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2022年6月の記事

2022年6月 5日 (日)

ハバクク書前置き(ハバクク書を読む)

旧約聖書には、預言書は、大預言書が5、小預言書が12ありますが、ハバクク書は小預言書のひとつで、捕囚期前の預言書です。
ハバククはおそらくエルサレムの神殿に仕える職業的な預言者ではないかと思います。

 

ハバククは、「抱擁する、容認する」と言う意味で、南ユダ王国の預言者であると言うだけで、詳しいことはなにも分からないそうです。

 

ハバククが活躍した時代も分からないのですが、バビロニア・メデイア連合軍がアッシリア帝国の首都ニネベを陥落させた紀元前612年より以前で、南ユダ王国のヨシヤ王からエホヤキム王の間の時代ではとされています。
同時代の預言者は、ナホム・ゼバニア・エレミヤです。

 

他の預言者の預言は、神の言葉を神の民イスラエル、または敵に対して語ったものですが、ハバククは、神との対話を記録する形をとっています。

 

 

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預言者の嘆きと主の答え(ハバクク書を読む) 1章

聖書箇所は、1章1節から11節です。
●1節.預言者ハバククが見た託宣。

 

「託宣」を辞書で調べると、「神が人にのりうつったり、夢の中に出現したりして人間に伝える意志。」とありました。
「ハバククが見た」とありますから、神がハバククに対し、幻でご自分の意志を明らかにされたので、そのことを伝えようとしているのでしょう。

 

●2節.主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。/あなたは耳を傾けてくださらない。/「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに/あなたは救ってくださらない。
●3節.なぜ、あなたは災いを私に見せ/労苦を眺めたままなのですか。/私の前には破壊と暴虐があり/争いといさかいが起こっています。
●4節.こうして、律法は力を失い/正しい裁きがいつまでも下されません。/悪しき者が正しき者を取り囲み/そのため、裁きが曲げられています。

 

ハバククが2節で「いつまで」、3節で「なぜ」と神に問いかけているのは、「災いと労苦」「破壊と暴虐」「争いといさかい」、そして、「律法は力を失い/正しい裁きがいつまでも下され」ないと言う現実があるからです。

 

 

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預言者の嘆き(ハバクク書を読む)

聖書箇所は、1章12節から17節です。
●12節.主よ、あなたは永遠の昔から/わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために/彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた。

 

ハバククは混乱しています。そして、訴えています。
「わが神、わが聖なる方ではありませんか。」と問いかけて、「あなたは我々を懲らしめるため/彼らを立てられた。」ですから、バビロンをイスラエルに対して神の裁きを行なう器として用いられるというようなことがあっても良いのでしょうか、と問いかけているのでしょう。

 

「我々は死ぬことはありません。」というのは、神がご自分の民を滅ぼされるようなことはないと自問自答しているのでしょう。
と言うことは、ハバククは、神はご自分の民イスラエルを、懲らしめのために裁かれることはあっても、滅ぼすことはなく、バビロンをそのために興されたことを認めているのです。

 

 

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主の答え(ハバクク書を読む)2章

聖書箇所は、2章1節から20節です。
●1節.わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

 

ハバククは、今、「歩哨の部署につき」「砦の上に立って見張る」と言っています。
それは、「神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」ですから、見張り所で、主が語られるどんなに小さな声でも決して聞き逃さない、とする姿勢です。

 

と言うことは、あまりにも多くの人が、主の声を聴くことをあきらめてしまっていたからでしょう。
それは、「神に逆らう者が、自分より正しい者を/呑み込んでいる」のを見て、ハバククは、受け入れがたいものを感じていたのと同様のことを多くの人も感じていたので、主の声を聞くことをあきらめていたのでしょう。

 

●2節.主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。
●3節.定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 

 

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賛美の歌(ハバクク書を読む) 3章

聖書箇所は、3章1節から19節です。
●1節.預言者ハバククの祈り。シグヨノトの調べに合わせて。

 

「シグヨノトの調べに合わせて。」とは、ハープのような小さな弦楽器の調べに合わせてということだと思いますが、その調べがどのような調べかわかりません。調べに合わせて祈っていたのですね。

