指導者たちの罪(ミカ書を読む)3章
聖書箇所は、3章1節から12節です。
●1節.わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち/イスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。
●2節.善を憎み、悪を愛する者/人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。
「ヤコブの頭たち」ですから、イスラエルの指導者たちに対する神の言葉です。
1節から4節までが、指導者たちに対する言葉で、5節から8節が預言者たちに対する言葉です。
イスラエルの不正を糾弾する預言者ミカの言葉は、神に立てられて、正義を行うことが期待されている「ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たち」(1節)が、「善を憎み、悪を愛する者」となっているからです(2節)。
「正義」ですが、これは神の律法に基づく社会的な正義を示します。
正義とは、神の律法に基づき、善を行なう者に報いを与え、また悪を行なう者にもそれにふさわしい報いを与え、そのように正しい裁きをすることによって統治することです。
ところが、その彼らが自らの立場を使って、むしろ悪を行なっているという問題です。
神の民イスラエルの指導者ですから、指導者たちは正義を知っているはずなのに、本当の意味で、それを知り、味わい、行使しなかったことを糾弾しているのでしょう。
もちろん、北イスラエル王国でも南ユダ王国でも、その指導者たちに正義が見られないと言うことです。
●3節.彼らはわが民の肉を食らい/皮をはぎ取り、骨を解体して/鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。
●4節.今や、彼らが主に助けを叫び求めても/主は答えられない。そのとき、主は御顔を隠される/彼らの行いが悪いからである。
ものすごい描写です。
彼らが行っていたこと、その搾取は自分たちの権力を盾に「骨までしゃぶる」という類いのものでした。
というのは、彼らが自分の腹の満足のみを追い求め、その権力を笠に、いかに民を食い物にしているかということを、比喩的に表現したものでしょう。
主が求める「正義」とは、弱く貧しい人々の訴えを聞き入れ、力のない人々に特別の注意を払うことです。
しかし、エルサレムの指導者たちは、おのが役割をはき違えています。
彼らは主が求める正義とは正反対で、「善を憎み、悪を愛する者」(2節)で、「今や、彼らが主に助けを叫び求めても/主は答えられない。」(4節)とします。
主の彼らに対する報いは、彼らが「主に助けを叫び求め」たときに、それに答えないという報いです。
聖書では、上に立つ者は、主が立てられたので、彼らは神の公義の中で生きているはずです。
彼らはそれを忘れてしまっていたのです。
何でもできる力があるなら、その力を誰が自分に与えたかを知るべきであったのです。
その力は神から与えられたものと知り、神を恐れ敬って、神の御心に沿ってその力を用いる時に神の正しさ、神の支配が広がり、そこには平安が訪れるのです。
●5節.わが民を迷わす預言者たちに対して/主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は/平和を告げるが/その口に何も与えない人には/戦争を宣言する。
主は預言者たちについて、「歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には、戦争を宣言する」(5節)と言います。
預言者が、神の言葉を取り次ぐのに袖の下を要求しているのでしょう。
11節にも同じような言葉があります。
「預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか。災いが我々に及ぶことはない』と」です。
預言者が金をとって神の言葉ワイロで裁きを曲げ、貧しい者から搾取したものを神に献げながら、なお神の保護を確信するという、彼らの厚顔無恥ぶりを言い表しています。
●6節.それゆえ、お前たちには夜が臨んでも/幻はなく/暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。
●7節.先見者はうろたえ/託宣を告げる者は恥をかき/皆、口ひげを覆う。神が答えられないからだ。
金を取って託宣を告げる預言者への主の報いとして、「彼らが主に助けを叫び求めても/主は答えられない。」(4節)報いを受けるのですが、6節では、さらに「幻はなく/暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。」ことです。
これでは、預言者が人々に求められているとき、人々が本当に光を必要としている時に、何の役にも立ちません。
「太陽が沈んで昼も暗くなる」(6節)とは、彼らの行う占いや呪いが意味をなさない空しいものとなるということでしょう。
「皆、口ひげを覆う。神が答えられないからだ。」と言うのは、金銭の損得で神の言葉を変える預言者の姿をいっているのでしょう。
自分に何かをくれる者に対しては平和や祝福を祈りますが、何もくれない者は汚れたものとみなすと言うことでしょうか。
「口ひげを覆う」というしぐさは、らい病人が、人々が自分に近づかないように、「わたしは汚れた者です。汚れた者です。」と叫ぶ時にするしぐさです(レビ13:45)。
●8節.しかし、わたしは力と主の霊/正義と勇気に満ち/ヤコブに咎を/イスラエルに罪を告げる。
主が、自分自身のことを宣言しています。
主が偽預言者に「彼らが主に助けを叫び求めても/主は答えられない。」と言う方法で報われたので、偽預言者の伝えている神は無力な神となっています。
しかし、まことの預言者には、「力と主の霊/正義と勇気に満ち」がありあります。
そして「公義」(正義)と勇気があります。
主が共におられる預言者の言葉は、人々の必要や要求に合わせるのではなく、神の義に合わせるのです。それが彼らの耳を楽しませなくても、語るのです。
その言葉に人々が反発、あるいは、迫害するかもしれませんが、人への恐れを乗り越えて語り告げる勇気があるのです。
●9節.聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち/イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ
●10節.流血をもってシオンを/不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。
●11節.頭たちは賄賂を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。
「主が我らの中におられるではないか/災いが我々に及ぶことはない」と。
「ヤコブの家の頭たち」(イスラエルの指導者)は、本来ならヤコブの家イスラエルに神が王として君臨されており、その正義が広げられなければいけないのに、「シオン」(ヤコブの家イスラエル)において、彼らは不正を行なっていました。
指導者たちは、「賄賂を取って裁判をし」ですから不正が行われます。
祭司たちは、「代価を取って教え」ですから、祭司職で商売をしていたのです。
また、預言者たちは、「金を取って託宣を告げ」ですから、祭司と同じように、神の言葉を商売の道具としていたのです。
そして、傲慢にも「しかも主を頼りにして言う。「主が我らの中におられるではないか/災いが我々に及ぶことはない」と。」言っていたのです。
「預言者が金をとって」神の言葉を告げ、ワイロで裁きを曲げ、貧しい者から搾取したものを神に献げながら、なお神の保護を確信するという、彼らの厚顔無恥ぶりを言い表しています。
●12節.それゆえ、お前たちのゆえに/シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。
それゆえ、主は「お前たちのゆえに/シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。」と言われる。
紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルのサマリヤが崩壊し、南ユダ(エルサレム)も同じように単なる畑のようになり、廃墟となるという宣言でしょう。
当時のいきさつは、ユダの王アハズの時代に、当時台頭して来たアッシリアの勢力に対して、中東の様々な国がその脅威に対して生き残りを図るべく、対策が迫られました。
そのような中で、南ユダの王アハズは神に聞くことなく、脅威に負けて親アッシリア政策を選択しましたので、いったんは、サマリヤは崩壊から逃れます。
その結果として、他の国々と同様の支配構造(偶像礼拝)がもたらされ、その一面が、指導者たちが自分たちの利得のために民たちを搾取するという構造であったのです。
そのため、神は預言者ミカを通して、彼らのそむきの罪を告発し、やがて彼らの罪のために、シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟の山と化すということを警告したのでしょう。
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