神の審判(ミカ書を読む) 1節
聖書箇所は、1章1節から2章5節です。
●1節.ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである。
ミカが預言したのは、「サマリヤとエルサレム」についてです。
この預言は、サマリヤを神がアッシリアによって裁かれると言うものですが、同じ理由でエルサレムもアッシリアによって裁かれるのです。
サマリヤ(北イスラエルの首都)まで攻めてきたアッシリアが南ユダに攻めてくることを預言(警告)したのです。
サマリアは北イスラエルの首都で、エルサレムは南ユダの首都です。両首都についての預言ということですが、内容を見れば、首都と言うよりエルサレムと南ユダ王国に向けてなされたものでしょう。
歴史では、サマリヤ陥落は紀元前722年の南ユダの王アハズ、ヒゼキヤの治世の頃です。
ミカの南ユダのエルサレムの陥落についての預言は(1章9節から16節)、ヒゼキヤが悔い改めて主に助けを求めたことからいったん逃れて、エルサレムの陥落は100年ほど延期されることになります。
しかし、結局のところ、南ユダ(エルサレム)も神のさばきを免れることができませんでした。
エレミヤ書26章18節に「エルサレム」陥落につき、次のような記述があります。
「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。
このようにミカの預言は約1世紀後のエレミヤの時代にも知られていたということです。
ミカは、エルサレムの陥落がサマリヤと同じ罪によるものだとしていますが、その罪とは、神を信頼せずに偶像を礼拝していることです。
つまり、まことの神に頼らずにアッシリアやエジプトと手を組んだ結果、異邦の国の宗教が入り込んで、偶像礼拝が当たり前になり神殿の腐敗が進みます。
●2節.諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。主は、その聖なる神殿から来られる。
「皆聞け」と神は命じておられますが、同じ言い回しが3章の初めに、そして6章の初めにあり、全部で三か所です。
主はご自分が裁きを行われるに当たって語られるのは、「諸国の民よ、皆聞け。」ですから、すべての民に対してであって、また「大地とそれを満たすもの、」ですから、自然界全体です。
ここは、神の裁きがすべての人、またすべての物に対して行われることを宣言されているのでしょう。
と言うことは、警告、裁きの宣告が、単に北イスラエル(サマリヤ)や南ユダ(エルサレム)だけでなく、全被造物がこの神の御前で裁きに服さなければいけないのです。
●3節.見よ、主はその住まいを出て、降り/地の聖なる高台を踏まれる。
●4節.山々はその足もとに溶け、平地は裂ける/火の前の蝋のように/斜面を流れ下る水のように。
そして主は天に御住まいをお持ちです。
主がその住まいを出て、「降り/地の聖なる高台を踏まれる。」ですから、その聖なる御姿をもって地に現れる時、「山々はその足もとに溶け、平地は裂ける」ですから、自然界は溶け去ってしまいます。
この「聖なる高台」は、5節にありますが、南ユダのエルサレムのことでしょう。
●5節.これらすべてのことは/ヤコブの罪のゆえに/イスラエルの咎のゆえに起こる。ヤコブの罪とは何か/サマリアではないか。ユダの聖なる高台とは何か/エルサレムではないか。
「これらすべてのこと」ですから、天変地異(4節)をもたらす神の裁きの原因は、「ヤコブの罪」「イスラエルの咎」だとしています。
そして、ヤコブの罪とはサマリヤのことで、イスラエルの咎とは、南ユダのイスラエルのことでしょう。
このように天変地異を伴う「サマリヤとエルサレム」の裁きは、神の民が犯している罪のためであるとミカは言っています。
もちろん、世界に下る災いは、むろん世が行っている罪に対して下るものですが、けれども神の焦点は、まずご自分の民に向けられているのでしょう。
つまり、裁きは、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。」(ペトロの手紙4章17節)とあるように、裁きは神の家イスラエルから始まるのです。
●6節.わたしはサマリアを野原の瓦礫の山とし/ぶどうを植える所とする。その石垣を谷へ投げ落とし/その土台をむき出しにする。
●7節.サマリアの彫像はすべて砕かれ/淫行の報酬はすべて火で焼かれる。わたしはその偶像をすべて粉砕する。それは遊女の報酬から集めたものだから/遊女の報酬に戻される。
