ソロモンの箴言(補遺)(28章)
聖書の箇所は、28章1節から28節です。
●1節.神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。
新改訳は、「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。
神を知らない悪者は、何か悪いことをすると、ちょっとした物音でも、びくっとしておじけづきます。
自分が悪いことをしたことは分かっているので、いつか暴かれるのではないかと怖がっているのです。
一方、正しい人は創造主を知っている(具体的には、神の前で良心をきよく保っている)ので、その言葉に自信があるので大胆でいられ動じることがないので、若獅子のように「頼もしい」存在となることができるということでしょう。
●2節.反乱のときには国に首領となる者が多く出る。分別と知識のある人ひとりによって安定は続く。
新改訳は、「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。
しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する。」です。
「国にそむき(神に背く)があるときは、多くの首長たちがいる」とは、国全体が神に逆らい、神の示す善悪の基準がなくなると、首長の地位が不安定になり、家来が王に逆らうことも正当化され、その結果、続けざまに治める者が変わる(同時にではなく、続けざまにという意味)ことを言っているのでしょう。
例えば、北王国イスラエルには九つもの王朝が次々と生まれました。
それはクーデターによって古い王が廃され、新しい王が誕生したためでした。
一方、「しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」ですから、神を恐れる「ひとりの人」が首長に立てば、社会全体が安定し、国が長く保つのです。
●3節.貧しい者が弱者を搾取するのは/雨が洗い流してパンがなくなるようなものだ。
新改訳は、「寄るベのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。」です。
貧しい者をしえたげる貧しい人は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。
要するに、それだけ、貧しい者は苦境に立たされているのであるが、それをしえたげる貧しい人は、なおさらだと言うことでしょう。
貧しい人が、他の貧しい人に同情するとか哀れみを持つことが出来るかと言えば、一概に言えなくて、かえって暴虐をふるまうことが多いのです。
それが、貧しさの中で、心の中まで貧しくなっているからです。
●4節.教えを捨てる者は神に逆らう者を賛美し/教えを守る者は彼らと闘う。
新改訳は、「おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。」です。
「おしえ」は旧約聖書の時代ですから、モーセ律法となるのでしょう。
その律法を捨てる者は悪者をほめる、反対に、その律法を守る者は律法を捨てる者に敵対する。
律法を守らずして、その生きるべき道はないと言いたいのでしょう。
悪者が、蔓延しているとき、なぜその人は罰せられないのか、と悩ましくなります。
それは、悪者をほめる人々、悪者を良い人であるかのように認める人々がいるからです。
悪を善とし、善を悪とする人々がいるから、悪者がそのまま生き残っているのです。
では、なぜ、悪者を認める人がいるのかですが、それは、真理(正義)が通ることを恐れているからと言えないでしょうか。
もちろん、その人も悪者(神に従っていない人)の一人だからでしょう。
●5節.悪を行う者らは裁きを理解しない。主を尋ね求める人々はすべてを理解する。
新改訳は、「悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。」です。
悪人は、正しい生き方を悟らない。主を求める者はすべてのことを知りえるので悟ることになるのです。
●6節.貧乏でも、完全な道を歩む人は/二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。
新改訳は、「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。」です。
正しく歩む貧しい者は、曲った道を歩む富める者にまさると言うことでしょう。
わたしたちは、いつの時代でも貧しい人よりも、富んでいる人を信用しがちです。
なぜなら私たちはどこかで富んでいる人は、人の信頼を勝ち得ていて、優秀だから豊かになっていると思いがちだからでしょう。
しかし、よく考えると、善悪の基準を無視してお金儲けに邁進して富んでいる人もいるわけですから、富と貧しさは人間の価値を判断する基準にはならないのです。
●7節.教えを守るのは分別のある子。放蕩者と交わる者はその父を辱める。
新改訳は、「おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。」です。
律法を守る者は賢い子である、放蕩者(不品行)と交わる者は、父に恥ずかしい思いをさせるのです。
父と子が対比されていますが、父親は子供の交友関係が気になるものです。
人は誰を友にしているかで人生が変わりますからね。
●8節.利息、高利で財産を殖やす者は/集めても、弱者を憐れむ人に渡すことになろう。
新改訳は、「利息や高利によって財産をふやす者は、寄るベのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる。」です。
利息と高利(利益)とによってその富をます者は、貧しい者を恵む者のために、それをたくわえると言うことはどういうことでしょうか。
これは、正しい者が悪者の財産を受け継ぐ、ということでしょうか。
