ソロモンの格言集19章
聖書の箇所は、19章1節から29節です。
●1節.貧乏でも、完全な道を歩む人は/唇の曲がった愚か者よりも幸いだ。
新改訳は、「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。」です。
この世界だけではどうかわかりませんが、来世を考えれば、やはり主と共に「貧しくても、誠実に歩む者は」、曲がったことを言う愚かなる者の口にまさる。と言えるのでしょう。
●2節.知識がなければ欲しても不毛だ。あまり足を急がせると過ちを犯す。
新改訳は、「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」です。
人が知識のないのは、良くない。なぜならば、愚かな思考で物事を考え、よくわからないうちに急いで物事を進めるが、やがて迷路に踏み込み道に迷ってしまう。
ユダヤ人は、知識がないためにかえってその熱心が主に敵対するという皮肉、悲劇になってしまったのでしょう。
●3節.人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。
新改訳は、「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る。」です。
人は自分の愚かさによって道に躓くことになり、かえって、その造り主である神をうらむようになる。
自分の愚かさによって引き起こされた災難を、「神が愛ならば、神が善ならば、なんでこんなひどい仕打ちを私にするのか。」と神を攻めると言う場合を指すのでしょう。
●4節.財産は友の数を増す。弱者は友から引き離される。
新改訳は、「財産は多くの友を増し加え、寄るベのない者は、その友からも引き離される。」です。
富は多くの新しい友を築き上げるが、しかし貧しい人は、かえってその友に捨てられるのです。
その人の置かれた境遇を知ることを知ろうとしないので、その貧困に追いこまれた人物の実情を悟らない。ただ貧しさを否み去っていくのです。
お金のあるところに人が集まる、という悲しい現実です。
●5節.うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をすれば逃げおおせることはない。
新改訳は、「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。」です。
偽りの証人は罰を免れない、「まやかし」ですから、偽りを言う者は、その罰から逃れることはできない、と言うことでしょう。
証人が、証言する言葉に偽りがあれば、罰せられるし、どんな嘘でも嘘を言うことに慣れてしまうと、その人は人間性を損なうことになる。
●6節.高貴な人の好意を求める者は多い。贈り物をする人にはだれでも友になる。
新改訳は、「高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。」です。
「高貴な人」にこびる者は多く、人はみな贈り物をする人の友となるのです。
再び賄賂の現実について言っています。
ただし、貧しい人に自分の財産を使うことは、ちょうど贈り物を主のところに持っていくようなものですから、これは賄賂ではありません。
●7節.実の兄弟も皆、貧しい人を憎む。友達ならなお、彼を遠ざかる。彼らは言っていることを実行しようとはしない。
新改訳は、「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」です。
貧しい者はその兄弟すらもこれを憎み、ましてその友が貧しい境遇にある人物を見れば、その友から遠ざかるのはなおさらである。遠ざかるのが現実です。
「彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」」と言うのは、貧しい者が友を言葉をかけてこれを呼んだとしても、見向きもせずに、去って帰らないと言うことでしょう。人は、貧しい者にはかかわりたくないのである。それは、損することがあっても利益にならないからでしょう。
●8節.心を得た人は自分の魂を愛する。英知を守る人は幸いを見いだす。
新改訳は、「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。」です。
「思慮を得る者」は、知恵を得る者を指し、知恵を得る者は自分の魂を愛し、その隠された意味を悟ることで、己の中にある魂の存在を理解するのです。
そして、悟りを捨てずに、その悟りを保つ者は幸を得る。
知恵と言うのは、神の戒めですから、その戒めは、何よりもわたしたち自身を幸せにするためのものです。
戒めは、わたしたちを抑制したり、縛ったりするものではなく、わたしたちの幸福のためにあります。
●9節.うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。
新改訳は、「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。」です。
偽りの証人は罰を免れない、また、偽りを言う者は滅びるのです。
その通りで、解説はいりませんね。
●10節.愚か者に快楽はふさわしくない。奴隷が君主を支配するのは、なおふさわしくない。
新改訳は、「愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。」です。
愚かなる者が、不正でぜいたくな暮らしをするのは、ふさわしいことではない。
奴隷が、君たる者を治めるなどは、なおさら、道理に反している、でしょう。
奴隷根性を持ったまま人を支配する地位に着くと、とんでもないことになります。
