ。・・恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。」と呼びかけておられます。
読み替えれば、「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」です。

 

「尋ね求める」とは、心を尽くして主に願い求めることでしょう。
「義を求めよ」は、神の正義の実現を求めることでしょう。

 

「柔和」は、神に対しては謙虚であること、そして人に対しては憐れみをもって接することでしょう。
そうすれば「主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう。」とあります。

 

ここはその人たちを主ご自身が「主の怒りの日にかくまわれる」(2章3節)という意味が込められているのかと思います。

 

なお、このときのイスラエルは、悔い改めるのが遅すぎ、バビロン帝国によってエルサレム神殿を廃墟とされましたが、その「残りの者」(3章13節)にはあわれみが注がれ、「主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう。」が実現します。

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