フォト
2023年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 民の腐敗(ミカ書を読む) 7章 | トップページ | ナホム書前置き(ナホム書を読む) »

2022年5月27日 (金)

主の告発(ミカ書を読む)7章

聖書箇所は、7章8節から20節です。
●8節.わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。
●9節.わたしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない/ついに、主がわたしの訴えを取り上げ/わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。
●10節.「お前の神、主はどこにいるのか」と/わたしに言っていた敵は/このことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。

 

8章10節は、ミカの時代には、エルサレムはまだ破壊されていませんが、やがてエルサレムが再建する前に破壊されることをミカは神の幻によって見ているのでしょう。

 

また、この8節から10節の「わたし」はエルサレムを擬人化しているのでしょう。
まず預言者ミカは、エルサレムは、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光。」(8節)と(信仰)告白します。

 

そして、9節で「たしは主に罪を犯したので/主の怒りを負わねばならない」と預言者ミカは、主の怒りと裁きは、自分たちの罪のためとし、それを当然受けるべき主からの報いととらえて、「主はわたしを光に導かれ/わたしは主の恵みの御業を見る。」ですから、そこにイスラエルの回復の希望を見ます。

 

 

10節はこのようなイスラエルの状況を、敵から見えるようになることが、「お前の神、主はどこにいるのか」と/わたしに言っていた敵は/このことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。」と、描いています。

 

エルサレムの敵は、主のイスラエルを裁くための道具に用いられたに過ぎないのですが、彼らは勝利の中で自分たちの力を誇り、主を侮りました。
それに対する報いが来るということでしょう。

 

●11節.あなたの城壁を再建する日/それは、国境の広げられる日だ。
●12節.その日、人々はあなたのもとに来る/アッシリアからエジプトの町々まで/エジプトからユーフラテスまで/海から海、山から山まで。
●13節.しかし、大地は荒れ果てる/そこに住む者の行いの実によって。

 

11節から13節は、一つのことを言っているのでしょう。
11節の「あなた」とは、エルサレムのことでしょう。

 

「城壁を再建する日」とは、エルサレムが神の都として再建(回復)されるということでしょう。つまり、メシア王国の実現の預言です。
この「城壁を再建する日」は、主がアブラハムに約束された「国境の広げられる日」でもあるのです。(創世記15章18節)
イスラエルが回復するときに国境も広げられるのです。

 

その日はまた「アッシリアからエジプトの町々まで/」とあります。
これはイザヤ書19章23節から25節にもある預言と同じです。

 

エジプトとアッシリアという当時の大国の代表格が主の御前にひれ伏すことによって、両大国と共にイスラエルが主に祝福されると預言されています。

 

すなわち、「万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」(25節)です。

 

そしてもう一つは、「エジプトからユーフラテスまで」とあります。
これはアブラハムに神が与えられた土地に関する約束です(創世記15章18節)。

 

それでは、13節の「大地は荒れ果てる/」と記されているのはどういうことでしょうか。

 

「大地は荒れ果てる」は、神の裁きが下されることを指し、新しく広げられたエルサレムの国境の外のことだと思うのですが、しかし、そのような記載はなく、ただ、「大地は荒れ果てる」ですから、その地もやが荒れ果て、最終的な段階である「新しいエルサレムの到来(完全な救い)」への待望が示唆されているのではないでしょうか。

 

そして、その理由が、「そこに住む者の行いの実によって。」と描かれています。
彼らは暴虐の種を蒔き、荒廃という実を刈り取るのです。神の救いを嘲る者には、イスラエルだけでなく異邦人にも厳しい裁きが待っていると言うことです。

 

●14節.あなたの杖をもって/御自分の民を牧してください/あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に/ただひとり守られて住み/遠い昔のように、バシャンとギレアドで/草をはむことができるように。

 

預言者ミカが「あなたの杖をもって/御自分の民を牧してください/あなたの嗣業である羊の群れを。」と祈っています。

 

これは詩篇23篇にあるような主と主の民との関係が回復することを願ったものでしょう。
神による養いと導きによって、私たちを取り扱ってくださいとお願いしているのです。

 

「彼らが豊かな牧場の森に/ただひとり守られて住み」と言うのは、主が優しく、「他国の敵から守っていてくださっている、保護していてくださっている姿です。

 

なお、「遠い昔のように、バシャンとギレアドで/草をはむことができるように。」とある言葉の中には、残された地の豊かさへの感謝とともにその狭さを嘆き、ヨルダン川東岸にある昔の領土を回復したいという思いが描かれているのでしょう。

 

●15節.お前がエジプトの地を出たときのように/彼らに驚くべき業をわたしは示す。

 

14節に対する主の応答です。主の力強い約束が記されます。
エジプトでの奇蹟をもう一度行なう、と約束されているのです。

 

出エジプトの出来事の再現として、世界離散の民を約束の地に集められることを約束されているのでしょう。
なお、イスラエルと言う国家が1948年に建国されましたが、その国家は主が言われている主の民との関係が回復した、完成された国家ではありません。

 

●16節.諸国の民は、どんな力を持っていても/それを見て、恥じる。彼らは口に手を当てて黙し/耳は聞く力を失う。
●17節.彼らは蛇のように/地を這うもののように塵をなめ/身を震わせながら砦を出て/我らの神、主の御前におののき/あなたを畏れ敬うであろう。

 

15節の主の言葉を聞いてイスラエルの民が、告白しているのです。
それは、「それを見て」ですから、イスラエルの神を嘲っていた者たちが、目の前で神の御業と言うか、顕現を見て、自分たちの力を恥じ、「我らの神、主の御前におののき/あなたを畏れ敬うであろう。」、すなわち、主の前にひれ伏すようになるという期待を表現したものでしょう。

 

それは、「塵をなめ」とあるように、頭を下げるだけでなく、完全に従属する姿です。

 

●18節.あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。

 

預言者ミカが「あなたのような神がほかにあろうか」と神に賛美をささげています。
それは、「咎を除き、罪を赦される神」「神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない」方だからです。

 

●19節.主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。

 

神は、ご自分のものであるイスラエルの残りの者のために「咎を除き」「(そむきの)罪を赦される」「我らの咎を抑え」「すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」方とします。

 

「海の深み」とは、「二度と人の目に触れず、思い出さない所」という意味だそうです。
つまり、そこには「陰府の入口」があることをヨナ書は教えています。

 

水の深みで溺れ死にそうになっているヨナを思い出します。
海は、地球の有害物質を浄化する働きがあるといいますが、同じように罪を葬り去る場として主は定めておられるのでしょうか。

 

●20節.どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

 

「慈しみ」こそ、この箇所の核心部分です。
最後にミカは、「ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを」と祈ります。

 

「ヤコブ」は、イスラエルのこと、「アブラハムに慈しみを」は、神がアブラハムにした約束(嗣業の回復)の約束のことでしょう。

 

預言者ミカは、悲しみの中で、ただ絶望しているわけではなく、「しかし、私は主を仰ぎ見/わが救いの神を待つ。/わが神は私に耳を傾けてくださる。」(7章7節)と、信仰の言葉を語ります。

 

同胞には期待が持てなくて絶望的な状況でも、そこでなお憐れみの主に頼り、救いを待ち望む預言者(信仰者)の姿を見ます。

 

« 民の腐敗(ミカ書を読む) 7章 | トップページ | ナホム書前置き(ナホム書を読む) »

ミカ書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 民の腐敗(ミカ書を読む) 7章 | トップページ | ナホム書前置き(ナホム書を読む) »