ソロモンの箴言(補遺)(26章)
聖書の箇所は、26章1節から28節です。
●1節.夏の雪、刈り入れ時の雨のように/愚か者に名誉はふさわしくない。
新改訳は、「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ。」です。
神から受ける誉が愚かな者にふさわしくないのは、夏に雪が降り、刈入れの時に雨が降るようなものだ、と言っています。
要するに、神から受ける誉は愚かな者は受けられないのです。
●2節.鳥は渡って行くもの、つばめは飛び去るもの。理由のない呪いが襲うことはない。
新改訳は、「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」です。
「いわれのないのろいはやって来ない。」と書いています。
スズメは近づくとすぐに飛び去ってしまいますが、同じようにいわれのない呪いというのは、やってこないのです。
同じように、不幸が襲ってきてもそれが神の御心ならば、誰が避けることが出来ようか。
●3節.馬に鞭、ろばにくつわ/愚か者の背には杖。
新改訳は、「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。」です。
要するに愚かな者の背にはさばきの鉄の杖があるのです。
知恵と知識は求めることをしない人には与えられないのでしょう。
そして知恵と知識がなければ、どんなに言葉で戒めても、その心は変えられないのでしょう。
したがって知恵と知識のない愚かな者には鞭が与えられます。だから、私たちを変えるのは、知恵のある叱責の言葉か、あるいは鞭かのどちらかとなります。
●4節.愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな/あなたが彼に似た者とならぬために。
新改訳は、「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。」です。
愚かな者にその愚かさにしたがって答えるな。愚かな者は、言い逆らうことばかりを考えるので、自分も彼と同じようにならないためだ、でしょう。
「愚かさにしたがって答えるな」という戒めは、相手が怒って話しているときに、自分も同じように怒って対応するなど、話している内容よりもその話し方にある愚かさのことを言っているのでしょう。
●5節.愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者だと思い込まぬために。
新改訳は、「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。」です。
愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよですから、愚かな者の言葉の意味をよく考えて相手に合わせて答えなさいでしょう。
それは、彼が自分を知恵ある者と錯覚しないためなのです。
即ち、いかに自分は愚かなことを言っているのだろうと悟ることができる形で答えるのです。
●6節.愚か者に物事を託して送る者は/足を切られ、不法を呑み込まされる。
新改訳は、「愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。」です。
愚かな者に物事を託すものは、自分の足を切り、身に害をうける。
それだけ、愚かなる者は聞く耳をもたないのです。
愚かな者に任せたら自分の身に害を受けることになります。
●7節.愚か者の口にすることわざは/歩けない人の弱い足。
新改訳は、「愚かな者が口にする箴言は、足なえの垂れ下がった足のようだ。」です。
6節で、愚かな者に任せたら自分の身に害を受けることになるとありますが、愚かなる者が口にする箴言も、「足なえの垂れ下がった足」ですから、何の事だか分らないと言うことでしょう。
●8節.愚か者に名誉を与えるのは/石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。
新改訳は、「愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ。」です。
愚か者に名誉を与えても、何の役に立たない、ということでしょう。
●9節.愚か者の口にすることわざは/酔っぱらいの手に刺さるとげ。
新改訳は、「愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ。」です。
愚かな者が口にする箴言は、酒を飲み、酔った者が、とげのあるつえを手で振り上げるようだ。すなわち、それだけどうにもならないという意味なのでしょう。
●10節.愚か者を雇い、通りすがりの人を雇うのは/射手が何でもかまわず射抜くようなものだ。
新改訳は、「愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ。」です。
通りがかりの愚か者や、酔った者を雇う者は、すべての人を傷つける射手のようだ、すなわち、そういう者を雇うのは、役に立たないばかりか、周りの者に害を及ぼすことになりかねない。
●11節.犬が自分の吐いたものに戻るように/愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
新改訳は、「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。」です。
愚かなる者は、いつまでも愚かなる行動を繰り返す。自分でもどうにもならないのです。悔い改めることをしないので、愚かなことを繰り返すのです。
この諺は、ペトロも第二ペテロ2章22節で引用しています。
そういう愚か者は、下手に何が正しいかなど知らない方が良いのです。
●12節.自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。
新改訳は、「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」です。
自分が自らを知恵ある者とする人を、見ただろう。彼よりもかえって何も知らない愚かな人に望みがある、でしょう。
自分は罪人だ、愚かだ、と悟ったときに、義と認められ、知恵が与えられるのでしょう。
●13節.怠け者は言う/「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。
新改訳は、「なまけ者は「道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる。」と言う。」です。
なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」というで終わっていますが、とにかくいろいろな理由を言って、何もしない人のことを言っているのでしょう。
●14節.扉はちょうつがいに乗って回転する。怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。
