エルサレムの罪と贖い(3章)
聖書の箇所は、3章1節から20節です。
●1節.災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。
「この都」はエルサレムのことですから、主の御声はエルサレムに帰ってきました。
「災いだ」、なぜならば、この町は(特に支配者層は)反逆と汚れと暴力に満ちていたからです。
「反逆」とは、神の言葉に背いたことです。
「汚れ」とは、神によって聖別された神の民なのに、世俗のもの(偶像礼拝、聖なるものと汚れたものの区別)と一つになっているからでしょう。
そして「暴力」は、貧しい人、やもめ、その他、弱っている人を助けないで、疎外し虐待(暴力)することです。
●2節.この都は神の声を聞かず/戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとしなかった。
ここは南ユダ王国(エルサレム)の現状が四つの動詞で語られています。
①「神の声を聞かず」
②「戒めを受け入れなかった。」・・トーラーと言うくびきを受け入れなかったと言うことでしょう。
よって、神の民としてのアイデンティティは確立されない。
よって、エルサレムは神の町とはならず、「反逆と汚れに満ちた暴力の町」となってしまったと言うことでしょう。
③「主に信頼せず」
④「神に近づこうとしなかった。」
主が、エルサレムのこの現状を回復させるために、諸国の民をご自身の民に対する矯正的手段の道具として用いられるのです。
このようなことが、神の民が神の民として完全な姿に回復される「終わりの日」にまで何度も繰り返されて続きますが、最終的には、神のトーラー(律法)が神の民の心の中に書き記されて真の神の民となるのです。(3章7節)
自分たちは主なる神に選ばれた民族、主の神殿が置かれたこの町であるから、神の恵みによってどんなときにも平和裏に守られると信じられていたのだと思います。
その町が1節で主は「反逆と汚れに満ちた暴虐の都」と言われます。
それは、「神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった」(2節)からであり、「主に信頼せず、神に近づこうとしなかった」(同節)からです。
3節以下では、役人たち、裁判官たち、預言者たち、祭司たちという職名を上げて、そのエルサレムが「反逆と汚れに満ちた暴虐の都」になったのは、この国の指導者たちの反逆と汚れが原因だとされています。
●3節.この都の中で、役人たちはほえたける獅子/裁判官たちは夕暮れの狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない。
●4節.預言者たちは、気まぐれで欺く者/祭司たちは、聖なるものを汚し、律法を破る。
●5節.主は、都の中にいまして正しく/決して不正を行われない。朝ごとに裁きを与え、それを光とし/誤りをなさることはない。不正を行う者は恥を知らない。
「朝ごとに裁きを与え、それを光とし」ですが、これは朝毎に公義を明らかにすると言うことでしょうから、これは王、また、裁き司が民のために裁きを行なうことを表しているのでしょう。
当時、人々(虐げられている人々、弱い者)は朝から列を並んで、門のところで裁きを行なう王を待っていたそうです。
「門」での裁きは、虐げられている人々とか弱い者にとっては唯一の正義が行われる場であったのでしょう。
●6節.わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ/人影もなく、住む者もない。
●7節.わたしは思った。「必ず、お前はわたしを畏れ/戒めを受け入れる。わたしがどんなに罰しても/その住む所が断たれることはない。」しかし、彼らはますます堕落を重ね/あらゆる悪事を行った。
「わたしは諸国の民を滅ぼした。」と言うのは、南ユダ帝国の周りの国々、また周りの町々がバビロン(主の言葉)によって滅ぼされました。
それで主は、エルサレムの住民に警告されているのでしょう。
しかし、「彼らはますます堕落を重ね/あらゆる悪事を行った。」とあります。
6節と7節は、国の指導者らが過去の歴史や周辺諸国の状況から何も学ばず、自ら滅びを招いたことが語られているのでしょう。
主なる神は「諸国の民を滅ぼし」、「城壁の塔を破壊」、「街路を荒れるに任せ」られ、主は「わたしは思った。「必ず、お前はわたしを畏れ/戒めを受け入れる。わたしがどんなに罰しても/その住む所が断たれることはない。」と言われていますから、それを見たイスラエルの民が必ず主を畏れ、戒めを受け入れるに違いないと思っておられましたのです。
けれども、「しかし、彼らはますます堕落を重ね/あらゆる悪事を行った。」(7節)と言われます。
