主の怒りの日(ヨエル書を読む)(2章)
聖書箇所は、2章1節から11節です。
●1節.シオンで角笛を吹き/わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
さて、いよいよ実際の預言が始まります。
「シオンで角笛を吹き」とありますが、侵略者との戦いに出る場合にラッパを短く吹き鳴らします。すなわち、「主の日が来る」ことの警告のためです。
その日が「闇と暗黒の日」「雲と濃霧の日」となるからです。
なお、ヨエルは、「主の日が来る」と言っていますが、それはヨハネの黙示録で言っている「第一の災い」を指すのでしょう。
「角笛」は、敵の侵入の警報として(エレミヤ書4章5節)、また、戦いに備えるために吹き鳴らされます(士師記3章27節)。
●2節.それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が/山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく/これから後も、代々再び起こることはない。
●3節.彼らの行く手を、火が焼き尽くし/彼らの後ろには燃える炎が続く。彼らの来る前、この国はエデンの園のようであった。彼らの去った後には、滅びの荒れ野が残る。何ものもこれを逃れえない。
いなごの襲来のように、終わりの日には「強大で数多い民が/山々に広がる曙の光のように襲ってくる。」とあります。
「山々に広がる暁の光」とありますが、山から朝日が昇るときに、一気に山全体に光が広が光景を言っているのでしょう。
同じように、民とありますが、軍隊とも言えますが、この民は見る見るうちにイスラエルに広がって、そして一気にすべてを覆うのです。
そして、「彼らの去った後には、滅びの荒れ野が残る。」のです。
●4節.その姿は馬のようで/軍馬のように駆ける。
●5節.戦車のような響きをたてて山の頂を駆け巡り/わらを焼く炎のような音をたてる。これは戦いの備えをした強大な民の姿だ。
大群のいなごのように一気に襲ってきた民を、「馬のよう」「軍馬のよう」「洗車のよう」だと言っていますが、馬だ、軍馬だ、戦車だとは言っていません。
つまり、軍隊のようであるが軍隊ではないのです。
●6節.その前に、諸国の民はもだえ/どの顔も色を失う。
●7節.彼らは勇士のように走り/戦士のように城壁をよじ登る。おのおの自分の道を進み/進路を外れることはない。
●8節.互いに押し合うことなく/自分の前に敷かれた大路を進む。たとえ投げ槍の間に突進しても/ひるむことはない。
●9節.町の中を駆け巡り/城壁の上を走り/家々によじ登り/盗人のように窓から入り込む。
この民は、「おのおの自分の道を進み/進路を外れることはない。」ですから、一糸乱れず、どんな妨害が入ってもひるむことなく前進し続けるのです。
そして、「町の中を駆け巡り/城壁の上を走り/家々によじ登り/盗人のように窓から入り込む。」のです。
●10節.その前に、地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う。
●11節.主はその軍勢の前で声をとどろかされる。その陣営は甚だ大きく/御言葉を実現される方は力強い。主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。
このように襲ってくる軍隊のような民の背後には悪魔(悪霊)の働きを見ます。
なぜならば11節で、「主はその軍勢の前で声をとどろかされる・・御言葉を実現される方は力強い。」とあるから、これらの悪霊どもの力が「主ご自身」からきているのです。
そう、主の日は主ご自身が計画されて起こされた事態なのです。
といっても、主が悪を生み出した、ということではなく、神がすべてのことを掌握されていて、悪魔そして悪霊どもをさえ掌握されていて、今、地上に下す裁きのために彼らを利用するために、彼らのなすが儘に任せておられる、ということです。
「主の日」とは、「恐るべき日」、「全能者による破滅の日」(1章15節)です。11節にも、「主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう」とあります。本来、主なる神の訪れは、イスラエルにとって救いの完成を意味したはずですが、神に背いて罪を重ねた結果、その日は、恐るべき裁きの日、刑罰の下る日となったわけです。
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