ソロモンの格言集20章
聖書の箇所は、20章1節から30節です。
●1節.酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない。
新改訳は、「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。」です。
「ぶどう酒」を飲みあざける者、「強い酒」を飲み騒ぐ者、それに惑わされる者は愚か者は、悟りも得られないので「知恵がない。」、、すなわち無知です。
それでは「ぶどう酒」と「強い酒」の定義を解説で調べてみます。
聖書の時代に、「ぶどう酒」あるいは「ワイン」という言葉を使うとき、ぶどう汁全般を指していると言うことです。
つまり、現在の「グレープジュース」も、ぶどう酒の一つとして数えられていたそうです。
ぶどうの実が押しつぶして出てくる新鮮な「ぶどう汁」は、良質のぶどう酒でした。
取れたてのぶどう汁が、七日経つと、別の壷または皮袋に入れるのですが、この時に、「新しいぶどう酒」と呼ばれるそうです。
40日以内のぶどう酒は、主へのささげ物の一つとして使用しました。
その後は、発酵の速度が速くなるので、ささげ物としては用いません。
過越の祭りのときに用いられたぶどう酒は、三分の一を水で薄めました。発酵されたアルコール飲料ではないように、念を入れていたそうです。
長く保管されるぶどう酒でもせいぜい3年間で、その後はみな破棄したそうです。
ですから、少なくとも一年を経過したものは古いぶどう酒と呼ばれていました。
このように「ぶどう酒」と呼んでいるものは、現在のワインの定義と異なります。
箴言30章1節に出てくる「強い酒」は、いわゆる現在の「ワイン」の範疇に入るのではと言うことです。
●2節.王の脅威は若獅子のうなり声/彼を怒らせる者は自分を危険にさらす。
新改訳は、「王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。」です。
王の怒りは、ししがほえるようである。彼を怒らせる者は、自分の命を損なうようなものです。権力は力なのです。
言い換えれば、神は権力をこのように王や国、社会に与えておられるのです。
そのような目で世界を見ると、見方が変わってきます。
●3節.争いにかかわらないのは立派なことだ。無知な者は皆、争いを引き起こす。
新改訳は、「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」です。
争いに身を置かない人は、まさに人の誉れである。愚かなる者は争いを引き起こす。
●4節.怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない。
新改訳は、「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。」です。
怠け者は寒い時には仕事を怠る。それゆえ、刈りいれの時になって求めても何もないのです。
いわゆる「蟻とキリギリス」の教訓ですね。
イスラエルでは、秋の収穫だけでなく、麦など春の収穫がありますのので、それは冬に耕して準備します。
冬に寒いからといって外に出ないで怠ける者が出てくるのです。
●5節.思い計らいは人の心の中の深い水。英知ある人はそれをくみ出す。
新改訳は、「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。」です。
人の心の中にある計り事は、深い井戸の水のようである。しかし、「英知のある人」は、これと同じように、その悟りの言葉をくみ出します。
「思い計らいは人の心の中の深い水」としています。
そして、その言葉は、人の心の深いところから出てくるものであると定義しています。
聖書には、この心を「霊」と訳しているところもあります。
霊から、あらゆる英知が湧き出るのです。
●6節.親友と呼ぶ相手は多いが/信用できる相手を誰が見いだせよう。
新改訳は、「多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。」です。
自分が助けを求めているときに、「何々をしてあげましょう。」と言ってくれる人たちがいます。
その中で実際に行なってくれる人、また継続的に助けてくれる人がどれだけいるでしょうか、と言うことでしょう。
大事なのは、口ではなく行いです。文句の多い人、口数の多い人は、得てして行いが伴わないものです。
●7節.主に従う人は完全な道を歩む。彼を継ぐ子らは幸い。
新改訳は、「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。」です。
正しい行ないは、その場限りのものだけでなく、その子孫にも祝福を与えます。
このみことばが意味していることは、神の祝福は、特に、神と正しい関係にある父親の子ども(そのすべての子孫)へ注がれるということです。
この「正しい人」とか「義人」と言うのは、神とのかかわりが正しい人のことで、単に優れた人とか、道徳的に間違いを犯したことがない人のことではありません。
もし、「正しい人」(父親)が神に対して罪を犯してしまった場合、その影響が家族にもたらされてしまうのです。
しかしその影響を防ぐ聖書的方法が二つあります。
父親が罪を犯した時、自分の罪を神の御前で認め、それを告白をもって言い表わすことです。それによって、罪のとがめから赦され、神はその父親とその家族との関係を正しいものに回復されるのです。
●8節.裁きの座に就いている王は/その目でどのような悪をもふるい分ける。
新改訳は、「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。」です。
さばきの座にすわる運命なる王は、その目をもって、すべての悪をふるいわける。その裁きが、公平になされることが大切です。