 

ハバククは、幻で神の御業、ご計画を知り、神殿礼拝における賛美で用いる歌として残そうとしていたのでしょうか。

 

●2節.主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ/数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。

 

ハバククは幻で見せられた神の御業に畏れを抱き、「数年のうちにも、それを生き返らせ/数年のうちにも、それを示してください。」ですから、過去になされた偉大な救いのみわざを見せて欲しいという訴えと同時に、「主よ、早く来てください。」と切望しています。

 

 

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2022年6月 7日 (火)

ゼファニヤ書前置き

旧約聖書には、預言書は、大預言書が5、小預言書が12ありますが、ゼファニヤ書は小預言書のひとつで、捕囚期前の預言書です。

 

「ゼファニヤ」と表記される預言者の名前の意味は、「主が隠される」、あるいは、「主が隠し、秘め置いている事柄」だと言うことです。
それは同時に、主が隠された事柄が、主を尋ね求める者によってのみ開示されることを示唆しているとも考えられています。

 

「預言者ゼファニヤ」は、「主の日」に主がなそうとしておられることを当時の南ユダ王国(首都エルサレム)の人々に語り伝えました。
時代背景は、預言者ゼファニヤは自分の系図を開示し、5世代前まで遡って明らかにしています。
ヒゼキヤ(善王)―マナセーアモンーヨシヤ(善王)です。

 

4世代前は、ヒゼキヤ(1章1節)ですから、自分が「ヒゼキヤ」という南ユダの王の系譜にある者であることを伝えたかったのでしょうか。
ゼファニヤは、ヨシヤ王の時代に南ユダ王国で活躍した預言者です。

 

 

 

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主の怒りの日(1節)

聖書の箇所は、1章1節から2章3節です。
●1節.ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。

 

ゼファニヤ書は、「クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。」としています。
著者が「ゼファニヤ」で、彼はエルサレムをアッシリアの攻撃から守った「ヒズキヤ」王の子孫であることを強調しています。

 

その活躍時代は、「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代」です。
ヒズキヤを継いだマナセの時代は暗黒の時代で、預言者イザヤが残酷な「のこ引き」の刑で殺されたという伝承がありますが、その時代は、預言者の家系にとっては厳しい受難のときであったようです。

 

なお、この預言が記された時代はハバククとほぼ同時代だと思われています。また、「主(ヤハウェ)の日」の記述においてヨエル書との共通点が際立っています。

 

 

 

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諸国民の滅亡(2章)

聖書の箇所は、2章4節から15節です。
4節~15節には、四つの地域の国々に対し、主の裁きがなされることが記されています。具体的な名前が記されてはいますが、ユダのエルサレムを中心とする周囲の諸国のすべてを象徴していると考えます。

 

なぜならば、その諸国はすべて反イスラエル、反ユダヤ主義の象徴となる異邦諸国であるからです。
裁きの理由は、主の民イスラエルに対するそしりと罵りはすべて彼らを選んだ主に対するものとみなされ、その高慢のゆえに裁かれるのです。

 

そして、その地域はヨハネの黙示録でのメシア王国(千年王国)の中心的な地域であり、新しい聖なる都エルサレム(=回復されるエデンの園)の地域と一致するのです。

 

●4節.まことに、ガザは捨てられ/アシュケロンは荒れ果てる。アシュドドは真昼にその住民を追われ/エクロンは根こそぎにされる。
●5節.災いだ、海沿いの地に住む者、クレタの民は。主の言葉がお前たちに向けられている。カナンよ、ペリシテ人の地よ/わたしはお前を滅ぼし/住む者がないようにする。
●6節.海沿いの地は牧場となり/羊飼いの井戸が掘られ、羊の囲いが造られる。
●7節.その土地は、ユダの家の残りの者の所有となる。その土地で、彼らは羊を飼い/夕暮れには、アシュケロンの家で憩う。主なる神が彼らを顧み/その繁栄を回復されるからだ。

 

 

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エルサレムの罪と贖い(3章)

聖書の箇所は、3章1節から20節です。
●1節.災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。

 

