ソロモンの箴言(補遺)(29章)
聖書の箇所は、29章1節から27節です。
●1節.懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない。
新改訳は、「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない。」です。
「うなじのこわい者」ですが、頑固な者を意味するそうです。
何度叱られても、なおかつ頑なに愚かなことをするから、悔い改めることがないので、矯正することはできない、と言うことでしょう。
そのさばきの時の結末です。
神の数々の警告に耳を傾けなかったら、残っているのは滅びるだけです。
●2節.神に従う人が大いになると民は喜び/神に逆らう人が支配すると民は嘆く。
新改訳は、「正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。」です。
28章28節と同じですね。正しい者が権力を得れば民は喜ぶが、悪者が権力を得ると民はうめき苦しむのです。
指導者には、正しくあって欲しいと国民は願いますが、実際に正しい人、人間的に尊敬しうる人が指導者になるわけではありません。
4節にあるように、正しい人は残され、不正や金によって動く指導者は、いずれ失脚していくと思うものです。そう、歴史には、自らに修復機能があると思うのですが、いかがでしょうか。
●3節.知恵を愛する人は父を喜ばせる。遊女を友とする者は財産を失う。
新改訳は、「知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。」です。
知恵を愛する人は、その作り主である父なる神を喜ばせ、遊女と交わる者は、その資産を浪費する。
まさに実感です。
●4節.王が正しい裁きによって国を安定させても/貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。
新改訳は、「王は正義によって国を建てる。しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。」です。
支配者が、重税を取り立てるようになれば国がおかしくなります。
指導者には、正しくあって欲しい、これは国民が願うことですが、実際に正しい人、人間的に尊敬しうる人が指導者になるわけではありません。
期待通りの人がトップに立ってくれるとは限らないのですが、2節にも書いたように、歴史には、自らに修復機能があると私は信じるのです。
●5節.友にへつらう者は/彼の一歩一歩に網を仕掛ける者。
新改訳は、「自分の友人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。」です。
「へつらう者」は、相手を欺くために、なめらかな言葉を使う者のことを言っているのでしょう。
そのようなことを行なえば自分自身が罠に陥ることになります。そのことを、「自分足元に網を張る」と表現しています。
●6節.悪を行う者は罪の罠にかかる。神に従う人は喜びの叫びをあげる。
新改訳は、「悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。」です。
表現を変えてみますと、罪には罠がある、なぜならば、罪ははかない楽しみであって、真の満足をもたらすものではない。悪人は自ら滅んでいくものです。
しかし、正しさは、永遠に残る神の性質であるから、永続的な喜びをもたらします。
正しい人に約束されているのは、世のわずらわしさから解放されることによる喜びと楽しみです。
●7節.神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。
新改訳は、「正しい人は寄るベのない者を正しくさばくことを知っている。しかし悪者はそのような知識をわきまえない。」です。
正しい人は貧しい者の訴えをかえりみますが、悪者はそれを知ろうとはしない。
いや、悪者は、その重要なる意味を理解することができないのです。
なぜ弱い人、貧しい人を助けなければいけないのか、何の得にもならないではないか、という疑問を抱くからです。
けれども、正しい人は貧しい人を助けること神の御心だと知っていますから、弱い立場にある貧しい者を、正しく裁く(助ける)心遣いがあるのです。
神は貧しき者の神であり、これをないがしろにされないからです。
●8節.不遜な者らが町に騒動を起こす。知恵ある人々は怒りを静める。
新改訳は、「あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。」です。
あざける人は町を乱し、知恵ある者はその怒りを静めます。
知恵はいつも平和へと導きますから、争いの場で知恵のある言葉を語ることによって、怒りを鎮めその対立を解消させるのです。
知恵ある正しい人は、弱い立場にある貧しい者を、正しく裁く心遣いがありますから、物事を丸く収めることを知っていますが、悪者はそのような心遣いを持ち合わせていませんので、かき回すだけだと言っているのでしょう。
●9節.知恵ある人が無知な者と裁きの座で対すると/無知な者は怒り、嘲笑い、静まることがない。
新改訳は、「知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。」です。
知恵ある人が、愚かな者と争うと、愚かな者はただ怒り、あるいは笑って、休むことがない。また、正しい人がこのもめ事を制止する事が出来るとは限りません。
●10節.無垢な人を憎み、その血を流そうとする者がある。正しい人々はその命を助けようとする。
新改訳は、「血に飢えた者たちは潔白な人を憎み、正直な人のいのちをねらう。」です。
正しい人は「血に飢えた者たち」とは、戦うだけ無駄と言うことでしょう。
なぜならば、この世界は悪魔が支配している罪の世界ですから、不正とあざけりの中に、正しい者を飲み込んでしまうこともあるからです。
9節と同じで、悪者は自分の悪事が明らかにされると、徹底的にその人を攻撃します。そうするしか自分を守る手段がないからでしょう。
血に飢えている人は罪のない者を憎み命までもとめます。