新改訳は、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。」です。
なまけ者は寝てばかりいて、寝返りばかりを打っているが、その姿は、戸がちょうつがいで回転するのと良く似ていると言うことでしょう。
●15節.怠け者は鉢に手を突っ込むが/口にその手を返すことをおっくうがる。
新改訳は、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう。」です。
要するに、食欲よりも怠け心が勝っているのです。
●16節.怠け者は自分を賢者だと思い込む/聡明な答えのできる人七人にもまさって。
新改訳は、「なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。」です。
愚か者と同じで、自分は知っていると思っているのでしょうから、始末が悪い。
●17節.通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは/犬の耳をつかむようなものだ。
新改訳は、「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。」です。
余計な言葉を聞かなければならないというだけでなく、争いは当事者間で解決すべきものですが、それに関わることの愚かさを語っているのでしょう。
他の人の事柄に自分も関わって干渉するのは、周りを引っ掻き回すことになります。
●18節.分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。
新改訳は、「気違いは、燃え木を死の矢として投げるが、」です。
●19節.友人を欺く者はそれに等しい。しかも、「ふざけただけではないか」と言う。
新改訳は、「隣人を欺きながら、「ただ、戯れただけではないか。」と言う者も、それと同じだ。」です。
気が狂ったものは、燃え木を死の矢として投げつけるが、戯れて隣り人を欺く者は、それに等しい。
要するに、愚かさに狂気が増すことを言い、自分は人に傷つけているという自覚がないので、「ただ、戯れただけでないか。」と返答するのです。
●20節.木がなければ火は消える。陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる。
新改訳は、「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」です。
火を燃やす材料がなければ火は消えてしまうのと同じで、人のよしあしを言う者がなければ争いはない。
要するに中傷がなければ、傷を受ける争いも止むのです。
●21節.炎には炭、火には木/争いを燃え上がらせるのはいさかい好きな者。
新改訳は、「おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。」です。
争いの好きな人は、いさかいをあおるのが好きです。常に争いの火種を作ります。
●22節.陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。
新改訳は、「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」です。
人のよしあしをいう者の言葉は、おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。
されど、その言葉が災いを呼び込むとは考えないのです。
なぜ煽る言葉を語るのか、なぜ陰口をたたくのか。それは面白いからです。
なぜ面白いかは、それは他人事だからで、そういうことは腹の奥に下っていくようなおいしさ(楽しさ)を感じるのです。
●23節.唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は/混じりもののある銀で覆った土器のよう。
新改訳は、「燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。」です。
「燃えるくちびる」は、熱心に語っている姿を表しているのでしょう。
「心が悪い」ですから、その中に、悪い心も見え隠れすることがあります。
それは、人に対する憎しみや怒りであったり、ねたみであったりで、単なる情熱ではないのです。
●24節.唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は/腹に欺きを蔵している。
新改訳は、「憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。」です。
要するに、くちびるはなめらかであっても、心が悪いと上ぐすりをかけた土の器のようだと言うことでしょう。
要するに、憎む者はくちびるをもって自ら飾るけれども、心のうちには偽りをいだきます。
●25節.上品な声を出すからといって信用するな/心には七つの忌むべきことを持っている。
新改訳は、「声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。」です。
「声を和らげて」は、一見穏やかに語っているようで、実は無神経に人の心をずたずたにする人がいます。
声を和らげると言うごまかしは、心の中に悪意があるからそうするのです。
「七つの忌み嫌われるもの」は、6章17節から19節にある言葉で、「驕り高ぶる目、うそをつく舌/罪もない人の血を流す手、悪だくみを耕す心、悪事へと急いで走る足、欺いて発言する者、うそをつく証人/兄弟の間にいさかいを起こさせる者。」です。
●26節.憎しみはごまかし隠しても/その悪は会衆の中で露見する。
新改訳は、「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。」です。
声を和らげるとかでうまくごまかし隠せても集会の中で語ると、人々はそれを感じることができる(その声の調子が、周りの雰囲気と違うものです)ので、ごまかしていることが露見します。隠れているものは、露になるのです。
自分の心の状態は、いくら隠しても表に出てくることの格言です。
●27節.穴を掘る者は自分がそこに落ち/石を転がせばその石は自分に返ってくる。
新改訳は、「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。」です。
穴を掘る者は自らその中に陥り、その罰が自らの上に臨むのです。
要するに、陰口やごまかしは自分の身にその災いがふりかかると言うことでしょう。
●28節.うそをつく舌は憎んで人を砕き/滑らかな舌はつまずきを作る。
新改訳は、「偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。」です。
偽りの舌は本当のことを憎み、へつらう口は滅びを招きだけです。
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