「この都」はエルサレムのことですから、主の御声はエルサレムに帰ってきました。
「災いだ」、なぜならば、この町は(特に支配者層は)反逆と汚れと暴力に満ちていたからです。
「反逆」とは、神の言葉に背いたことです。

 

「汚れ」とは、神によって聖別された神の民なのに、世俗のもの(偶像礼拝、聖なるものと汚れたものの区別)と一つになっているからでしょう。

 

そして「暴力」は、貧しい人、やもめ、その他、弱っている人を助けないで、疎外し虐待(暴力)することです。

 

●2節.この都は神の声を聞かず/戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとしなかった。

 

ここは南ユダ王国(エルサレム)の現状が四つの動詞で語られています。

 

 

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2022年6月10日 (金)

ハガイ書前置き(ハガイ書を読む)

旧約聖書には、預言書は、大預言書が5、小預言書が12ありますが、ゼファニヤ書は小預言書のひとつで、捕囚期後の預言書です。
同時代には、ゼカリヤがいます。

 

ハガイ書は、ユダヤ人がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した後の話が書かれています。
ハガイは、南ユダで活躍した預言者です。系図はなく父親も不明です。
ハガイと言う名は、ヘブル語の「祭り」からきているそうです。

 

ハガイに主の言葉が下ったのは、ダレイオス王の第二年六月1日、紀元前520年です(1章1節)。
ここから推測して、ハガイが預言者として活躍しているのは、ゼファニヤより100年ほど後、バビロン捕囚から解放され、イスラエルへの帰還が許されて18年後ということになるのでしょう。
ペルシヤ王のクロスの勅令により、紀元前538年にすべての民の帰還が赦されました。

 

神殿再建の経緯
紀元前587年に南ユダの首都エルサレムの都が陥落し、主だった者は皆、捕囚としてバビロンに連れて行かれました。
そして半世紀後の紀元前539年にバビロニア帝国が新興ペルシャ帝国によって滅ぼされ、その翌年にユダヤ人のイスラエル帰還と神殿再建が許されました。

 

 

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神殿再建の呼びかけ(1章)

聖書の箇所は、1章1節から15節です。
●1節.ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。

 

ハガイが預言したのは、「ダレイオス王の第二年六月一日」とあります。
それは紀元前520年8月末の頃のことだと思います。

 

夏の終わり、夏の果実の収穫が終わって間もないころのことでしょう。
また、六月一日ですから、その日には、新月の祭りがあるので、祭りを祝うためにユダヤ人が集まってきているようなときに、ハガイが主の言葉を語りました。

 

そのハガイの預言の言葉が臨んだのは、二人で、「ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア」です。
この二人は、バビロン捕囚以後のユダヤ人指導者です。
「ゼルバベル」は、ダビデ王族の直系の子孫です。

 

 

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新しい神殿の栄光と祝福(2章)

聖書の箇所は、2章1節から19節です。
●1節.七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。

 

1節に「ダレイオス王の第2年、7月21日」と記されています。
主の言葉が預言者ハガイに語った6月1日(1章1節、紀元前520年の8月末ごろ)から一ケ月半余、第二神殿の建築作業が再開(6月24日)されて4週間が経過しました。

 

7月21日は、仮庵祭と呼ばれる祭の最終日に当たります(レビ記23章34節参照)。

 

●2節.「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。

 

初めの、つまり、1章1節の預言者ハガイに臨んだ預言で告知する者は、ゼルバベルとヨシュアに対してであったが、ここでは民の残りの者たちも加えられています。
即ち、告知の内容が、指導者二人だけでなく、民全体に関わることであると言うことでしょう。

 

●3節.お前たち、残った者のうち/誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。

 

この当時、ソロモンの神殿を見たことがあるのは、既に70歳を超えた老人たちです。
第二神殿の基礎が築かれたとき、「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き」と、エズラ記3章12節に記されています。

 

 

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主の僕ゼルバベル(2章)

聖書の箇所は、2章20節から23節です。
●20節.同じ月の二十四日/主の言葉が再びハガイに臨んだ。

 

同じ日に、再び主のことばがハガイに臨みました。

 