●11節.愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。
新改訳は、「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。」です。
愚かな者は怒りをことごとく表し、知恵ある者は静かにこれをおさえます。
腹が立てば怒りをぶちまけて、言いたいことを言って解消したほうがいい、という言葉もありますが、怒りをぶちまけても何もいいことはないと思うのです。
聖書の教えは、自制することだと思います。
●12節.支配者が偽りの言葉に耳を貸すなら/仕える人は皆、逆らう者となる。
新改訳は、「支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。」です。
原因は支配者の偽りの言葉にあるのですね。
偽りの言葉に耳を貸せば、その被害は自分だけに収まらず、自分の支配の下にいる人々がみな悪者になってしまいます。
偽りの言葉に耳を貸すのも、悪に染まりやすい人ですから、類は友を呼ぶと言う言葉通り指導者が悪者であれば、そこには悪者が集まってくると言うことでしょう。
●13節.貧しい人と虐げる者とが出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる。
新改訳は、「貧しい者としいたげる者とは互いに出会う。主は、この両者に日の光を見させる。
貧しい者と、しえたげる者とは共に世にいますが、主は彼ら両者の目に光を与えられます。
神は、人を完全に平等に扱われていますので、一人ひとりが、神に対して、罪を悔い改めて、個人的に申し開きをしなければいけないのです。
●14節.弱い人にも忠実な裁きをする王。その王座はとこしえに堅く立つ。
新改訳は、「誠実をもって寄るベのない者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。」です。
もし王が貧しい者を公平にさばくならば、その王座はいつまでも堅く立つのです。
王が最初にやるべきことは、貧しい人への配慮です。
それが出来る王は、神の御心を思う力のある指導者ですから、決して神の祝福から漏れることはないのです。
●15節.懲らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる。
新改訳は、「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」です。
箴言には躾は大切だと教えていますが、それをしなかったらどうなるかについて、ここに書いてあります。
「わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」ですから、わがままな子によって被害を受けるのは、父よりも母なのです。
母は、わがままな子と毎日、顔を合わせているからなのでしょうか。
●16節.神に逆らう者が多くなると罪も増す。神に従う人は彼らの滅びるさまを見るであろう。
新改訳は、「悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。」です。
悪者が増えるとこの世に罪も増す、正しい者は彼らの倒れるのを見る。
それは神が裁かれるからと言うことでしょう。
悪者たちの組織がいつまでも立ちゆくことはない。必ず神の裁きによって、清算されるのです。
●17節.あなたの子を諭すなら、安心していられる。彼はあなたの魂に楽しみを与える。
新改訳は、「あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。」です。
「あなたの子を諭すなら」とありますから、親は、子供をしつけるのには神経を使います。
できるなら、そのまま、放置しておこうとも思いますが、それは一時しのぎのことなんだよ、と箴言は教えます。
しつけは、その子のためだけでなく、自分に平安と喜びをもたらすものでもあるのだよ、と教えているのです。
ここで箴言におけるこの躾について解説を読み考えてみます。
箴言では、神のご計画の中で子供のしつけと「家庭教育」とか「信仰継承」が考えられているのではと思うのです。
箴言は、子に対する教育は一貫して、愛を前提にして子を訓練する(懲らしめ、叱責し、諭す)ことです。神がイスラエルの民を育てるためになされた方法と同じです。
子供の躾如何により、神の心を悟ることのできる者と出来ない者が生まれます。
神の心を悟ることのできない幼い時から甘やかされた愚かな者は、怒りやすくなり、ついには手におえない者になる、と教えます。
「あなたの子を懲らせ。」ですが、あなたの子の「子」は単数形で、「懲らせ」は、命令形だと言うことです。
命令形は「懲らしめる、しつける、訓練する、指図する、たしなめる、教える」といった意味だそうです。
「彼はあなたを安らかにし」の原語は使役形で、「安らかにする、安息を与える、憩わせる」とか、「置く、安置する、据える」の意味で使われているそうです。
「喜びを与える。」の「喜び」は、複数形で、この語彙の動詞は「ほしいままに楽しむ」という意味だそうです。そしてその名詞が「エデン」で、「贅沢極まりないほどの楽しさ」を意味するそうです。
ということで、このように厳しい訓練を通して知恵を得、知恵を愛する者に育った子は、まさにエデンの喜び、エデンの楽しさを父や母に味合わわせる者となるのです。
なお、この躾と信仰の継承は、「千年王国」においてまでで、それはそこにはまだ肉体と言う朽ちるからだをもち、結婚もし、子孫を与えられる者たちがいるからです。
すでに朽ちないからだを与えられている者たちにはこの課題はありません。さらに、永遠の御国である「新しいエルサレム」においてはこの課題そのものはないと言うことです。
●18節.幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。
新改訳は、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」です。
幻がなければ民はわがままにふるまうことになる、幻により、その記された意味が起きている事実を知れば、考えるものです。
