ソロモンの格言集21章
聖書の箇所は、21章1節から31節です。
●1節.主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。
新改訳は、「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」です。
王は大きな権力を持っていますが、どれだけ偉大な王であっても、実は主の手の中で流れる水のようだと言っているのです。
要するに、王が神に従いその運命を進むこと、すなわち、水の流れのように自然な流れに沿うことでそれが実現するのです。
神様のこの世の支配関係をちょっと詳しく書いてみます。
家庭のリーダーが「父親」だとするなら、国のリーダーは「王」となります。
ですから、父親も王も同じく神の代理者としての位置づけになります。
神の家とか国家は、神が父親を通して、また王を通してわたしたちを支配されます。
とすれば、父親や王は神に対して常に従順でなければならないし、神のご計画についてもよく知っている必要があります。
この地上において、主に従順な支配者(王)を通して神はご自身のご計画、みこころ、御旨、目的を勧めて行かれるということです。
ただし、あくまでも王の心が「主の御手の中にある」ということがその前提条件です。
そうであっても、王とか父親など指導者が慣例やしきたりといったこれまでの伝統的な枠に縛られて、頑なさのゆえに、しばしば神の導きの流れを止めている現実があります。
また、主が、御手にある指導者(王や父親)を通してご自身のご計画をなされるとするならば、指導者は主のご計画について十分に知っておく必要があります。
指導者である者は自分の計画ではなく、主のご計画を自分の計画とすべきです。
王とか親は、み言葉を聞き、常に心に抱き、主に従う謙虚な姿勢は問われることになります。
それでは主を知らない王とか父親ならばどうなるのでしょうか。
この場合は、父親とか王の協力は得られませんから、主が自らあらゆる手段を使って介入され、導かれるのでしょう。
指導者に求められていることは、自分の計画を実現することではなく、どこまでも自分は神の代理者にすぎないことを念頭に置いて、自分を立ててくださった神のご計画とみこころを知りつつ、その御旨と目的に従って、自分に与えられた立場とその力を行使することと言えます。
そうであれば、現実の世界の指導者で、これに当てはまる指導者はどれほどおられるのでしょうか。
●2節.人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。
新改訳は、「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」です。
他人の道は自分の目には正しく見えますが、正しいと思っていても過ちは存在するものです。
しかし主は人の心をはかられる。
私たちは何かをするときは、自分が正しいと思うから行動しますが、私たちの心の深いところ、根っこの暗い部分に気づいていません。
主が、その心の深い部分を探り出されて「人の心の値うちをはかられる。」のです。
●3節.神に従い正義を行うことは/いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。
新改訳は、「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」です。
神のみ旨にしたって、公平と正義を行うことは、犠牲にまさって主に喜ばれます。
●4節.高慢なまなざし、傲慢な心は/神に逆らう者の灯、罪。
新改訳は、「高ぶる目とおごる心・・悪者のともしびは罪である。」です。
高ぶる目とおごる心とは、悪者のともしびであって、まさにその高ぶりとおごる心は罪だと言っています。
●5節.勤勉な人はよく計画して利益を得/あわてて事を行う者は欠損をまねく。
新改訳は、「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。」です。
勤勉な人の計画は、その人を豊かにするが、すべてあわてて事を行う者、つまり、手を動かさないので貧しくなる。
「勤勉な人の計画は利益をもたらし、」とありますから、結果が出ないといらいらしてすぐにあきらめようとする我々に対する警告でしょう。
主は、勤勉であれば必ず利益をもたらす、と言っておられるのです。
さて、ここで勤勉な人の勤勉は、労働に対し勤勉は当然ですが、主のご計画とみこころを知ろうとする鋭い感覚と熱心さを合わせ持った人をさすと考えます。
「勤勉な者」に対比されている「無精者」「あわてる者」ですが、「あわてる者」とはどういう人のことをいうのでしょうか。
何の計画性もなく、急ぐようにその日その日を生きている人のことを意味するのでしょうか。その結果は欠損を招くとしています。
●6節.うそをつく舌によって財宝を積む者は/吹き払われる息、死を求める者。
新改訳は、「偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。」です。
偽りの舌で言葉を伝えたとしても、偽りはその罪を暴露すると言うことでしょう。
嘘をついて収益が出たところで、それは吹き払われる息のようだ、ということでしょう。そして、吹き払われるだけでなく死に至ります。
●7節.神に逆らう者は自分の暴力に引きずられて行く。正義を行うことを拒んだからだ。
新改訳は、「悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。」です。
悪者の暴虐はその身を滅してしまう、それは、彼らが正義(公平)を行うことを好まないからです。
●8節.歩む道が曲がったりそれたりしていても/清く正しい行いをする人がある。