●21節.「ユダの総督ゼルバベルに告げよ。わたしは天と地を揺り動かす。

 

ハガイに臨んだ主の言葉は、ゼルバベル個人に対するものでした。

 

●22節.わたしは国々の王座を倒し/異邦の国々の力を砕く。馬を駆る者もろとも戦車を覆す。馬も、馬を駆る者も/互いに味方の剣にかかって倒れる。

 

 

 

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2022年6月15日 (水)

マラキ書前置き

旧約聖書には、預言書は、大預言書が5、小預言書が12ありますが、マラキ書は小預言書のひとつで、捕囚期後の預言書です。 マラキ書はイスラエルに与えられた最後の預言書で、以降新約聖書の出てくるバプテスマのヨハネまで、預言者は現れません。 マラキとは、わたしの天使、わたしの使者と言う意味で、捕囚気以降にユダヤ(特にエルサレム)で活躍しました。 マラキが活躍した時代は、歴史的には、ちょうどネヘミヤがペルシアのユダヤ州の総督であった時代ころで、第二神殿完成(紀元前515年)から半世紀ほど経た頃、紀元前460年ごろのことでしょうか。 こののち神の声は、バプテスマのヨハネが現れるまで約400年の間沈黙します。 ゼカリヤ書では、終わりの日にイスラエルは霊的に復活し、千年王国(メシア王国)で建てられる神殿におられるのは、王である祭司であるキリストであることを知りました。 て神に立ち返るようにとの勧告です。

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イスラエルとエドム、正しい礼拝(1章)

聖書の箇所は、1章1節から14節です。
イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、約束の地に戻り、神殿を再建できました。
しかし、完成した神殿は、ソロモンの神殿とは比較にならないほどに貧しい神殿でした。
(イスラエルとエドム・・1節から5節)

 

●1節.託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。

 

「託宣」ですが、これは主の裁きが迫っているという意味での「重荷」とも訳されているそうです。
ゼカリヤ9章、12章の始まりの言葉と同じで、ゼカリヤの9章以降とマラキ書とには一連の関係にあると思われています。

 

「マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉」ですが、この預言が語られたのは、紀元前515年(516年とする見方も)に第二神殿が完成した後半世紀、その感動が冷めてしまった倦怠期と言える時期ではないでしょうか。

 

 

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祭司の警告(2章)

聖書の箇所は、2章1節から2章9節です。
●1節.祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。
●2節.もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。

 

「祭司たちよ。今、この命令があなたがたに下される」と言っていますが、しかし、続けて「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、」と、条件を付けて、主のさばきが、「わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。」と宣告しながら、「いや既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。」と、すでに、「のろい」が実現していることを宣言しておられます。

 

これは、1章6節における、「わたしの名を軽んずる祭司たちよ/あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、」と、反省することもなく問い直していることへの主の裁きなのでしょう。

 

主の命令に聞き従わなければ、呪いが来る、そして、主の御名に栄光を帰さないということであれば、祝福が呪いになるということです。

 

●3節.見よ、わたしはあなたたちの子孫を脅かし/あなたたちの顔に汚物を浴びせる。それは祭りの犠牲の捨てられたものだ。あなたたちは、その上に投げ捨てられる。

 

 

 

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若い時の妻に対する背信(2章)

聖書の箇所は、2章10節から16節です。
●10節.我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り/我々の先祖の契約を汚すのか。

 

ここからは祭司だけではなく、イスラエルの民全体の罪が指摘されます。
その罪は、「我々は皆、唯一の父(唯一の神)を持っている」のに、「兄弟が互いに裏切り」「先祖の契約を汚す」と言っています。
この「先祖の契約」というのは、トーラー(律法)のことでしょう。

 

●11節.ユダは裏切り/イスラエルとエルサレムでは/忌まわしいことが行われている。まことに、ユダは主が慈しんでおられる聖なるものを汚し、異教の神を信じる娘をめとっている。

 

「ユダは裏切り……主の聖所を汚し、異教の(外国の)神を信じる娘をめとった」と、罪を具体的に指摘されています。

 

