ユダの混乱、復興の預言(ミカ書を読む)2章
聖書箇所は、2章6節から13節です。
●6節.たわごとを言うな」と言いながら/彼らは自らたわごとを言い/「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。
●7節.ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言う。わたしの言葉は正しく歩む者に/益とならないだろうか。
「たわごと」(6節)を調べますと、口語訳は「説教してはならない」、岩波訳は「よだれを流すな」、他には、(預言のことばを)語るな」ということで、「預言するな」と意訳した方がわかりやすいと書いていました。
いずれにしても、ミカが言うようなそんな悪い事など、起こるはずないという抗議があったことを意味しているのでしょう。
つまり、イスラエルの支配者は、「「たわごとを言うな」と言いながら/彼らは自らたわごとを言い」ですから、イスラエルの支配者たちは、真の預言者の言葉を「たわごとを言うな」と遮って、反対に彼ら自身がたわごと、「(預言の)言葉を語っている」というのです。
そして、その内容について、「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。」と言っているのです。
そして、この真の預言者の声を否定するような偽りの預言のことばが、7節では、「ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と描かれています。
●8節.昨日までわが民であった者が/敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る/戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。
●9節.彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し/幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。
主は「わたしの言葉は正しく歩む者に/益とならないだろうか。」(7節)と9節にかけて語り掛けます。
敵であるアッシリアが攻めてくる前から、イスラエルの指導者自身が神の敵となってしまい、平安に暮らしている者の「衣服をはぎ取る」、女たちを「楽しい家から追い出し」、幼子から主の民としての「誉れを永久に奪い去る。」というのです。
偽りの(預言の)言葉を語る者は、イスラエルの指導者ですから、(自分たちは主に敵対しているのですが)主が自分たちの味方であり、主は敵を打ち破ってくださると信じていたと思います。
きっと彼らは、自分たちが快適な生活をしているは、それが主の与えられた恵みだと思っていたのでしょう。
●10節.立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である。
「安住の地」は、2節の「嗣業」(相続地)と同じ意味だと言うことです。
すなわち、イスラエルの指導者たちは、かつて支配地の人々に向かって「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。」と言いながら、彼らの「衣服を剥ぎ取り」、女たちを「楽しい家から追い出し」ていたのです。
そして今、主が彼らの言葉をまねて「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。」といって、彼らを約束の地から追い出すというのです。
それは神が割り当ててくださった地が、彼らの罪によって汚されてしまったからです。
ここには、南ユダ(イスラエル)のバビロン捕囚に至る裁きが預言されているのでしょう。
●11節.だれかが歩き回って、空しい偽りを語り/「ぶどう酒と濃い酒を飲みながら/お前にとくと預言を聞かせよう」と言えば/その者は、この民にたわごとを言う者とされる。
ここは、偽りの(偽預言者)の言葉を語る者(イスラエルの指導者)の姿を皮肉をもって描いているのでしょう。
しかし、偽教師は、「濃い酒」を飲みながら教えを垂れ流すのですね。
それこそたわごとです。
●12節.ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。
主は、「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め・・・」と言われます。
イスラエルの人々は、アッシリアによって北イスラエルが、バビロンによって南ユダが、そしてローマによって紀元70年に離散の民となり国がなくなりました。
しかし主は、ご自分に立ち返る者たちを一つところに集め、「主がその先頭に立たれ」て、勝利者として敵を打ち破ることを約束してくださっているのです。
ただし、現在でも離散の民が、すなわち残りの者が集められてイスラエル国が誕生(1948年に建国)していますが、その人たちのすべてがキリストの神に立ち返っているわけではありません。
12節の言葉は、キリストの神に立ち返った民だけでの建国ですから、終わりの日にはイスラエルの残りの者すべてが主に立ち返る日が来るので、その時に初めてこの預言が成就するのです。
ここで言っているのは、終わりの日にはイスラエルの神を敬う「残りの者」(ご自分に立ち返る者)たちを、囲いの中の羊のように一つの群れにするということでしょう。
そしてこのことが、終わりの日には確実に、必ずなされるのです。
(参考開所は、申命記30章1節から5節)
●13節.打ち破る者が、彼らに先立って上ると/他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み/主がその先頭に立たれる。
主が先頭に立たれて敵どもと戦われてことごとく倒される姿を描いていますが、12節と13節は、 イスラエルの残りの者を必ず集めるという終末における回復の預言だと思います。
「打ち破る者」と言う表現を主(神)とすればちょっとおかしいのですが、この出来事が終わりに日の事態と捉えて、この主をキリストと解釈したいと思います。
即ち、主がキリストをもって救われたイスラエルとキリスト者のために、先頭に立って反キリストと戦ってくださるのです。(ヨハネの福音書10章3節と4節、エレミヤ書31章10節、申命記7章6節以下参照)
なお12節の、「羊のように囲いの中」と訳された部分は、新改訳の脚注を見ると、「ボツラの羊」とも読めるとあります。
「ボツラ」は、黙示録によると、イスラエルの「残りの者」たちが獣と呼ばれる反キリストの支配から逃れると預言されている場所です。
なお、13節をよく読むと、残りの者を「群れのように、牧場に導いてひとつにする。」、その後のことが、「彼らは人々と共にざわめく。打ち破る者が、彼らに先立って上ると/他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。」と記されます。
つまり、主がイスラエルの「残りの者」を一つに集めてくださるのは、彼らを敵の包囲から救い出すためであるということでしょう。
ミカ書の厳しい裁きは、よく見ると、すべて、この世の権力を乱用して、社会的弱者から奪い取り、偶像礼拝で富を得ていたような者に対する裁きです。
そして、主はそのようにこの世の権力者を裁いた後で、この世で虐げられた人をあわれみ、ご自身のもとに集め、彼らを慰め、この世の旅路を導き、新しい天と新しい地の祝福へと招き入れてくださると約束しておられるのでしょう。
もちろん、それらのことが実現するのは(この今の世界が終わる日)主の日のことです。
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