聖書は、富の不公平が蔓延している世の中ですが、最後にはこの世にある富が正しく用いられることを約束しています。
●9節.教えに耳をそむけて聞こうとしない者は/その祈りも忌むべきものと見なされる。
新改訳は、「耳をそむけて教えを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」です。
耳をそむけて律法を聞かない者は、神に対し祈っても聞かれない、いや、その祈でさえも忌み嫌われるのです。
●10節.正しい人を悪の道に迷い込ませる者は/自分の掘った穴に落ちる。無垢な人々は良い嗣業を受ける。
新改訳は、「正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。」です。
正直な人(真直ぐな人)を悪い道に惑わすような狡猾な人は、みずから仕掛けた穴に陥ってしまう。
一方、日々の働きを喜ぶ健全な生き方をする者は、すべての「しあわせ(よいもの)」を受け継ぐのです。
●11節.金持ちは自分を賢いと思い込む。弱くても分別ある人は彼を見抜く。
新改訳は、「富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。」です。
富む者は自分を成功者と見ていますが、それは、自分を知恵ある者と思い込んでいるからです。そういう者は愚か者よりも始末が悪いのです。
それに対し、貧しさの中で不足を知っている人は、分別(見分ける力)を持っているので、「自分を調べる」ですから、自分の現実を神の視点から見られる、すなわち、神に頼るようになるというのでしょう。
●12節.神に従う人々が喜び勇むと輝きは増し/神に逆らう者が興ると人は身を隠す。
新改訳は、「正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す。」です。
正しい者(神に従う者)の喜びは社会全体の光栄ですが、悪者が権力を握るときは、民は危険を感じるので身をかくします。
その抑圧から身を避けるのです。
●13節.罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。
新改訳は、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」です。
自分の背きの罪を隠す者は成功しない。言い表わしてこれを離れる者は、あわれみを受けるのです。
即ち、神に対し背くと言う罪は、その罪を悔い改めることが神の許しを得る大切な要素なのでしょう。
●14節.いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人。心の頑な者は苦難に陥る。
新改訳は、「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」です。
常に主を恐れる人はさいわいである、しかし、心をかたくなにする者は、神の災に陥る。
「いつも主を恐れている人」と言うのは、自分の弱さや頼りなさをよく知っていて主に頼っている人という意味でしょう。
●15節.獅子がうなり、熊が襲いかかる。神に逆らう者が弱い民を支配する。
新改訳は、「うなる雄獅子、襲いかかる熊、寄るベのない民を治める悪い支配者。」です。
貧しく弱い民を治める悪い政治家は、「うなる雄獅子、襲いかかる熊」のように威張りつくす愚かな者である。
●16節.指導者に英知が欠けると搾取が増す。奪うことを憎む人は長寿を得る。
新改訳は、「英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、長生きをする。」です。
「長生きをする」というのは、長く治めることができる、と言うことでしょう。
ですから、不正な利得を憎む君主はその治世が長くなる、ということです。
悟りのない君主は、思慮に欠けるので人の物を強奪するような残忍な圧制者である、反対に、不正な利得を憎む君主は、長く収めることが出来る。
●17節.流血の罪の重荷を負う者は、逃れて墓穴に至る。だれも彼を援助してはならない。
新改訳は、「流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、だれも彼をつかまえない。」です。
人を殺してその血を身に負う者は、誰も彼を捕まえようとしなくても、いつも逃亡しているような人生を歩みます。死ぬまで、罪におびえた逃亡者です。
だれもこれを助けてはならない、と言うことでしょう。
●18節.完全な道を歩む人は救われる。二筋の曲がった道を歩む者は直ちに倒れる。
新改訳は、「潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。」です。
正しく歩む者は救いを得るが、曲った道に歩む者は、その過ちゆえ、穴に陥る。
正しいことをしているのであれば、どのような災いが自分の身に降りかかったとしても必ず救われる、という確信です。
●19節.自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。空を追う者は乏しさに飽き足りる。
新改訳は、「自分の畑を耕す者は食料に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。」です。
自分の田地を耕す者は食糧に飽き足り、自分の畑を耕さないで怠ける者(無益なものを追い求める者)は、貧乏に飽きる。
「飽き足り」「飽きる」というのは、「満ちる」とも訳すことができると言うことです。
「むなしいもの」は、「空っぽ」とも訳すことができて、見せかけの豊かさを追い求めることを指します。すなわち、地に足のついていない生活には貧しさが伴うと言うことでしょう。
19節から27節は堅実な生き方を勧めたものです。
●20節.忠実な人は多くの祝福を受ける。富むことにはやる者は罰せられずには済まない。
