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2022年5月11日 (水)

主の慈しみ(ヨエル書を読む)(2章)

聖書箇所は、2章12節から27節です。
●12節.主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。
●13節.衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。

 

艱難時代の到来と裁きの預言から一転して、悔い改めの呼びかけです。
「主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。」「断食し、泣き悲しんで。」「今こそ心からわたしに立ち返れ」です。

 

これは、到来が告げ知らされ、裁きに備えるようにと角笛が吹き鳴らされたときに、イスラエルの民がすべきことです。
最初にすべきことは、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」です。

 

「立ち帰る」とは、方向を変えること、神に向かって歩き始めることです。
まっすぐに神の言葉を聴くことです。
「断食し、泣き悲しんで」ですが、「断食し、泣き悲しむ」のは、罪の悔い改めを表明することですから、神に背いた罪を悔いて、神に向かって歩み出せ、神の御言葉に聴き従えと言われているのです。

 

そして、13節の「お前たちの心を引き裂け。」です。
衣を裂くのは、悲しみ、嘆きの表現ですが、神が望んでおられるのは、外側に見える形で表現されることではなく、むしろ、「心を引き裂く」こと、つまり、根本的に心を造り替えることです。

 

 

ヨエルはここに、心から主に立ち帰ることこそ、私たちの救われる唯一の道だと語っているのです。
神が私たちを「主に立ち帰れ」と招かれるのは、私たちの側に救われる根拠や資格などがあるからではなく、13節にあるように「主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるから」です。

 

●14節.あるいは、主が思い直され/その後に祝福を残し/あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を/残してくださるかもしれない。

 

「あるいは」と言うのは、悔い改めの機会が今もなお与えられていることを強調しているのでしょう。
とすると、このようになるのですね。
①「わたしに返れ」(12節)・・主ご自身の呼びかけ

 

②「主に立ち返れ」(13節)・・預言者の呼びかけ
③もしこの呼びかけに応えるならば、主ご自身も「思い直してくださる」かもしれない(14節)。

 

主に立ち返るのは、「着物ではなく、心を引き裂け」とあるように、外面的なことではなく、内面的でなければなりません。
さらに重要なことは、「罪を悔い改めて」ではなく「わたしに立ち返れ」と呼びかけられているということです。
問題は、主に立ち返るにしても、主の助け(御霊の働き)が必要だと言うことです。

 

●15節.シオンで角笛を吹き/断食を布告し、聖会を召集せよ。

 

再び、「角笛」を吹き鳴らす集会を呼びかけておられます。

 

●16節.民を呼び集め、会衆を聖別し/長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め/花婿を控えの間から/花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。

 

「民を呼び集め、会衆を聖別し・・」と全員集合を呼び掛けています。
幼子とか新婚夫婦も呼び出せと命じられています。

 

●17節.祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き/主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず/国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」

 

祭祀の祈っている場所が「神殿の入り口と祭壇の間」で、祭壇とその奥にある聖所ではないのです。
と言うことは、祭祀は、聖所に参上する価値もない、ということを認識しているのです。

 

●18節.そのとき/主は御自分の国を強く愛し/その民を深く憐れまれた。

 

神の愛には、強い感情がこもっています。
神の愛は、わたしたちを憐れみ、私たちを懲らしめて、そして何とかして私たちが主に立ち返らせようとされているのです。

 

●19節.主は答えて、その民に言われた。「見よ、わたしは穀物とぶどうとオリーブを/お前たちに送り、飽き足らせよう。お前たちが国々の中で恥を受けることを/わたしは二度と許さない
●20節.北たからくる者をお前たちから遠ざけ彼らを乾いた荒廃の地に追いやり先陣を東の海に、後陣を西の海に追い落とす。その臭気が上り悪臭が立ち込める。まことに、主は偉大な御業を成し遂げられた。

 

「北から来るもの」とありますが、エゼキエル書38章にはマゴグの地のゴグとあります。
ダニエル書12章には、世界に荒廃をもたらすところの忌むべき者、つまり反キリストです。

 

ヨハネの黙示録20章8節には、「地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。」とあります。

 

ある伝道者は、ロシアとかトルコだと言ってました。
その時に主が超自然的にご介入されます。

 

北からイスラエルを攻めてきたゴグとマゴグは、主の超自然的介入によりユダとエルサレム(イスラエル)には入ることはできないで、南の砂漠地方ネゲブに来るだけです。
そしてそこで倒れた死体はそこに積み上げられ、悪臭を放つのです。

 

●21節.大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。
●22節.野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり/木は実を結び/いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。
●23節.シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために/秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。

 

元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
主の大いなる介入により自然界は神の理想の姿に回復します。
罪のために敵に踏み荒らされたこのイスラエルの地が、元に戻るのです。

 

そのときシオン、つまりエルサレムの町にいる人々は、主の義による御業により、「神なる主によって喜び躍」るのです。
もちろん、彼らは物理的に救われただけでなく、霊的にも救われたのです。

 

このイスラエル救いの預言は、もちろん、「主の日」の到来による全人類の救いにもつながるのです。
それはまさしく、主が再びお戻りになられるとき(キリストの再臨)です。
それでは、「秋の雨と春の雨」とはどういうことでしょうか。

 

調べてみますと、イスラエルの地に収穫をもたらすところの季節的な雨で、秋の収穫が終わった後に、土地に雨が降り、その水を含んだ土に種を蒔くことができます。これが「秋の雨」あるいは「初めの雨」です。
そして作物が育ち、三月、四月ごろに再び大きな雨が降ります。

 

この雨によって、作物は勢いずき、一気に花を咲かせ、実を結ばせます。
これが「春の雨」あるいは「後の雨」と言うことです。
そして五月からイスラエルは乾季に入ります。

 

●24節.麦打ち場は穀物に満ち/搾り場は新しい酒と油に溢れる。
●25節.わたしがお前たちに送った大軍/すなわち、かみ食らういなご/移住するいなご、若いいなご/食い荒らすいなごの/食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
●26節.お前たちは豊かに食べて飽き足り/驚くべきことを/お前たちのために成し遂げられた主/お前たちの神なる主の御名を/ほめたたえるであろう。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。

 

主は、私たちが罪で失ったものを恵みによって回復してくださるのです。

 

●27節.イスラエルのうちにわたしがいることを/お前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。
「わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。」と言われています。

 

主がこれだけ明確に言っておられるのですから、イスラエルは二度と恥を見ることはないのです。
イスラエルの主の救いについて振り返りますと、1節の「シオンで角笛を吹き、」の角笛で、「主の日」の到来に備えてよと告げ知らされるのです。

 

「主の日」とは、「恐るべき日」、「全能者による破滅の日」(1章15節)です。
11節にも、「主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう」とあります。
本来、主なる神の訪れは、イスラエル(全人類も同じ)にとって救いの完成を意味したはずですが、神に背いて罪を重ねた結果、その日は、恐るべき裁きの日、刑罰の下る日となったわけです。

 

このように、イスラエルの裁きと救いは全人類の裁きと救いで、同じなのです。
主の日の到来が告げ知らされ、裁きに備えるようにと角笛が吹き鳴らされたとき、イスラエルの民(その時にこの地上に生きている全人類)のすべきことは、12節から15節に記されています。

 

 

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