しかし律法を守る者は幸いです。
「幻がなければ」の幻は、主の言葉、すなわち預言であって、主が指導者にこれから行く先はいったい何なのかを教えます。
指導者にはそれは必ず必要だと言うことです。
幻は、御言葉(聖書の言葉)の中から出てくるものだと思います。
要するに、「神のことば」がなければ、人は好き勝手に振る舞うという意味でしょう。
「しかし律法を守る者は幸い」と言うのは、神の戒めを守る者は、幸いを得ると言うことで、これは神の約束です。
ただ神の与えられる幸いは、この世の幸いであるとは限りません。
神のみ言葉沿って物事を見通していけば、そこには一時の満足に勝る幸いがあることもわかるし、泰然自若としてその時を過ごすこともできます。
悪者が支配する時代にあっても、神と共にいれば希望をつなぐこともできます。
大切なのは、神のことばに沿って、民を訓練する指導者が現れることなのです。
●19節.僕を言葉で諭すことはできない。理解したとしても、答えないであろう。
新改訳は、「しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。」です。
「しもべ」は、言葉だけで訓練することはできない、戒めがあって初めて効果があるのです。
もし、戒めがなければ、彼はその意味が解っても心にとめないからです。
神の言葉は語って聞かせるだけではだめなのです。
言葉だけでなく、自ら範を示し、神の言葉を食むように語り聞かせ養育する努力、
そういう努力を惜しまない指導者が必要なのです(17、19、21節)。
怒りやすさを捨て(22節)、高ぶりを捨て(23節)、不正を捨て(24節)、ただ神を恐れ(25、26節)、不正な者と正しい者は交わることがない(27節)、こうした生き方、すなわち、神に従うはっきりとした模範を示す中で、神の言葉も伝えられていくのであって、その姿がまさしく神の側に生きる者だと言うことでしょう。
●20節.軽率に話す者を見たか。彼よりは愚か者にまだ望みがある。
新改訳は、「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」です。
言葉の軽はずみな者より、何も知らない愚かな者のほうに望みがあるのです。
愚かな者は、自分の愚かさを知らないから、望みがあるのです。
軽率な言葉を話す人は、知ったうえで話しているので、望みはないのです。
●21節.僕を幼いときから甘やかしていると/後には手のつけられないものになる。
新改訳は、「自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには彼は手におえない者になる。」です。
「しもべ」をその幼い時からわがままに育てる人は、それを自分のあとつぎにすることになり、ついにはその家を潰すことになります。
しっかりと子供を訓練と言うか、躾を施す必要性について説いています。
幼いときにこそ厳しくしなければいけない、というのが聖書の教えです。
●22節.怒りやすい人はいさかいを引き起こし/激しやすい人は多く罪を犯す。
新改訳は、「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。」です。
怒ることは勢いに任せるので、当然ですが、それだけに収まらず、他の罪も犯します。
●23節.驕る者は低くされ/心の低い人は誉れを受けるようになる。
新改訳は、「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」です。
自分を高める人は低くされ、自分を低くする者は高められる、というのは聖書全体の原則です。
「人の高ぶりはその人を低くし、」は、神の裁きの意味を知れば、高ぶりの愚かさを悟るので、自分の心を低くするので、神の誉れを受けます。
●24節.盗人にくみする者は自分の魂を憎む者/呪いが聞こえても黙っている。
新改訳は、「盗人にくみする者は自分自身を憎む者だ。彼はのろいを聞いても何も言わない。」です。
ここは法廷でのことでしょう。
英訳ですと、「彼は真実を宣誓するが、何も明らかにしない。」と言うことですから、自分も盗人のかどで捕まりますが、「自分自身を憎む」ですから、その意味がよく分かっているので、何を言われても黙っているしかないと言うことでしょう。
●25節.人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。
新改訳は「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」です。
人を恐れると、わなに陥る、しかし、主に信頼する者は災いを恐れる必要がないので安らかである。
「人を恐れる」ですから、人の目をいつも気にしていたら恐怖のわなにかかります。けれども「主に信頼する者は」その恐怖から守られます。
●26節.支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。
新改訳は、「支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」です。
支配者の顔色をうかがう者は多いが、しかし人の運命を定めるのは神なのです。。
25節と同じことを言っています。
自分を裁くのは神だと言うことを明確にしておくべきです。
神を恐れれば、人の恐れがなくなります。逆に人を恐れると、神への恐れを忘れてしまいます。
●27節.神に従う人は悪を行う者を憎む。神に逆らう者は正しく歩む人を憎む。
新改訳は、「不正な人は正しい人に忌みきらわれ、行ないの正しい人は悪者に忌みきらわれる。」です。
正しい人は不正を行う人に嫌われ、行いの正しい人は、悪者に嫌われます。
「不正な人と行いの正しい人」の両者を満足させることはできません。
満足させることが出来るのは、正しい人か悪者かのどちらかなのです。
世間一般には、何か善悪の判断を迫られる問題について、両者を満足させようとして、その中庸を取ろうと努力しますが、善悪の問題ならばその努力は無駄だと思うのです。
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