●12節.主よ、このようなことを行う者を、家族もろともヤコブの天幕から絶ち滅ぼしてください。たとえ彼が万軍の主に献げ物をささげたとしても。

 

「このようなことを行う者を、家族もろともヤコブの天幕から絶ち滅ぼしてください。」の「家族もろとも」ですが、家族は、神が男と女を造り、神は二人が一心同体になるように結婚と言う制度を設けられたのです。

 

 

 

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審判の日の到来(2章)

聖書の箇所は、2章17節から3章5節です。
●17節.あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と。あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである。

 

バビロン捕囚からの帰還者は、最初は、感激に満たされて主の宮の再建に情熱を傾けましたが、やがて気力が萎え、再建工事は停滞しました。
そのような中で預言者たちが民を励まして、神殿は完成しました。

 

主はその時代の預言者ハガイとゼカリヤを通して、再建された神殿が将来、主の栄光に満たされ、エルサレムが神の都として繁栄を回復すること、平和と祝福がもたらされると約束されています。(ハガイ2章7節と9節とゼカリヤ8章3節、11節、13節)

 

しかし、紀元前516年の神殿再建から50年ほど経たマラキの時代の人々は、自分たちの期待が裏切られたと感じていたのだと思われます。
主の祝福は、すぐに実現するものと、将来、それも主の日に実現するものとがあるのです。

 

 

 

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悔い改めの勧告(3章)

聖書の箇所は、3章6節から12節です。
●6節.まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。
●7節.あなたたちは先祖の時代から/わたしの掟を離れ、それを守らなかった。立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように立ち帰ればよいのか、と。

 

6節にあるように、前節までの様な厳しい裁きがあっても、「主であるわたしは変わることがない。」と言われています。
「ヤコブの子らにも終わりはない。」と言うのは、ヤコブの時のように主のイスラエルの民への思いは変わりがない、見捨てはしないと言うことでしょう。

 

「そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」と言うことでしょう。
それは、主の栄光が再建された神殿に戻ってくるという意味でしょう。

 

しかし、彼らは愚かにも、「どのように立ち帰ればよいのか、と。」問うています。
イスラエルの民は何度も主から離れましたのっで、今、どのように悔い改めたらよいのかが、分からなくなっているのです。

 

 

 

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正しい者と神に逆らう者(3章)

聖書の箇所は、3章13節から18節です。
●13節.あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。

 

主のつぶやきが描かれています。
「わたしに/ひどい言葉を語っている、」と言うのです。
主ご自身が、ご自分の民のことばによって傷ついているかのような表現です。
イスラエルの民はその主のつぶやきに対して「どんなことをあなたに言いましたか、」と問います。

 

●14節.あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。

 

主は「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。」と、彼らがつぶやいている様子を描いています。

 

 

 

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主の日(3章)

聖書の箇所は、3章19節から24節です。
●19節.見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

 

万軍の主は言われる。「見よ。その日が来る。」とあります。
この「その日」とは、主が定められた終わりの日のことでしょう。
「見よ。」と、その日は必ず来ると強調されています。

 

そして、その日は「炉のように燃える日が。」来ると表現されています。
その日は、「高慢な者、悪を行う者」たちへの厳しい刑罰の日であると同時に、「主を畏れ敬う者」への報い、祝福の約束の日でもあるのです。

 

 

 

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2022年6月18日 (土)

ゼカリヤ書前置き

旧約聖書には、預言書は、大預言書が5、小預言書が12ありますが、ゼカリヤ書は小預言書のひとつで、捕囚期後の預言書です。

 

ゼカリヤ署は、メシア預言が満載で、新約聖書には本書からの引用が41か所あります。
南ユダのバビロン捕囚の間、約70年間は、イスラエルの地では預言者の活動はなく、捕囚地では、ダニエルとエゼキエルが活躍していました。
捕囚から帰還後に登場した預言者が、ハガイ・ゼカリヤ・マラキです。

 

ゼカリヤという名前の意味は、「ヤハウェは覚えられる」という意味です。
主が彼らを決して忘れることなく覚えておられ、またご自分の町エルサレムを覚えておられると言うことでしょう。

 

 

