賢人の言葉㈠(24章)
聖書の箇所は、24章1節から22節です。
●1節.悪者のことに心を燃やすな/彼らと共にいることを望むな。
新改訳は、「悪い者たちをねたんではならない。彼らとともにいることを望んではならない。」です。
19番目の格言です。悪い者へのねたみを止めよ、という戒めです。
23章17節にもありましたが、悪い者(神を信じていない者)が繁栄を誇り、贅沢な生活をし、何の不自由もなく、誰もがうらやむような生活をしているのを見たときに、思わずねたみたくなるものです。
そういう時、その見ている悪をうらやむことがあってはならない。また彼らと共におることを願ってはならない。と言っています。
●2節.悪者が心に思いめぐらすのは暴力。唇が語るのは労苦を引き起こすこと。
新改訳は、「彼らの心は暴虐を図り、彼らのくちびるは害毒を語るからだ。」です。
悪者は、その心に暴虐を図り、その唇は害毒を語る、すなわち、人を損なうことを語るからです。
●3節.家は知恵によって築かれ、英知によって固く立つ。
新改訳は、「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。」です。
20番目の格言です。
この「家」は、文字通りの家でもあるし、また霊の家(信徒の集まり、教会)でもあるのでしょう。
家というものは知恵によって建てられ、英知(悟り)によって堅く頑丈なものが出来上がると言うことでしょう。
●4節.知識は部屋を満たし、貴く喜ばしい財産となる。
新改訳は、「部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。」です。
また、部屋は知識によって満され尊い、「好ましい宝物」(その言葉の生まれる知識のある教材等、本など)が周りにあるからです。
●5節.知恵ある男は勇敢にふるまい/知識ある男は力を発揮する。
新改訳は、「知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。」です。
21番目の句です。
知恵ある者は、力強い、知識ある人は力ある人よりも強い。
箴言は、戦争に際して、相談して計画を整えよ、と勧めています(20:18)。
ここでは、その力の源泉は知恵と知識だ、とあります。
この知恵は人間の知恵ではなく、神の知恵と知識のことを言っています。
神の知恵と知識には力があるのです。
●6節.戦争には指揮する力が必要であり/勝利を得るためには作戦を練るべきだ。
新改訳は、「あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。」です。
22番目の句です。
すぐれた指揮によって戦いをすることができ、兵法を心得る者は、多くの議論する者(助言者)がいるから勝利する。
●7節.無知な者に知恵は高尚すぎる。城門で口を開くべきではない。
新改訳は、「愚か者には知恵はさんごのようだ。彼は門のところで、口を開くことができない。」です。
門は、22章22節に当時の門は売買の交渉や法的手続きを取るところとありますが、愚か者は、知恵がないので、そこでは口を開くことが出来ないのです。
知恵はサンゴのようですから、高くて、愚かなる者の及ぶところではなく、門で口を開くことができないのです。
●8節.悪意ある考えを持つ者は陰謀家と呼ばれる。
新改訳は、「悪事を働こうとたくらむ者は、陰謀家と言われている。」です。
23番目の句です。
悪事を計画的にたくらむ者を陰謀家と言います。
衝動的でなく、意図的、恣意的、計画的に悪を行なう者を陰謀家と言います。
●9節.無知の謀は過ちとされる。不遜な態度は人に憎まれる。
新改訳は、「愚かなはかりごとは罪だ。あざける者は人に忌みきらわれる。」です。
愚かなはかりごとは罪です。あざける者はその罪により人に憎まれるのです。
●10節.苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ
新改訳は、「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」です。
24番目の句です。
自分の心の持ちようについての格言です。
心をしっかり持っていれば苦難でさえも耐え忍ぶことができるのですが、苦難の日(悩みの時)に気落ちしたら何もできなくなる、力が弱いとあります。
気落ちした時(気力が低下した時)と言うのは、悪魔が狙う最大のタイミングです。
●11節.死に捕えられた人を救い出さず/殺されそうになっている人を助けず
新改訳は、「捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。」です。
25番目の格言です。
他人が苦難に遭っているときに自分が助けることについて述べています。
死にとらえられた人、殺されそうな人を救い出せ、虐殺されそうな貧困者を救い出せです。
神は救い出せと言われていますから、これは命令です。だから命令に従わないならば罪なのです。
●12節.「できなかったのだ」などと言っても/心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される。
新改訳は、「もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。」です。
その人々が、われわれはこれを知らなかったといっても、人の心を評価する者は、それを見抜いておられるのです。
その方はあなたの魂を守る者、つまり主はそれを知らないであろうか。
主はその運命を見ておられ、おのおのの行いにより、人に報いないであろうか。
要するに回心して、正しい道を考え善に歩む者には命の救いを得るのです。
●13節.わが子よ、蜜を食べてみよ、それは美味だ。滴る蜜は口に甘い。
新改訳は、「わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。」です。
26番目の句です。「知恵」が「蜂蜜」にたとえられて、共通する甘さについてです。
父は「わが子よ。蜂蜜を食べよ。美味だ」と勧めています。
これは実物教育を通して、知恵も同様に美味であることを自分の子に教えているのでしょう。
それでは、知恵が美味であるとは、どのような意味なのでしょうか。知恵は子自身にどのような影響を与えるのでしょうか。
その答えは「蜜」のように生きる力をもたらすということでしょう。
単に「甘い」(体力的な力)だけではなく、生きる力(精神的な力)をももたらすのです。
苦難は人を気落ちさせ、人の生きる力を欠乏させてしまいます。
どのような状況におかれたとしても、生きることへの意欲をもたらす力、それが「知恵」と言うことでしょう。
「蜜を食べ」の蜜を神の言葉、つまり聖書の言葉を指すとも言えます。
聖書に記された一つ一つの言葉の意味を知ると、蜜のようで、その蜂蜜のような言葉は、わたしの口からあふれでて、生きる力を与えるのです。
●14節.そのように、魂にとって知恵は美味だと知れ。それを見いだすなら、確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。