共産主義社会で、農民出身の者が知識階層を支配すると、その結果は、上に立つ者は腐敗を極め、封建制よりもさらにひどい階層社会が形成されます。
貧しい人が本当の意味で良き指導者になるときは、貧しくても富んでいても、財産に左右されない自由な思考を持っている場合です。
良き指導者となる貧しい人は、富んでも、貧しい時のように自分の手でせっせと働き、自分に忠実であることについては何ら変わりません。
●11節.成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。
新改訳は、「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」です。
思慮深い人は、忍耐強く怒ることも遅い。我慢して、良く耐えるのです。
「背きを赦す」(過ちを赦す)人は、人の光栄、つまり、人の誉れであるとしています。
●12節.王の憤りは若獅子のうなり声。王の好意は青草におく露。
新改訳は、「王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。」です。
王の怒りは、若い獅子の唸るような声、その恵みは草の上におく露のようです。
正しい政治が行われれば、潤うと言うことでしょう。
●13節.愚かな息子は父の破滅。いさかい好きな妻は滴り続けるしずく。
新改訳は、「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。」です。
愚かな息子は、その父の災いである。妻の争うのは、雨漏りの絶えないのと同じです。
妻との争いは、つねに家が破壊される意味合いがあると言うことでしょう。
●14節.家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。
新改訳は、「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。」です。
家と財産とは先祖からうけつぐものであるが、思慮深い妻(賢い妻)は、主から賜わるものなのです。家庭は、賢き妻で保っているのです。
ここでは、妻は自分が努力して得られるものでないことを教えています。
一方的に主から与えられる恵みであることを教えています。
「家」も「財産」も、「先祖から受け継ぐもの」ですが、究極的にはいずれも主から与えられたものです。
「妻」は継承できないのですから、ここでは継承すべきものと、継承できないものがあることが強調されているのでしょう。
特に、「思慮深い」(賢い、悟りのある、眼識のある)妻は、完全に主から与えられるものです。
「思慮深い」妻があっての教育なのです。夫(父親)だけでは主を恐れることを子どもたちに教えることはできないのです。
その意味で妻(母親)の存在は重要です。
●15節.怠惰は人を深い眠りに落とす。怠けていれば飢える。
新改訳は、「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。」です。
怠惰は人を熟睡させる。怠け者は飢える。自ら手を動かさないからです。
●16節.戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。
新改訳は、「命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。」です。
戒め(み言葉)を守る者は、自分の魂である隠された意味を守るのです。
「命令」ですから主の戒め、つまり御言葉を軽んじる者は、その罪ゆえに死を与えられると言うことでしょう。
●17節.弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。
新改訳は、「寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」です。
「寄るベのない者」ですから、貧しい者に施しをする者は、主に貸すことと同じです。その施しは主が償われるのです。
貧しい人に施しをすることを教えていると同時に、怠惰は人を飢えさせるという教えもあります。
ですから、怠けている人に対しては、施しではなく仕事を探すことを教える必要もあります。
●18節.望みのあるうちに息子を諭せ。死なせることを目指してはならない。
新改訳は、「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。」です。
望みのあるうちに、自分の子を懲らしめる。しかし「殺す気を起こしてはならない」。
ここでは、「愚かな息子は父にとってわざわいとなる」ということで、そうならないための知恵が語られています。
それは、「望みのあるうちに」、父は自分の子をさとし、懲らしめることが不可欠だということでしょう。
ところで、「殺す気を起こしてはならない。」ということばの意味は何でしょうか。
その前に、「望みのあるうちに」とは、子どもが小さいうち(12.3歳までか)にという意味でしょう。
それ以上に成長してしまってからでは遅すぎるという意味が含まれているのでしょう。
ですから、子どもが幼い時から、父は神の代理人として自分の子をしつけ、さとし、懲らしめる必要があるのです。
そこで「殺す気を起こしてはならない」とは、「望みのあるうちに何の手立ても施さず、無責任に子を放っておいて、その子の一生を台無しにしてしまうようなことがあってはならない。」という意味になるのではないでしょうか。
●19節.激しく憤る者は罰を受ける。救おうとしても、あおるだけだ。
新改訳は、「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。」です。