新改訳は、「忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。」です。
「罰を免れない」ということばは、「無実ではいられない」と言うことです。
「富を得ようとあせる者は」、「罰を免れない」ですから、富を得ようと焦れば、どこかでこの世の悪に手を染めざるを得なくなるから罰を免れ得ないという意味でしょう。
それに対し、目先の富よりも「忠実さ」(真実さ)に価値を置く生き方は、神に喜ばれ、「多くの祝福」を受けることができるということでしょう。
●21節.人を偏り見るのはよくない。だれでも一片のパンのために罪を犯しうる。
新改訳は、「人をかたより見るのは良くない。人は一切れのパンで、そむく。」です。
「人をかたより見る」とは、原文では「顔で見分ける」と言う意味だと言うことです。
つまり、「人を見栄えで判断するのは良くない。人は一切れのパンで、そむくのだから」という意味になります。
人を疑いすぎるのも問題ですが、見かけで信じ込んでしまい、裏切られて人を恨むという悪循環に陥るようなことは避けなければならないと言うことでしょう。
ここは裁判官を意識した言葉ではとされています。
●22節.貪欲な者は財産を得ようと焦る。やって来るのが欠乏だとは知らない。
新改訳は、「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」です。
欲の深い人は急いで富を得ようとする、それゆえに、かえって欠乏が自分の所に来ることを知らないのです。
焦って一攫千金を狙ってもうまくいくものではありません。ギャンブルや宝くじはこの類のものです。
●23節.人を懲らしめる者は/舌の滑らかな者より喜ばれ
新改訳は、「人を責める者は、へつらいを言う者より後に、恵みを得る。」です。
人をおだてれば、その人はその瞬間は良い反応をしますが、本当にその人のことを思って、否定的なことを言ったら、その人は、その瞬間は良い顔をしませんが、後で、その言葉の真意を知り礼を言われる。
●24節.父母のものをかすめて/「これは罪ではない」と言う者は/滅ぼそうとたくらむ者の仲間だ。
新改訳は、「自分の父母の物を盗んで、「私は罪を犯していない。」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である。」です。
父や母の物を盗んで「これは罪ではない」と言う者は、「滅びをもたらす者の仲間」の一人で、その人はその愚かさに気が付いていない。
このようなことは、親の財産を受け継ぐのは子供の当然の権利と思い込んでいるから起こることでしょう。
これは親の承諾なしに親の財産を奪うことが罪だと言うことの他に、親が元気なうちから遺産の先取りを請求するような生き方を指すのではと言うことです。
自分の手で稼ぐことを厭うような者は、この社会を滅ぼす者たちの仲間なのです。
●25節.貪欲な者はいさかいを引き起こす。主に依り頼む人は潤される。
新改訳は、「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主に拠り頼む人は豊かになる。」です。
欲の深い人、すなわち、むさぼる者は争いを起し、主に信頼する者は豊かになる。
「欲の深い人」は、満足を知らない生き方をする人とされています。
聖書は禁欲生活を奨励するよりも、むしろ豊かになりなさい、と教えています。
問題は、その豊かさの意味ですが、単なる物質的なものだけではないことを聖書は教えているのでしょう。
「主に拠り頼む人」ですから、霊的な事柄において豊かになりなさい、そうすれば他の面でも豊かになる、ということでしょう。
そういう人は、今は様々な不足があっても、最終的にはすべての必要が満たされることを知って、安心していられる心の状態を指していると解説されていました。
「豊かになる」と言うのは、繁栄するとも訳されています。
豊かな心、すなわち、心の余裕こそが、生活の余裕の最大の源になると言っているのでしょう。
●26節.自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。
新改訳は、「自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。」です。
自分の心を頼む者は愚かである、知恵をもって歩む者は救いを得るのです。
「自分の心に頼る者」ですから、自分の心を正しい信じ、神を信じていない人は愚かな者で、「知恵をもって歩む者」すなわち神と共に歩む者は、救われます。
神のいない世界では、「自分を信じなさい。」とよく言いますが、聖書はその逆を教えています。
自分がいかに頼りにならない存在かを教え、神からの知恵を求めて、その知恵にしたがって生きよと教えています。
●27節.貧しい人に与える人は欠乏することがない。目を覆っている者は多くの呪いを受ける。
新改訳は、「貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。」です。
貧しい者に施す者は物に不足しない、目をおおって、困る者を見ようとしない人は多くののろいをうけます。
これこそ、神と共に歩む正しい人の経済生活の基本です。
再び貧しい人への施しについての教えです。
「目をそむける者」ですから、貧しい人を見てみて見ぬふりをする人(出し惜しみする人)には、主にある豊かさは巡って来ない、多くの呪いを受けのです。
もちろん、呪いを受けるのはこの世だけではありません。
●28節.神に逆らう者が興ると人は身を隠し/彼らが滅びると神に従う人がふえる。
新改訳は、「悪者が起こると、人は身を隠し、彼らが滅びると、正しい人がふえる。」です。
悪者が起るときは、危険を感じるので民は身をかくしますが、神に逆らう者が滅びるとその身を隠さざるを得ないような時代を顧みて、神に従う人が増えるのです。
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