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悔い改めの勧告と第一の幻(1章)

聖書の箇所は、1章1節から17節です。
●1節.ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ。

 

時は、「ダレイオスの第二年八月」ですから、紀元前520 年の収穫が終わり、冬にさしかかる10月から11月にかけてのころでしょう。
預言者ハガイは、ペルシヤのダリヨス王第二年の第六月一日に第一回目の預言(第二神殿工事再開)をの行な いました。紀元前520 年 8 月29日のことです。

 

第二回目の預言は、同じ年 の第七月の第二十一日に行なっています。紀元前520年10月17日のことです。
ソロモンの神殿を思い 出して、嘆き悲しんでいる老人たちに、その栄光よりはるかにすぐれた栄光があることを教えまし た。

 

そして第三回目は、この日から主の祝福が始まるとして、工事にとりかかった三か月後、第九 月の二十四日に預言をしています。紀元前520年の12月 18日です。

 

 

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第二・第三の幻(2章)

聖書の箇所は、2章1節から17節です。
●1節.わたしが目を留めて見ると、四本の角があるではないか。
●2節.わたしに語りかけた御使いに、「これは何ですか」と尋ねると、彼は、「それはユダ、イスラエル、エルサレムをちりぢりにした角である」と答えた。

 

第二の幻は、「四本の角」とその角を加工する「四本の鉄工」です。
聖書で「角」は権威や力を象徴します。

 

ゼカリヤが御使いに聞くと、「それはユダ、イスラエル、エルサレムをちりぢりにした角である」と答えています。
「ユダ、イスラエル」と並べているのは、バビロンに滅ぼされた南ユダだけでなく、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされた北イスラエルにも目が向けられているのでしょう。

 

 

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第四の幻(3章)

聖書の箇所は、3章1節から10節です。
●1節.主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。

 

この幻は、法廷の形をとっています。
「主の使い」は、裁きの場ですから天の法廷の裁判官です。

 

そしてその前に大祭司ヨシュアが被告として立っています。
そしてヨシュアの右側に原告であるサタンがいます。

 

そしてゼカリヤにこの幻を見せておられる父なる神、主がおられます。
大祭司ヨシュアがサタンからの告発を受けて裁かれているのです。

 

 

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第五の幻(4章)

聖書の箇所は、4章1節から14節です。
●1節.わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。
●2節.彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。
●3節.その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」
●4節.わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに言った。「主よ、これは何でしょうか。」

 

第五つ目の幻で、今度は燭台です。
御使いがゼカリヤに「何を見ていたのか」と問いますと、ゼカリヤ2節半ばから3節の通り答えます。

 

答えの第一は、「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。」です。

 

そして第二は、「その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」と答えます。
そこでゼカリヤは御使いに、「主よ、これは何でしょうか。」(4節)と尋ねます。「これら」とは、「二本のオリーブの木」のことでしょう。

 

 

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第六・第七の幻(5章)

聖書の箇所は、5章1節から11節です。
5章には二つの幻が記されています。

 

一つは、第六の幻で「飛んでいる巻き物」、もう一つは、第七の幻で「エファ升とその中にいる女」です。
今までの幻もそうでしたが、この章の幻も第二神殿再建と神の民イスラエルの回復を視野に、人類救済史的、終末論的視点から解釈したいと思います。

 

●1節.わたしが再び目を留めて見ると、一つの巻物が飛んでいた。
●2節.御使いがわたしに、「何を見ているのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「巻物が飛んでいるのが見えます。その長さは二十アンマ、幅は十アンマです。」

 

第六の幻は、飛んでいる巻き物です。
巻き物の大きさは、「長さは二十アンマ、幅は十アンマ」です。

 

 

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第八の幻(6章)

聖書の箇所は、6章1節から15節です。
●1節.わたしが再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった。
第八の幻です。

 

四両の戦車が二つの山の間から出てきています。
この山は青銅でできています。青銅は、神の裁きを表しています。(幕屋において青銅でできた祭壇は、私たちの罪が裁かれることを意味していました。)

 

したがって、今、神がご自分の力と権威によって、裁きを行なわれることを表しているのでしょう。

 