即ち、アッシリアによってアラムの都ダマスコと北イスラエルの都サマリヤが陥落したこと、そして、今はそのアッシリアの国力が低下し、バビロニアが台頭してきているという現実の出来事の背景に、預言者の警告にもかかわらず主の御手を見ないで、主を畏れることもなく、主の戒めを受け入れようとはしなかったと言われているのでしょう。
●8節.それゆえ、お前たちはわたしが獲物に向かって/立ち上がる日を待つがよい、と主は言われる。なぜなら、わたしは諸国の民を集め/もろもろの王国を呼び寄せ/彼らの上に、憤りと/激しい怒りを注ぐことを定めたからだ。必ず、地上はくまなく/わたしの熱情の火に焼き尽くされる。
7節に続いて、主は「諸国の民を集め、もろもろの王国を呼び寄せ、彼らの上に、憤りと激しい怒りを注ぐことを定めた」、「必ず、地上はくまなく、わたしの熱情の火に焼き尽くされる」(8節)と告げられ、神の都エルサレムもその例外ではないことが明らかにされたのです。
「わたしを待つがよい」は、一縷の望みをもって主を待つがよいと言われているのでしょう。
ゼパニヤが南ユダにおいて主の言葉を語っていると言うことは、アッシリアの支配による覇権で、何とか平和が保たれている時代でした。
主は、そのアッシリアを滅ぼし、荒れ果てた地とすることを完了形で語っておられます。
●9節.その後、わたしは諸国の民に/清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え/一つとなって主に仕える。
●10節.クシュの川の向こうから/わたしを礼拝する者/かつてわたしが散らした民が/わたしのもとに献げ物を携えて来る。
9節からはまったく様子が変わり、「その後」ですから、「地上はくまなく/わたしの熱情の火に焼き尽くされる。」(8節)と、主は告知されましたが、その後、諸国の民に清い唇が与えられ、彼らは皆主の名を唱え、一つとなって主に仕えると言われます。
「諸国の民に/清い唇を与える。」と言うのは、異邦諸国の民が他の神々の名を唱えないようになる、ということもありますが、その前に「純正な言語」(清い唇)を神が与えてくださることによって、はじめて諸国の民が一つになって主を礼拝し、仕えるようになるということを約束しておられるとも言えます。
神の約束ですから、それは神のご計画における神の時(カイロス)に、それが神の主権によってなされるということでしょう。
それで初めて、「彼ら(諸国に民)は皆、主の名を唱え/一つとなって主に仕える。」ことが出来るのです。
日本人であっても、何人であっても、同じイスラエルの神にあって一つになり、主の御名によって祈り、仕えると言うことでしょう。
10節に「クシュの川の向こうから/わたしを礼拝する者/かつてわたしが散らした民が/わたしのもとに献げ物を携えて来る。」とあるのは、クシュにまで散らされていたイスラエルの民が、イスラエルの神に回心したクシュ人によって、その帰還の後押しを受けるという意味でしょう。
即ち、イスラエル、ユダの民以外にも、主なる神を礼拝する者、主のもとに献げ物を携えて来る者が起こされることを明らかにするものでしょう。
なお、「クシュの川」とは、エチオピアがエジプトを治めていたこともあるので、ナイル川のことをそのように言っているのでしょう。
と言うことは、イスラエルの民自身が、クシュ人にとって主に対する贈り物となるのです。
バベルの塔の「彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」といわれた事態の反対の事態が起こるのです。
この異邦の諸国民共通の新しい言語は、ヘブル語ではないかと思われます。
なお、この清い唇を使徒言行録2章の聖霊降臨を指し、実現したと言う説もあります。
●11節.その日には、お前はもはや/わたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも/辱められることはない。そのとき、わたしはお前のうちから/勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で/驕り高ぶることはない。
「唇」(9節)をもって「主の名」を呼ぶことは、賛美や礼拝と関係するのでしょう。
この象徴的行為が、異邦の諸国の民に与えられる真実の神礼拝であることがここで語られていますが、それは同時に主の民の罪のゆるしを意味するものであるのでしょう。
それがここ11節につながり「お前(シオン=エルサレム)は、再びわが聖なる山で/驕り高ぶることはない。」となるのでしょう。
●12節.わたしはお前の中に/苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。