新改訳は、「知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。それを見つけると、良い終わりがあり、あなたの望みは断たれることがない。」です。
あなたの魂にはそのようであることを知れ。それを得るならば、かならず報いがあって、あなたの望みは、絶たれないと言うことでしょう。
蜂蜜は口に甘いが、知恵は魂にとっておいしく甘い存在です。
魂はいつも未来、つまり、永遠を考えていますが、知恵はその永遠について、良い終わりを保証しています。
「良い」とは神がご計画されている事柄における「良い」であり、「終わり」とは最終的な神のご計画の祝福、あるいは神の約束に与ることを言っているのだと考えますから、それを現世的に支えているのが、「知恵」となります。
そして、「望みは、絶たれない」の知恵が与える望みとは、神に従う者自身にとっては永遠の望みを指します。
それは「永遠のいのち」とも、「御国の福音」とも、「神と人とが共に住むこと」とも表現されています。
つまり、神がこの世の基がおかれる前から計画されていた良い事柄がその者に対して実現することを意味します。
その望みが確証されている者は誰も倒すことはできないのですが、それが15節以降の聖句です。
最後にまとめとして、知恵を見いだすことは、人に生きる力をもたらし、将来の運命を見据えさせ、望みを確証させるのです。
「知恵」と「英知」、「知恵」と「知識」の関係は、
24章3節 家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。
24章4節 部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。
24章5節 知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。
解説には次のようにありました。
神の家は、「知恵」によって建てられ、「英知」と「知識」によって確立され、満たされます。ですから、知識や英知のない知恵などあり得ないのです。
ですから、信仰に「英知」や「知識」はとても必要で、英知と知恵は聖書における神の事柄の知識を多く必要とするのです。21章11節には、「知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。」とあります。
その知識に支えられてはじめて知恵の力は輝くのです。
●15節.神に逆らう者よ、神に従う人の住みかを狙うな。その憩いの場で暴力を振るうな。
新改訳は、「悪者よ。正しい人の住まいをねらうな。彼のいこいの場所を荒らすな。」です。
27番目の句です。
悪者に対する警告と、悪者と正しい人の行先です。
悪者がするように、正しい人の家をうかがってはならない、(覗き込んではならない)。その住む所に乱暴をしてはならない。
●16節.神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。
新改訳は、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」です。
正しい人は七たび(何度)倒れても起き上がりますが、悪者は一度倒れたら、起き上がれないで滅びます。
なぜならば、正しい人は、主に従って生きるからです。
つまずいて倒れても、罪や失敗を犯しても、悔い改めて神に立ち上がることができます。
悪者は、主が共におられませんから、一度の罪でも悔い改める機会はなく、主は永遠の罰を持って報いられます。
●17節.敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。
新改訳は、「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。」です。
28番目の句です。
悪者は倒れて滅びるのですが、それを喜ぶのは悪です。神は人が滅びることを望んでおられません。
あなたの敵が倒れるとき楽しんではならない、その者らが、倒れることを喜んではならない。親身になり、支えることが必要です。
●18節.主がそういうあなたを見て不快とされるなら/彼への怒りを翻されるであろう。
新改訳は、「主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。です。
「主がそれを見て」のそれとは、人の倒れるのを喜ぶ悪者のことで、神はその悪者が喜んでいるのを見て、その倒れている敵をかわいそうに思われるのです。
そしてその怒りの手を悪者から引いてしまう、というのです。
神は、すべての被造物を愛されています。
●19節.悪事を働く者に怒りを覚えたり/主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。
新改訳は、「悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。」です。
29番目の句です。悪を行う者をねたんではならない、心をとどまらせてはならないと言っています。
それは悪者が罰を受けないでいると、「なぜあの人は何の災いも受けずに、安穏としていられるのか。」といつしか妬み心を生むようになるからでしょう。
どちらにしても、悪人を気にしていると、心穏やかではありません。
悪を行う者のゆえに心を悩ましてはならない、その悪い方向性から離れることがないので気をもむのであるが、当人は、その行いが身を滅ぼすことであると気が付いていない。
神に任せなさいと言うことでしょう。
20節では、悪い者には良い終わりがなく、そのともし火は消えるという約束があります。
●20節.悪者には未来はない。主に逆らう者の灯は消える。
新改訳は、「悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」です。
30番目の句です。悪い者には良い報いはない、その後の運命が過酷で、その灯は、滅びが来れば消されるのです。
●21節.わが子よ、主を、そして王を、畏れよ。変化を求める者らと関係を持つな。
新改訳は、「わが子よ。主と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。」です。
わが子よ、主と王とを畏れよ、そのいずれにも不従順であってはならない。要するにその言葉に従わぬ愚かな者であってはならないと言っているのです。
即ち、平気で不正を行なっている仲間が近くにいたらそれに交わるなです。
交わるなと言うことですから、必ずその者に制裁があるのです。
●22節.突然、彼らの不幸は始まる。この両者が下す災難を誰が知りえよう。
新改訳は、「たちまち彼らに災難が起こるからだ。このふたりから来る滅びをだれが知りえようか。」です。
その神から来る災はたちまち起るからである。この二人からくる滅びをだれが知り得ようか。
この二人とは、主(神)と王です。主は王と共におられるから、王の言葉は主の言葉なのです。
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