サマリヤは北イスラエルの首都です。
サマリヤは丘の上にあり、栄えていました。そこを神は「野原の瓦礫の山」「ぶどうを植える所」「石垣を谷へ投げ落とし/その土台をむき出しにする。」と言われます。
「彫像はすべて砕かれ/淫行の報酬はすべて火で焼かれる。」ですから、裁きは偶像礼拝による裁きであることと、その偶像礼拝の中に、神殿娼婦がいて、顧客から儲けた金の一部を奉納金として神殿に納めていました(偶像を作る金でもあった)から、その偶像を破壊して、「遊女の報酬に戻される。」とするのです。
●8節.このため、わたしは悲しみの声をあげ/泣き叫び、裸、はだしで歩き回り/山犬のように悲しみの声をあげ/駝鳥のように嘆く。
ミカがユダに起こることを前もって幻の中で見て、気が狂いそうになっています。
自分の泣き声を、「山犬のように悲しみの声をあげ/駝鳥のように嘆く」と、山犬と駝鳥の鳴き声に喩えています。
それは神の裁きの後の南ユダの地が、そのようになることを暗に示しているものでしょう。
ミカの激しい悲しみの背景には、自分の出生地である「モレシェテ」もアッシリアによって略奪されたことがあるのかも知れません。
エルサレムがそむきの罪のために主の災いがもたらされるとき、南ユダの町々もその災いに巻き込まれて敵に奪い取られます。
エルサレムの陥落はミカの時代には免れますが、南ユダの町々のほとんどがアッシリアの軍勢によって破壊され略奪されてしまいます。
南ユダの要塞都市「ラキシュ」(エルサレムから南西に45キロ)も、エルサレムを包囲し攻略しようとするアッシリヤの橋頭堡とされてしまったそうです。
ここで南ユダの歴史的ないきさつを頭を整理するために書いておきます。
北イスラエル(首都サマリヤ)が、紀元前722年にアッシリアによって崩壊しますが、その後南ユダ王国(首都エルサレム)はアッシリアに服属する形で存続していましたが、紀元前609年にメギドの戦いの敗北によってエジプトの支配下に入り、紀元前605年にカルケミシュの戦いでエジプトのネコ2世が新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れた後、紀元前597年にそのネブカドネザル2世の前に屈します。
その後しばらくは独立国としての存在が許されていましたが、最終的にはエジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが露見したため、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちはバビロンの首都バビロニアへ連行されることになります(バビロン捕囚)。
●9節.まことに、痛手はいやし難く/ユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。
「ユダにまで及び、わが民の門エルサレムに達する。」ですが、ミカの預言は、まず南ユダの首都サマリヤに対してですが、それは、サマリヤの罪が南ユダにまで達し、それがやがてエルサレムにまで達したと言うことでしょう。
●10節.ガトで告げるな、「決して泣くな」と。ベト・レアフラで塵に転がるがよい。
10節から16節は、ミカ自身が記した哀歌でしょう。
まず、「ガトで告げるな、「決して泣くな」とは、ガトが本来のペリシテ人の地だからで、そこで嘆くことはペリシテ人の侵入を招くからと言うことでしょう。
それよりも、自分たちの町、「ベト・レアフラで塵に転がるがよい。」と言われます。
この「ベト・レアフラ」は「塵の家」という意味だと言うことですから、南ユダの嘆きの町を象徴的に描いているのでしょう。
●11節.シャフィルの住民よ、立ち去れ。ツァアナンの住民は/裸で恥じて出て行ったではないか。ベト・エツェルにも悲しみの声が起こり/その支えはお前たちから奪われた。
「シャフィル」は、「美しい」という意味ですから、その町から「立ち去れ」と言うことは、神は「美しさ」を誇る者に恥で報われるのです。
「ツァアナン」は、「出て行く」の意味で、「ツァアナンの住民は/裸で恥じて出て行ったではないか。」ですから、「出て行く」勇気を誇る者に臆病で報われるのです。
「ベト・エツェル」は、「奪い取る家」の意味で、「ベト・エツェルにも悲しみの声が起こり/その支えはお前たちから奪われた。」ですから、「奪い取る」ことを誇る者に略奪を報われるのです。
つまり、「・・人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」 (ガラテヤ書6章7節)
