ソロモンの箴言(補遺)(27章)
聖書の箇所は、27章1節から27節です。
●1節.明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。
新改訳は、「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」です。
明日のことを誇ってはならない。なぜならば、わたしたちは一日のうちに何が起こるかを知らないから。
●2節.自分の口で自分をほめず、他人にほめてもらえ。自分の唇でではなく、異邦人にほめてもらえ。
新改訳は、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。」です。
要するに、己自ら誇る者は愚かだと言うことでしょう。それよりも他人がおのれの言葉の意味に自ら気がついて褒められた方がよいのです。
1節のこの2節も自慢というか、自分を誇ることについての戒めです。
ヤコブがヤコブの手紙4章14節で「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。」。
●3節.石は重く、砂も目方がかかる。無知な者が不機嫌なのはどちらよりも重い。
新改訳は、「石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。」です。
石は重く、砂も軽くはない、しかし「無知な者(愚か者)が不機嫌」なのはどちらよりも重い。なぜならば、愚か者の不機嫌は和らぐことがないから、でしょうか。
●4節.憤りは残忍、怒りは洪水。ねたみの前に誰が耐ええようか。
新改訳は、「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。」です。
憤りは残忍で、怒りはあふれ出るが、ねたみの前には、だれが立ちえよう。
誰も立つことができない。
妬みは、しつこく、相手を完全につぶすまで止むことはありません。時には、相手が死にまで追い込みます。
●5節.あらわな戒めは、隠された愛にまさる。
新改訳は、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」です。
あからさまに責める(戒める)のは、ひそかに愛するのにまさるのです。
人間関係が壊れるのを恐れて言うべきことを言わないでいることがありますが、愛する人への愛は、自分の損得を顧みずに、その相手のことを考えますから、それを乗り越えて、はっきりと言うべきことを言えるのです。
●6節.愛する人の与える傷は忠実さのしるし/憎む人は数多くの接吻を与える。
新改訳は、「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」です。
愛する者が傷つけるのは、真実からであり、憎む者が口づけするのは偽りからです。
憎む心があってもくちづけとか優しい言葉やそぶりは偽りでもできます。
愛する者の傷つける言葉には、注意すべきです。
●7節.飽き足りている人は蜂の巣の滴りも踏みつける。飢えている人には苦いものも甘い。
新改訳は、「飽き足りている者は蜂の巣の蜜も踏みつける。しかし飢えている者には苦い物もみな甘い。」です。
飽き足りている者は蜂蜜をも踏みつける、すなわち、その蜜のような言葉さえ、拒むのです。しかし飢えた者には苦い物でさえ、みな甘い。
なんでも豊かに与えられている時は、わたしたちは豊かに与えられていることに感謝する心を忘れてしまいます。
けれども、事欠いて飢えているときは、わずかな恵みにでも感謝することができます。
キリスト者は、すべて良いものは主から受けていることを信じます。そして、自分がどのようなもので、どこから出てきたのかを忘れません。
少しのことにも感謝する心を失いたくないものです。
●8節.鳥が巣から飛び去るように/人もその置かれたところから移って行く。
新改訳は、「自分の家を離れてさまよう人は、自分の巣を離れてさまよう鳥のようだ。」です。
家出をしてさまよう人は、巣を離れてさまよう鳥のようだでしょう。
要するに、何事も何が重要かを忘れては、意味がないのです。
●9節.香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。
新改訳、「香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。」です。
香油と香料は人の心を喜ばせるが、友人の慰めは、香油と香料と同じように心を喜ばせるが、魂をも力づけ、生きる力を与えます。
●10節.あなたの友人、父の友人を捨てるな。災いの日に、あなたの兄弟の家には行くな。近い隣人は遠い兄弟にまさる。
新改訳は、「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。」です。
大地震が起こった時の究極な言葉です。要するに、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさるのです。
近隣の人たちと平和を保ち、仲良くしていることの大切さが語られています。
●11節.わが子よ、知恵を得てわたしの心を楽しませよ。そうすれば/わたしを嘲る者に言葉を返すことができる。
新改訳は、「わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう。」です。
その聖書に記された隠された知恵の言葉を得て、わたしの心を喜ばせよ、そうすればわたしをそしる者に答えることができる。
要するに、子どもが親に従っているとき、人々はその親をそしることはできない、すなわち、子は親を映し出す鏡と言うことでしょう。
この箇所は、「家庭生活」の格言としてとらえられます。
父と子は一つの家の中で多くの時間を過ごすことになるため、必然的に子は親の価値観の影響を受けることになります。
子のふるまいを見るならば、その子の親がどんな親かを知ることができます。
●12節.思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。
新改訳は、「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。」です。
賢い者は災を見て自ら避けることができます。
思慮のない者は進んでいって、その口から出た言葉で罰をうけます。
賢い者は災を見て自ら避けることができるが、思慮のない者は進んでいって、その口から出た言葉で罰をうけるのです。