新改訳は、「罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。」です。
罪人の道は曲がっている。つまり、まっすぐ歩まず、横道にそれることばかりを考える。清く正しい行いをする人は、つねにまっすぐです。
罪を心に秘めている人の答弁は、弁解がましく回りくどいです。まっすぐに話すことができません。ですから、いろいろな問題についての議論も非常に複雑です。
●9節.いさかい好きな妻と一緒に家にいるよりは/屋根の片隅に座っている方がよい。
新改訳は、「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」です。
争いを好む女と一緒に家におるよりは、屋根の片隅におる方がよい。すなわち、その方が安全です。
しかし、安全を気にするほど争いを好む女とは、社交場と屋根の片隅の対比です。
これは、合計千人の妻とそばめを持っていたソロモンなので言える言葉でしょう。
●10節.神に逆らう者の欲望は悪に注がれ/その目は隣人をも憐れまない。
新改訳は、「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。」です。
悪者の魂は、つねに悪を行うことを願い、隣人をあわれもうとはしない。
つまり、隣人に好意をもってもらおうとしないのです。
遠くにいる人でなく、近くにいる人は互いに嫌な部分も見え、摩擦もあります。
けれどもその人にも親切にすることができるのか、が問われています。
いくら仲の良い友でも、共に暮らせば摩擦が生まれます。
●11節.不遜な者を罰すれば、浅はかな者は知恵を得る。知恵ある人を目覚めさせるなら/彼は知識を得る。
新改訳は、「あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。」です。
あざける者も、その罰を受けて、悟ることがあれば、思慮に欠ける者も知恵を得ることになる。知恵ある者が教をうけるならば、なおさら知識を得るのです。
「不遜な者を罰すれば、」の罰は、箴言では鞭と表現しています。
知識を与えても受け取ることができない人に残されているのは鞭だと言うことでしょう。
●12節.神に従う人は逆らう者の家を識別し/神に逆らう者を災いに落とす。
新改訳は、「正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。」です。
正しい人(神に従う人)は、悪者の家を見抜き、悪者を滅びに投げ入れることになるのです。
信仰によって生きる人は、他の人が気づいていないものであっても気づくことがあります。この人は神の目には悪いことをしている、と気が付いたとき、思わず祈ってしまいます。
●13節.弱い人の叫びに耳を閉ざす者は/自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。
新改訳は、「寄るベのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。」です。
貧しい者(弱い人)の呼ぶ声を聞かない者は、自分が呼ぶときに、その意味を知ろうとしても聞かれない。
●14節.ひそかに贈り物をしておけば怒りはなだめられ/賄賂をふところに入れてやれば激怒も静まる。
新改訳は、「ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。」です。
秘かな贈り物は、その怒りをなだめる、懐に入れられた贈り物は、激しい怒りを和らげるのです。
怒りは、金銭によって和らげられるのが現実です。それしか方法がない場合も多くあります。
●15節.裁きを行うことは、神に従う人には喜び/悪を行う者には滅び。
新改訳は、「公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。」です。
公義(正義)を行うことは、正しい者(神に従う人)には喜びであるのだが、悪を行う者には滅びなのです。
●16節.目覚めへの道から迷い出た者は死霊の集いに入る。
新改訳は、「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。」です。
悟りの道を知り得ても、それから離れてしまう人は、死人の集会に身を置くことになる、ですか。
「死者の霊たちの集会」とは、陰府のことでしょう。
神による最終的な裁きを待つ人々のところに落ちる、ということでしょう。
●17節.快楽を愛する者は欠乏に陥り/酒と香油を愛する者は富むことがない。
新改訳は、「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」です。
快楽を好む者は、貧しい人となり、ぶどう酒や香油を好む者は、富むことがないのです。
お酒を飲むと貧しくなることが約束されています。
またお酒が快楽とともに語られています。香油も当時高価なものでしたから、同じです。
酒は楽しむ、心を和ませ、リラックスさせてくれる嗜好品として多くの人に受け入れられていますが、それも過ぎると身を亡ぼす結果となります。
これが現実なのです。
●18節.神に逆らう者は神に従う人の代償とされ/欺く者は正しい人の身代金にされる。
新改訳は、「悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。」です。
悪者は、正しい人の身代金(贖い)となり、不信実な者は正しい人の身代わりとなります。
神の審判は、この世界とは反対で逆転劇となるのでしょう。
●19節.いさかい好きで怒りっぽい妻といるよりは/荒れ野に座っている方がよい。