●12節.マロトの住民は幸いを待っていたが/災いが主からエルサレムの門にくだされた。
●13節.ラキシュの住民よ、戦車に早馬をつなげ。ラキシュは娘シオンの罪の初めである。お前の中にイスラエルの背きが見いだされる。
●14節.それゆえ、モレシェト・ガトに離縁を言い渡せ。イスラエルの王たちにとって/アクジブの家々は、水がなくて/人を欺く泉(アクザブ)となった。
●15節.マレシャの住民よ、ついにわたしは/征服者をお前のもとに来させる。イスラエルの栄光はアドラムに去る。
ここに出てくる数多くの町は、主にミカの出身地「モレシェテ」と呼ばれる地域だそうです。
そこは、ペリシテ人のいる地中海沿岸地域と、イスラエルの中央を走るユダの山地の間にある低地だそうです。
アッシリアは、サマリヤを紀元前722年に陥落させた後、このユダの地域に攻め入り、エルサレムの西側に廻って、そして南のラキシュまで行き、それから北上してエルサレムを包囲したと言うことです。
そのアッシリアが倒した町々の名がここに記されているのでしょう。
なお、ラキシュの丘状遺跡には、アッシリアがラキシュを攻めた時の跡が克明に残っているそうです。
そしてアッシリアの王セナケリブが南ユダの町々を攻め取ったこととか、ヒゼキヤが自分に贈り物をおくってきたことなど、勝ち誇っている文章も残っているそうです。
さらに、ニネベにある、セナケリブの宮殿の壁画には、ラキシュにおいて人間を串刺しにした絵、生きたまま皮を剥いでいる絵が残っているそうです。
各町の名前につき調べましたので一言書いておきます。
12節の「マロト」とは「苦い」の意味で、そこに住む者が「幸いを待っていたが」に続き、そこに住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう、と言うことで、それは、「災いが主からエルサレムの門にくだされた。」とあるので主からの報復でした。
13節は「ラキシュの住民よ、戦車に早馬をつなげ」ですから、ラキシュは、エルサレムの南西45㎞にある要塞都市で、ラキッシュという発音はヘブル語の「早馬」に似ているそうです。
「ラキシュは娘シオンの罪の初めである。お前の中にイスラエルの背きが見いだされる。」とあるのは、その町からエジプトの異教の祭儀がエルサレムに持ち込まれるようになったからではと言うことです。
14節は、「それゆえ、モレシェト・ガトに離縁を言い渡せ」ですから、その地は預言者ミカの出身地で、離縁状を渡す相手が「シオンの娘」で、「贈り物」とは「手切れの品」と言うことです。
これは、ラキッシュが敵の手に奪われた後、その北東に位置しエルサレムにより近い町モレシェト・ガトが敵への贈り物とされるという意味ではと言われています。
そして「アクジブの家々は、水がなくて/人を欺く泉(アクザブ)となった。」は、アクジブとはモレシェト・ガトのすぐ東にある町で、「欺く」という意味があり、ますから、彼らの裏切りが示唆されているのでしょう。
15節は、「マレシャの住民よ、ついにわたしは/征服者をお前のもとに来させる。」は、「マレシャ」と「侵略者」は同じヘブル語の語根から生まれた言葉だそうです。
その町はモレシェト・ガトの少し南にあり、そこにイスラエルの神ご自身が「侵略者を・・送る」ということでしょう。
続いて、「イスラエルの栄光はアドラムに去る。」とありますが、「アドラム」とはダビデがそこの洞穴に隠れて多くの手下を集めて、ダビデ王国への道を進みだした栄光の町だそうです。
そこに、「イスラエルの栄光」である方が、侵略者と共に攻めてくるというのです。
●16節.お前の喜びであった子らのゆえに/髪の毛をそり落とせ。はげ鷹の頭のように大きなはげをつくれ/彼らがお前のもとから連れ去られたからだ。
ここは「シオンの娘」(神の都「エルサレム」の雅名(詩的用法))に対する語りかけで、「お前の喜びであった子らのゆえに/髪の毛をそり落とせ。はげ鷹の頭のように大きなはげをつくれ/彼らがお前のもとから連れ去られたからだ。」と記されています。
「髪の毛をそり落とせ。はげ鷹の頭のように大きなはげをつくれ」と言うのは、町々がことごとく倒されて、住民が捕らえ移される姿、その激しい嘆きと悲しみを表現しているのでしょう。
つまり、イスラエルでは「頭をそる」とは悲嘆を現す表現ですから、そこにはエルサレムの住民が捕囚としてバビロンに連れ去れることが預言されているのでしょう。
●2章1節.災いだ、寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。