●2節.最初の戦車には赤毛の馬数頭、二番目の戦車には黒い馬数頭、
●3節.三番目の戦車には白い馬数頭、四番目の戦車にはまだらの強い馬数頭がつけられていた。
四両の戦車をそれぞれ複数の馬が引っ張っています。
●4節.わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに、「主よ、これは何ですか」と尋ねると、
●5節.御使いはわたしに言った。「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである。

 

 

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断食と回復の約束(1)(7章)

聖書の箇所は、7章1節から14節です。
●1節.ダレイオス王の第四年になって、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。それは九月、キスレウの月の四日のことであった。

 

「ダリヨス王の第四年」の「九月、キスレウの月の四日」と、具体的な時期の記述から始まります。
この日は1章1節に記された最初の預言から約二年後の紀元前518年の12月を指します。まさに第二神殿再建工事の真っただ中での預言です。

 

●2節.ベテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼の従者たちを遣わして、主の恵みを求めさせ、
●3節.また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか。」

 

 

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断食と回復の約束(2)(8章)

聖書の箇所は、8章1節から23節です。
8章は、「万軍の主の言葉(ゼカリヤに対し)が臨んだ。」という定型句で、以下のように、10のメッセージが語られています。

 

1.わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。(2節)
2.わたしは・・エルサレムの真ん中に住まう。(3節)
3.エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。(4節)
4.(平和の到来を)この民の残りの者が見て驚くことをわたしも見て驚くであろう。(6節)
5.わたしはわが民を救い出し、彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせる。(7・8節)
6.平和の種は蒔かれ、ぶどうの木は実を結び大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。(12節)
7.互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき平和をもたらす裁きをせよ。互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしょうとするな。(16・17節)
8.(追加され断食日である)四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家に喜び祝う楽しい祝祭の時となる。(19節)
9.更に多くの民、多くの町の住民が到着する。・・多くの民、強い国の民も来て、エルサレムにいます万軍の主を訪ね求め主の恵みを求める。(20・22節)・・諸国に民が群れを成して恵里サレムに集まる。
10.その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』(23節)・・ユダヤ人と異邦人が共に主の祝福にあずかる。

 

 

 

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2022年6月20日 (月)

諸国民の裁きとイスラエルの救い(1)(9章)

聖書の箇所は、9章1節から17節です。 ●1節.託宣。主の言葉がハドラクの地に臨み、またダマスコにとどまる。人々はイスラエルの全部族と共に主に目を向ける。 「託宣。」ですが、宣告とも言い「重荷」と言う意味があるそうです。 また新たな預言になります。これが11章まで続きます。 それから12章から新たに別の「宣告」が始まります。 「ハドラク」とはシリヤ北部のハマテの近くで、アブラハムに約束された地の最北端、「ダマスコ」はヘルモン山の北にあるシリヤの首都。 「ダマスコ」は、イスラエル王国を脅かす北の驚異の象徴的な町ですが、それらの町々に「宣告」としての「主のことば」が臨み、ダマスコには留まるとあります。 「ハドラク」「ダマスコ」と次の「ハマト」の町は、いずれもシリアの町です。ダマスコは今でもシリアの首都です。 主の宣告の内容は、通常、主が警告や裁きをお語りになるのですが、ゼカリヤ書では、それは、イスラエルの敵に対して向けられたものとなっています。

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諸国民の裁きとイスラエルの救い(2)(10章)

聖書の箇所は、10章1節から11章3節です。 10章は、終末において神の民(ユダとイスラエル)に与えられる祝福について預言されています。 ●1節.春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ/すべての人に野の草を与えられる。 「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。」と記されます。 主はイスラエルの民とイスラエルの地に大雨を降らせて、大いに祝福してくださることを指すのですが、「主に雨を求める」ということは、神と人がともに住むという究極的な神の国(御国)を求める意味になるそうです。 イスラエルにとって、雨は恵みであり祝福なのです。 この言葉は続く2節で「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」と語られていますから、その関連で、収穫をもたらす雨をだれに祈り願うのかと、イスラエルの民に訴えていることになります。 なお、この「テラフィム」は、創世記31章19節では「家の守り神の像」、士師記17章5節では、「テラフィムを造って」守り神としていた、と記されています。つまり、「テラフィム」とは家の祭壇に飾られた偶像なのでしょう。