「激しく憤る者」は、その愚かさゆえに罰をうける、たとい彼を救ってやっても、
さらにくり返すことになるのです。
忠告を与えても、その意味を悟ることはなく、愚かな者は修正が効かないのです。
しつける時に、親が自分の怒りに任せてはいけないことを戒めています。
怒り、憤りは罪なのです。その反面、怒りではなく愛から出ている忠告や訓戒は、人に知恵を与えるのです。
●20節.勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来、知恵を得ることのできるように。
新改訳は、「忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。」です。
「忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。」と言っています。その言葉に耳を傾けることが大事です。そうすれば、ついには知恵ある者となるのです。
忠告とか訓戒は神の言葉ですが、神は、連れ合いや友人、職場の同僚、牧師などいろいろな人を用いて、ご自身の知恵をその人に教えられるのでしょう。
わたしたちは、その言葉を受け入れる心の余裕を持ちたいものです。
「知恵は悟りのある者の心にいこう」と箴言は明言しています。
●21節.人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
新改訳は、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」です。
言葉通りです。
●22節.欲望は人に恥をもたらす。貧しい人は欺く者より幸い。
新改訳は、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。」です。
人に望ましいのは、欲望ではなく心の中が広く、変わらぬ愛です。
「貧しい人」でも、それを持っている人は、偽りをいう人にまさるのです。
変わらぬ愛、真実の愛です。一時的でなく、変わらない親切であり優しさでしょう。
●23節.主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき/災難に襲われることはない。
新改訳は、「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」です。
主を恐れること(神との関係に生きる)は、人に真のいのちを得させて、常に満ち足りて災にあうことはない。
●24節.怠け者は鉢に手を突っ込むが/口にその手を返すことすらしない。
新改訳は、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」です。
怠け者は、手を皿に突っ込んでも、それを口に持ってゆくことをしない。
表現がすごいです。怠惰は食欲に勝るのです。
●25節.不遜な者を打てば、浅はかな者は熟慮を得る。聡明な人を懲らしめれば、知恵を見分ける。
新改訳は、「あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる。」です。
「打て」と言うのは、要するに戒めをするということで、そうすれば思慮のない愚かなる者も慎む。
「不遜な者」とは知恵のない者ですから、知恵があれば責めるだけでいいですが、そうでない者にはむち打ちをしなければいけない、ということでしょう。
●26節.父に暴力を振るい、母を追い出す者は/辱めと嘲りをもたらす子。
新改訳は、「父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。」です。
父親に乱暴を働き、母親を追い出すようなことをする子供は、恥をもたらせ、辱めを招く子です。
モーセの律法に従えば、反抗する子は石打ちの刑に処せられます。
●27節.わが子よ、諭しに聞き従うことをやめるなら/知識の言葉からたちまち迷い出るであろう。
新改訳は、「わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。」です。
知識の言葉、つまり、訓戒を聞き従うのをやめれば、「たちまち迷い出る」。
解説には、人を迷わせる教訓こそは、何の価値もなく、神の御命令である悟りを知り得ることこそ、大事な進むべき道であることを知るべしとあります。
簡単に言えば、つねに御言葉(神の言葉)を聞き続けなければいけないことを教えているのでしょう。
18節では、父の子に対する教育は問われていましたが、ここでは、父だけでなく、子の責任も問われています。
●28節.ならず者の証人は裁きを侮辱し/神に逆らう者の口は悪を呑み込む。
新改訳は、「よこしまな証人は、さばきをあざけり、悪者の口は、わざわいをのみこむ。」です。
「よこしまな証人」(悪い証人)は、起きるべきさばきをあざけり、「悪者の口」は、悪をむさぼり食うばかりです。
つまり証拠をつきつけられて、その悪事が暴かれても、なおも大口を叩いている姿を指しているのでしょう。
●29節.不遜な者に対しては罰が準備され/愚か者の背には鞭打ちが待っている。
新改訳は、「さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。」です。
罰はあざける者のために備えられ、鞭(その天罰)は、愚かなる者の背のために備えられるのです。
人間は、いくら大口を叩いても、結末はいっしょです。
神による裁きとむちが用意されています。もちろん、この世だけではなく、来世にかけての話です。
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