「災いだ」の前に「ああ」という悲観の言葉が入るのでしょう。
この世において悪をなす者たちは、「寝床の上で悪をたくらみ」「夜明けとともに、彼らはそれを行う。」、すなわち、その地位と権力を利用して巧妙に私欲を満たそうとするのです。
冒頭のミカの嘆きの叫びは、それが神の民を指導する者たちがそうであったからでしょう。
●2節.彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する。
彼らは、「畑」とか「家々」とか「人々から嗣業」(相続地)を「貪欲」に「奪い」、「取り上げる」(ゆすり取る)のです。
既にある物だけでなく、貪欲で相続地まで取り上げようとしているのです。
嗣業、すなわち相続地は、イスラエルにとって特別なのです。
「相続地」とは、本来、主ご自身がくじを用いて、イスラエルの部族ごとに平等に「割り当て」、それを、「氏族ごと」に父の家の名と共に「相続地」として受け継がれるべきものなのです。(民数記26章52節から56節)
このように土地の究極の所有者は神ご自身ですから、彼らが土地を奪ったことは、神のものを奪ったことになるのです。
まさに神を恐れることのなくなった社会の姿です。
上に立つ者が暴力を用いなくても、合法的な手段にみせかけて収奪することは「朝飯前」です。
ミカは、そのような悪事を謀る者は、「寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。」(1節)と表現しているのでしょう。
欲しいと思うものじっくりとふところで温めておいて、計画的に実行に移す様子を表しているのでしょう。
●3節.それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしもこの輩に災いをたくらむ。お前たちは自分の首をそこから放しえず/もはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに災いのときである。」
「この輩」ですが、このような言い方は馴染めないので調べてみますと、厳密には「この氏族」、すなわち、それは土地の相続を考える際の家族のまとまりの単位だと言うことです。
こういう輩に主は「災いをたくらむ。」と言われていますから、ここは神の割り当て地を、別の氏族から奪い取った強い「氏族」の誇りに対する神の裁きと言うことでしょう。
●4節.その日、人々はお前たちに向かって/嘲りの歌をうたい/苦い嘆きの歌をうたって言う。「我らは打ちのめされた。主はわが民の土地を人手に渡される。どうして、それはわたしから取り去られ/我々の畑が背く者に分けられるのか。」
「見よ、わたしもこの輩に災いをたくらむ。」(3節)と主は言われます。
「その日、」には、「我らは打ちのめされた。主はわが民の土地を人手に渡される。
どうして、それはわたしから取り去られ/我々の畑が背く者に分けられるのか。」ですから、そうした私欲を満たそうとする「やから」に対して、主は主権をもって「わざわいを下そう」とされます。
ここでの「わざわい」とは、ユダの亡国の憂き目と捕囚される日のことでしょう。
「我らは打ちのめされた。主はわが民の土地を人手に渡される。どうして、それはわたしから取り去られ/我々の畑が背く者に分けられるのか。」は、かつて彼ら(イスラエル)に土地を奪われた人々の嘆きの声ですが、今度は、侵略者であるアッシリア人が、かつて土地を奪われた人の嘆きを真似て、イスラエルの権力者の嘆きを嘲笑しているのでしょう。
つまり、土地を力づくで奪った者は、力づくでその土地をまた奪われるということです。
●5節.それゆえ、主の集会で/お前のためにくじを投げ/縄を張って土地を分け与える者は/ひとりもいなくなる。
彼らの「貪欲」と「強奪」と言うか高ぶりと傲慢を、主がアッシリアを用いて、砕かれるのです。
その裁きは、アッシリアがやって来て、彼らの土地を奪うことです。
「それゆえ、主の集会で」ですから、やがて主がイスラエルのために割り当ての地(嗣業・相続地)を回復してくださるときのことが記されているのでしょう。
そのとき、「お前のためにくじを投げ/縄を張って土地を分け与える者は/ひとりもいなくなる。」とは、かつて力づくで相続地を奪った氏族は、土地の分配のくじ引きに参加できなくなるということでしょう。
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