思慮のない者は、人間が持つ悪に対する好奇心に負けて、災いに触れたら大変なことになることをはっきり分かっているのに、それでも触れてみようとします。しかし賢い者(知恵は)はこれを避けようとします。
●13節.他国の者を保証する人からは着物を預かれ。他国の女を保証する人からは抵当を取れ。
新改訳は、「他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。」です。
連帯保証人になってしまったら、何とかして自分を救い出す方法を探りなさい、ということでしょう。
●14節.友人への祝福も、早朝に大声でするなら/それは呪いと見なされる。
新改訳は、「朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる。」です。
朝はやく起きて大声でもって、その隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう。
即ち、時宜をはずすと良いことも悪いことになると言うことです。
●15節.降りしきる雨の日に滴り続けるしずくと/いさかい好きな妻は似て新改訳は、「長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。」です。
雨の降る日に雨漏りの絶えないのと、争い好きな女とは同じだ、ですから、それだけ、止めることはできないと言うことでしょう。
●16節.彼女を制する者は風をも制する。彼は香油をその右の手の力と呼ぶ。
新改訳は、「その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる。」です。
15節から続いて、その女を制することが出来れば、「風を制し、右手に油をつかむ」ことが出来るですから、できないことが出来る、すなわち誰にもできないという意味でよう。
言い換えれば、風を制して、手で油をつかむことは、やろうとしても全然できないもどかしさを表しているのでしょう。
●17節.鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。
新改訳は、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」です。
鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。人はその友によって研がれる。
切磋琢磨の世界です。
●18節.いちじくの番人はいちじくを食べる。主人を守る者は名誉を得る。
新改訳は、「いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。」です。
いちじくの木を守る者はその実を食べる、主人の身を守る者は誉れを得る。
要するに、誰かを支え、支援することの大切さが書いてあるのでしょう。
●19節.水が顔を映すように、心は人を映す。
新改訳は、「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」です。
要するに、人の心というものは表情に表れると言うことでしょう。
●20節.陰府も滅びの国も飽き足りることがない。人間の目も飽き足りることがない。
新改訳は、「よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。」です。
「人の目」は、「人の欲望」のことでしょう。
陰府と滅びの淵は、底なしであり、飽くことなく人を吸い込みます。
人の欲望もこれと同じだと言うことでしょう。
●21節.銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。
新改訳は、「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。」です。
要するに、人々は神に「他人の称賛によって」試されているということでしょう。
人から称賛を受けたときは、その称賛を自分の手柄のように受け止めれば、私たちは危険です。
●22節.無知な者を臼に入れて/穀物と共に杵でついても/無知は彼を去らない。
新改訳は、「愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。」です。
それだけ、愚かなる者は、その愚かな行動をなかなかやめることが出来ないと言うことでしょう。
●23節.あなたの羊の様子をよく知っておけ。群れに心を向けよ。
新改訳は、「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。」です。
要するに何が確実なもので、何が大切なものかをいつも忘れてはいけないと言うことでしょう。
王であればそれは富であり、王位です。それらがなくなっても、羊(民)があります。
●24節.財産はとこしえに永らえるものではなく/冠も代々に伝わるものではない。
新改訳は、「富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ。」です。
富は永遠に続くものではなく、王冠も末代までも保たれるものではない。
この世の繁栄のはかなさを語っているのでしょう。
「富」も、「王冠」に象徴される権力も同じです。
この世では有効な手段ですが、だからこそ神を忘れさせる契機になってしまいます。
ですから本当に大切なのは、富や権力を手にすることよりも神との交わりを大切にし、それを深めることなのだと言うことでしょう。
●25節.草は刈り取られ、また青草が現れ/山々の牧草は集められる。
新改訳は、「草が刈り取られ、若草が現われ、山々の青草も集められると、」です。
何事にも言えますね。この世界の摂理です。
●26節.羊はあなたの着物となり/雄山羊は畑の代価となる。
新改訳は、「小羊はあなたに着物を着させ、やぎは畑の代価となる。」です。
●27節.雌山羊の乳はあなたのパン、一家のパンとなり/あなたに仕える少女らを養う。
新改訳は、「やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家族の食物となり、あなたの召使いの女たちを養う。」です。
ヤギは、食物になり、召使いにも食べさせることのできる食物になります。
ヤギは、衣料となり畑を買う価ともなります。
ということで、神の祝福とは、何よりも、働いたことが無駄になることがなく、労働が豊かな実を結ぶこととして描かれています。勤勉であることの奨励です。
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