上にいる者は神から権威が与えられていますので、悪をふるい分ける能力が与えられています(ローマ13:1)。
●9節.わたしの心を潔白にした、と誰が言えようか。罪から清めた、と誰が言えようか。
新改訳は、「だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。」と言うことができよう。」です。
そのさばきを決めるのは神様だけです。被造物である人間は、被造物である人間を裁くことはできません。裁かれるのは創造主です。
●10節.おもり石の使い分け、升の使い分け/いずれも主の憎まれること。
新改訳は、「異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。」です。
要するに、心の中に二心、背く心と従おうとする心があってはならない、と言うことでしょう。
●11節.子供も、行いが清く正しいかどうか/行動によって示す。
す。
新改訳は、「幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。」です。
幼き子供でさえも、何かをすることで自らを示し、その行いの清らかさと正しさを明らかにする。
この言葉の背景には、幼子にも罪があり、子供にも罪があるということでしょう。
子供を観察すれば、大人と同じようにプライド、高慢があり、嘘をつきます。
大人と同じように不品行の罪を犯し、自分の悪事を隠そうとします。
●12節.聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。
新改訳は、「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。」です。
聞く耳と、見る目とは、ともに主が造られたものです。
物理的な耳、目のことを言っているのでしょうが、霊的な耳、霊的な目のことも意味するのでしょう。
神の声を聞くことも、また神からの幻を見ることも、どちらも主が人間に与えてくださいました。
●13節.眠りを愛するな、貧しくならぬために。目を見開いていれば、パンに飽き足りる。
新改訳は、「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる。」です。
眠りに心を奪われてはならない。貧しくならないために。
目を開いてと言うのは、神の言葉で、神の言葉を見るようになれば、パンに飽くことができる。
要するに、神の恵みと思いなさいと忠告しているのでしょう。
●14節.「悪い、悪い」と買い手は言うが/そこを去ると、自慢する。
新改訳は、「買う者は「悪い、悪い。」と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。」です。
買う者は、「悪い、悪い」と言って買いに来る。そういって買ってしまえば、その買ったものを自慢するようになるのです。
人間の不思議な心理です。購買するときの駆け引きにおいてだけではありません。
●15節.金もあり、珠玉も多い。しかし、貴いものは知識ある唇。
新改訳は、「金があり、多くの真珠があっても、知識のくちびるが宝の器。」です。
金もあり、多くの真珠もあるが、それより尊いものは、知識から語られる唇である。
金や価値あると言われるもので動いてはいけない、神の言葉を大切にしなさいということでしょう。
●16節.他国の者を保証する人からは着物を預かれ。他国の女を保証する人からは抵当を取れ。
新改訳は、「他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。」です。
人のために保証する者からは、まずその代償として着物を取れ、見知らぬ女のためにも同様に着物を抵当に取れ。
連帯保証人になるときには、最悪の事態を考慮して対策を練りなさい、という教えでしょう。
●17節.欺き取ったパンはうまいが/後になって口は砂利で満たされる。
新改訳は、「だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。」です。
欺きで取ったパン(食べ物)は美味しい、しかし、その後には欺いたことがばれるので口は砂利でいっぱいになります。
その場だけの喜びを戒めています。
罪は快楽ですが、罪を犯したあとで後悔するものです。
●18節.計画は助言を得て立てよ/戦争は指揮力を整えて始めよ。
新改訳は、「相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。」です。
計りごとは話し合いをすることによって整える。戦おうとするならば、「すぐれた指揮」ですから、まずよく議して(みんなの意思の一致を見て)戦えと言うことでしょうか。
●19節.秘密をばらす者、中傷し歩く者/軽々しく唇を開く者とは、交わるな。
新改訳は、「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。くちびるを開く者とは交わるな。」です。
歩きまわって人のよしあしをいう者は、口が軽いので秘密をもらす、くちびるを開いて歩く者と交わってはならないでしょう。
人の悪口を言う人は、あなたの大事な秘密も他の人に話しています。だからそのような人は避けたほうがいいのです。
●20節.父母を呪う者/彼の灯は闇のただ中で消える。
新改訳は、「自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える。」です。
自分の両親を悪しざまに言う者は、そのもたらす光の意味を悟らず、藻屑と消えるのです。
「父母を軽んずる者は呪われる」(申命記27章16節)。
●21節.初めに嗣業をむさぼっても/後にはそれは祝福されない。
新改訳は、「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。」です。