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悪い羊飼い(11章)

聖書の箇所は、11章4節から17節です。 ●4節.わが神なる主はこう言われた。屠るための羊を飼え。 ●5節.それを買い取る者は、罪を帰せられずにそれを屠り、売るときは、「主はほめたたえられよ。わたしは金持ちになった」と言うが、羊飼いたちはそれを憐れまない。 ここで預言者ゼカリヤは、王や祭司など政治的、宗教的な指導者たちのことを羊飼いと呼び、イスラエルの民を羊と呼んでいます。 ゼカリヤは、主なる神に「屠るための羊を飼え」、つまり、牧者になるように命じられました。しかし、下記を読むと、神の嫌味に聞こえます。 「それを買い取る者」と言うのは、別の牧者のことでしょう。 「罪を帰せられずにそれを屠り、売るときは、「主はほめたたえられよ。わたしは金持ちになった」と言う」を要約すると、エルサレムに住む者たちは「屠るための羊」であり、その羊を「売るときは」、つまり、その民はエルサレムの滅亡に伴い、滅ぼされる運命、異邦人の国に離散する運命にあると言うことでしょう。

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エルサレムの救いと浄化(1)(12章)

聖書の箇所は、12章1節から14節です。
ゼカリヤは、捕囚から帰還した南ユダの人々に神殿の再建の希望を与えて、力づけるために起こされた預言者です。
しかし、与えられた主のメッセ―ジは単なる神殿建設にとどまらず、神の栄光のご計画の最終的なご計画を示す預言を含んでいました。

 

それは、終わりの日に起こる多くの出来事が、時間軸ではなく(時間的順序)ではなく、いま、起こっているように同時に見るような形で語られています。
神様の世界は、時間がないので、この地上世界の過去・現在・未来の出来事は、常に今なのです。

 

●1節.託宣。イスラエルに対する主の言葉。天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる主は言われる。

 

12章も9章と同じように「託宣」という言葉から始まります。
そして、その内容は、「イスラエルに対する主の言葉。」とされ、内容は、「天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる」です。
これは主が天地万物の創造主であることを明らかにしているのでしょう。

 

 

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エルサレムの救いと浄化(2)(13章))

聖書の箇所は、13章1節から9節です。
旧約の預言書には「初臨」と「再臨」の啓示はあるのですが、あるのは主の「来臨」です。

 

しかしこのゼカリヤ書13章では、メシアの初臨に起こる事と再臨に起こることが7節と8節で、語られています。
12章で、エルサレムの住民は自分たちに代わり戦う主を見ると、それは先祖が十字架で殺したナザレのイエスでありました。
それで彼らは、とてつもない罪を犯したことを知り激しく泣きます。

 

その嘆きは、イスラエルの指導層、そして一般の人々、あらゆる人々に及び、そして、一人ひとりに聖霊が降臨し、個人的に徹底した霊的覚醒が起こります。

 

●1節.その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。

 

 

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エルサレムの救いと浄化(3)(14章)

聖書の箇所は、14章1節から21節です。
ここでは、終わりの日のメシアイエスの再臨と、再臨された後に神の国が立てられるというすばらしい預言となります。
14章に記されているキリスト再臨の前後に起こる出来事をまとめてみたいと思います。

 

なお、1節から3節は、終わりの日のハルマゲドン戦いを指しているのでしょう。
「主の日が来る」で始まります。
主の日とは「終わりの日と」とも言い、この今の世と後の世を分ける日であり、主が天から来られてこの世に対する審判が行われる日、すなわち、大患難時代の終わりに起こる出来事が起こる日です。

 

その日は、主イエスの再臨と千年王国が立てられるその時期を指しています。
具体的には「ハルマゲドンの戦い」です。反キリストの軍勢とキリストの軍勢による最後の決戦で、舞台はエルサレムです。
「あなた」と言うのは、前節の「私」のことですから主イエスキリストのことでしょう。

 

 

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