新改訳は、「争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。」です。
争い怒る女と共におるよりは、荒野に一人住む方がましです。
争い好きの女は前にも出てきましたね。争い好きの女も嫌われたものです。
荒涼とした荒野にいてるほうが、うるさい女といるよりましだ、と言っているのです。
と言うことは、家庭において、社会において女性の役割が非常に大切だと教えているのでしょう。
夫婦の中で、家庭の中で、そして社会において、女性の働き如何ですべてが変わるのです。
●20節.知恵ある人の住まいには望ましい宝と香油がある。愚か者はそれを呑み尽くす。
新改訳は、「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。」です。
知恵ある者の家には、望ましい宝と香油があり、愚かなる者はこれを飲み尽くすようになくしてしまう。
高価な者があっても愚かな者は、浪費ですべてを台無しにすることを言っているのでしょうか。
●21節.恵みと慈しみを追い求める人は/命と恵みと名誉を得る。
新改訳は、「正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。」です。
正義と誠実とを追い求める者は、ついに命と正義と誉とを得る。
それは、その命の価値を知るからです。
●22節.知恵ある人はひとりで勇士たちの町に上り/その頼みとする砦を落とすこともできる。
新改訳は、「知恵のある者は勇士たちの町に攻め上って、その頼みとするとりでを倒す。」です。
知恵ある者は強い者の城にのぼって、その頼みとするとりでをくずします。
要するに、堅固な城でも知恵には崩れるということでしょう。
知恵は要塞をも打ち破る力を持っています。
●23節.自分の口と舌を守る人は/苦難から自分の魂を守る。
新改訳は、「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。」です。
言葉の大切さを言っているのでしょう。
口と舌とを守る者は、自分自身の魂を守って、悩みにあわせない。その悩みから救われるのです。
●24節.増長し、高慢な者、その名は不遜。高慢のかぎりを尽くす。
新改訳は、「高ぶった横柄な者・・その名は「あざける者」、彼はいばって、横柄なふるまいをする。」です。
高ぶりおごる者を「あざける者」となづける、彼は不遜、高慢の限りを尽くすのです。
●25節.怠け者は自分の欲望に殺される。彼の手が働くことを拒むからだ。
新改訳は、「なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。」です。
怠け者の欲望は自分の身を殺す、働かないで浪費するので、自分の体を死に追いやるのです。
己の手を働かせれば、すなわち勤勉であればそのような立場には陥ることはないのです。
●26節.欲望は絶えることなく欲し続ける。神に従う人は与え、惜しむことはない。
新改訳は、「この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。」です。
悪者はつねに自分の欲望に明け暮れているから、人の物をむさぼろうとします。しかし、 正しい者は与えて惜しまないのです。
怠けている人はもらうことばかりというか楽することばかり考えています。
怠け者と欲望は一体なのですね。怠け者は、何もしない人ではないのです。
自分がやりたいことだけを一日中やっているから、働くことができないと言うことでしょう。
●27節.神に逆らう者のいけにえは忌むべきものだ。悪だくみがあってささげるのだから。
新改訳は、「悪者のいけにえは忌みきらわれる。悪意をもってささげるときは、なおさらのこと。」です。
悪者の神への供え物は憎まれるが、悪意をもってささげる時はなおさらとしています。
正義を行なわないで供え物をする人は、主に忌み嫌われます。
さらに悪意をもってささげる、すなわち、主へのささげものを、悪い動機でささげることは、なおさらだとしています。
●28節.欺いて語る証人は滅びる。聞き従う人の言葉はとこしえに堪える。
新改訳は、「まやかしの証人は滅びる。しかし、よく聞く者はいつまでも語る。」です。
偽りの証人はやがては滅ぼされる、よく神の言葉を聞く人の言葉はすたることがない。いつまでも残ると言うことでしょう。
●29節.神に逆らう者は厚かましく事を行う。正しい人は自分の道を整える。
新改訳は、「悪者はあつかましく、正しい者は自分の道をわきまえる。」です。
悪者は、厚かましいことを口にし(人の迷惑も考えず、ずうずうしい人)、正しい人は、その道をわきまえています。
つねに慎み深くありなさいという教訓です。
●30節.どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。
新改訳は、「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。」です。
主に向かっては、人間の思考から生まれる知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たないのです。
主に対抗しようとして、いろいろな知恵や英知を働かせても、役に立たないということでしょう。
●31節.戦いの日のために馬が備えられるが/救いは主による。
新改訳は、「馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。」です。
戦いの日のために、出てゆく馬を備える。しかし、「救いは主」ですから、勝利は主によるのです。
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