焦って集めた物は、その終わりが幸いではない、と言うことでしょう。
焦って得た財産とは、自分の勤労によって得た財産でなく、人をだまして得た利益とか正当な相続財産であっても同じことでしょう。不労所得は身につかないのです。
●22節.悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。
新改訳は、「 「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。」です。
主を待ち望め、主はあなたを助けられる。
悪を行なった者に対しては主の制裁がある、ということです。
主は、 「復讐はわたしのすることである。(ローマ12:19)」と主は言われます。
●23節.おもり石を使い分けることは主にいとわれる。天秤をもって欺くのは正しくない。
新改訳は、「異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。欺きのはかりはよくない。」です。
互いに違った二種のふんどうは主に憎まれる。要するに、両天秤をするという意味でしょう。
一つのことに執着しているのではなく、良い方につくと言う思考です。
●24節.人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。
新改訳は、「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。」です。
要するに人の人生というものは神によって定められる。人はどうして自らその道を知り、明らかにすることができようか、でしょう。
他人には人生の意味は分からないのです。
人生は、自分で定めると思っている人が非常に多いです。
自分の道を理解していると思っている人も多いです。
自分に人生も、世界の情勢も主が定められrていると思ったら、気が楽になります。
●25節.聖別されたものとしよう、と軽々しく言い/後にその誓いを思い直せば罠となる。
新改訳は、「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」です。
軽々しく「聖なるささげ物をする」と言い、また誓いを立てて後でそれを考え直す者は、罠にかかっている人。
主は、「誓ってはならない」と言われています。
後から考え直すのであれば、始めから言わなければ良かったのです。
言い換えれば、塩気のない塩、信仰のない信仰者のことを言っているのでしょう。
そうれあれば、そのような塩だったら塩がないほうがましだし、また不信者であるほうがましなのです。
●26節.賢い王は神に逆らう者を選び出し/彼らの上に車輪を引き回す。
新改訳は、「知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。」です。
知恵ある王は、箕をもってふるい分けるように悪人を散らし、車輪をもって脱穀するように、これを罰するのです。
要するに、善悪に振り分けられることを言っているのでしょう。
●27節.主の灯は人間の吸い込む息。腹の隅々まで探る。
新改訳は、「人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。」です。
「息」は霊を指しますから、人間の息は主のともしびであり、神は人の心の奥を探る。要するにすべてを神はご存じだという意味でしょう。
人の霊の中で起こっていることが息となり、それが言葉として発せられます。
ですから言葉は人の人格そのものであり、その人の霊の表現となります。
ギリシヤ語には言葉は二つあるそうです。ロゴス(書かれた言葉)と、レーマで、語られる言葉です。
●28節.慈しみとまことは王を守る。王座は慈しみによって保たれる。
新改訳は、「恵みとまこととは王を守る。彼は恵みによって王位をささえる。」です。
慈しみ(恵み)と誠は王を守る。王座もまた慈しみ(恵み)によって保たれるのです。
●29節.力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。
新改訳は、「若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。」です。
若者の栄えはその力であり、老人の美しさはそのしらがです。
若者の良い評判は力の結果であり、活動が衰えて老人となると白髪となりますが、、その白髪に威厳があるのです。
●30節.打って傷を与えれば悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て。
新改訳は、「打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。」です。
傷つくまでに打てば、悪いところは洗い落とされ清くなる。鞭で「腹の隅々にとどくように打て」ば、心の底までも清くなるのです。
この懲らしめの意味は、どのように理解すればよいのでしょう。
「口で言えば分かる」という考えがありますが、知恵がない人にはどんなに語っても無理だと思うのです。
知恵のない人には、懲らしめが必要であることをここは教えているのでしょう。
30節では、悪を洗い落とすために子どもを打ちたたくことの効果とその正しい方法についての知恵を記しています。家庭教育における体罰を連想します。
ただし、体罰を与えられた子どもの心に親の思いが届いていなければ、この指導法は失敗に終わります。
体罰は必ずしも親の思いがその子どもに正しく受け止められるとは限りません。
体罰が効果あるものとなるか否かは、普段の親子関係によって決定づけられると言えます。
家庭における父は神の代理者です。また、国における王も神の代理者なのです。
その視点から30節を理解する必要があるのでしょう。
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