●13節.イスラエルの残りの者は/不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い/彼らを脅かす者はない。
「その日には」(11節)、「わたしはお前の中に/を残す。」(12節)と主は約束しています。
13節にあるように「苦しめられ、卑しめられた民は、13節の「イスラエルの残りの者」なのです。
13~15節では、諸国民との関連で「イスラエル」という言葉がよく出てきます。
その「イスラエル」は、「イスラエルの残りの者」とあるように、神が選ばれた民という意味で用いられているように思います。
「イスラエルの残りの者」は、この場合、南ユダとエフライムにおける「残りの者」ということになるのだと思います。
これらの出来事はすべて、神のご計画における「終わりの日」(「その日には」)の預言で、南ユダのみならず、エフライム(イスラエルの12支族の中の1部族ですが北イスラエルと同義)の存在なしには意味がありません。
●14節.娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
●15節.主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。
●16節.その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。
●17節.お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。
イスラエルの残りの者に対し主は、「娘シオンよ、喜び叫べ。」と叫ばれます。
異邦の諸国民でも、舌と行ないを清められた者には、この喜びの特権があるのです。
「お前の主なる神はお前のただ中におられ」(15節と17節)との言葉は、繰り返されます。
これは新約聖書の聖霊降臨と聖霊の内在のことを言っているのでしょう。
●18節.わたしは/祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ/お前の重い恥となっていた。
「祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。」は、離散の地にあったので、イスラエルの地で主に対する祭りに参加できないことを意味しているのでしょう。
●19節.見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。
●20節.そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で/お前たちの繁栄を回復するとき/わたしは、地上のすべての民の中で/お前たちに誉れを与え、名をあげさせると/主は言われる。
「そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。」ですから、その時、すなわちメシア王国(千年王国)の時には、神の御心で選びの民である「シオンの娘」(神の都「エルサレム」の雅名(詩的用法)です。)を単に集め連れ帰るだけでなく、彼らに本来与えられていた名誉と栄誉と言う特権をも回復してくださるのでしょう。
14節以降、「喜び」を表わすヘブル語が立ち並んでいます。
神によってもたらされる終わりの日のその時の世界の姿は、人が神に対して「喜ぶ」喜びと、17節にあるように「主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」とあるように、神も人を「喜び」「楽しむ」世界です。
このゼファニヤの預言は、バビロン捕囚、離散の中にある民に対する神の慰めの言葉になったでしょう。
最後に、イスラエルの人々の背景には、列王記上14章21節に「エルサレムは、主が御名を置くためにイスラエルのすべての部族の中から選ばれた都であった」と記されているように、自分たちは主なる神に選ばれた民族、主の神殿が置かれたこの町であるから、神の恵みによってどんなときにも平和裏に守られると信じられていたのだと思います。
いずれにせよ、確かに南ユダのバビロン捕囚は、エルサレムが主に裁かれ、すべてのものを失うという決定的な経験でした。
主だった者は皆、奴隷としてバビロンに連れ去られ、神殿は破壊され、エルサレムの都も廃墟になるという、もう二度と立ち上がれないような出来事でしたが、イスラエルは再び立ち上がることが出来ました。
それは、イスラエルの人々の努力の賜物でなく、悔い改めた結果でもなく、ただ、捕囚によって苦しみ呻いている人々を主なる神が憐れみ、救いを与えてくださったからではないでしょうか。
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