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2021年12月 4日 (土)

ソロモンの格言集16章

聖書の箇所は、16章1節から33節です。
15章は、正しい心を持つことについての格言が多く、16章は、私たちが心の中で考えて決めても、結果は主の御手の中にあり、私たちが支配するものではない、という内容です。

 

●1節.人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。
新改訳は、「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」です。

 

「主はその舌に答えを下さる。」ですから、私たちが口に出す言葉は最終的に私たちが制御できるかというとそうではないのです。たちが制御できるかというとそうではないのです。

 

神の御霊、聖霊が私たちに語るべき言葉を与えてくださるのです。
「人間は心構えをする。」ですから、人は、ものを比べて観察し、考え、まとめ、計画をし、心構えをしますが、それが実際に説得力ある言葉として表現されるためには、「その舌に答えを下さる。」ですから、神の特別な賜物を必要とするということでしょう。

 

人の領分と神の領分を正しくわきまえることが重要なのでしょう。
たとえ人が自分の領分においてどんなに純粋な思いで計画したとしても、それを評価されるのは神ご自身なのです。
その意味において、人は主に委ねる必要があるのでしょう。

 

私たちが知恵に従い(神に従い)、愚か者のように、愚かさを吐き出さないならば、主が御自分のみこころのままに人を用い、人に言葉を与え、主が結果をもたらしてくださると言うのです。

 

 

●2節.人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。
新改訳は、「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。」です。

 

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。」と言うのは、人が、「自分たちが考え、自分たちで行なっていく」という考えの背景には、人間の考えや行動は正しいという前提があると思いますので、そのことを言っているのでしょう。

 

「主は人のたましいの値うちをはかられる。」とありますが、聖書では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17章9節)」とあります。

 

私たちの心は、根本的に陰険であり、邪悪であり、その深さを自分自身も知りえない、と言うのです。悪魔が支配するこの世界ですから、当然のことです。
だから、わたしたちは、いつも主に祈りゆだねる心を忘れないで、自分自身を吟味しなければいけないのです。

 

●3節.あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。
新改訳は、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」です。

 

これが、本来私たちの求めるべき姿なのでしょう。
私たちはどんなに自分たちが考えても物事はすべて主の御手の中にあることを認めなければいけないのです。

 

そして密議をこらした自分たちでさえ、過ちを犯しているかもしれないという可能性を知る必要があります。
「ゆだねよ」と訳された原語は命令形で、石を「ころがす」という意味だそうです。

 

つまり、あなたのこれからの行く道において、石を転がせばどの方向に転がって行くかわからないとしても、ただそれが最善だと信じて主にゆだねなさいという意味だと言うことです。

 

先にも書きましたが、人の領分として、神のみこころにそって「心構え、整え、対処の備え、熟慮、計画すること」は重要です。そして、それを自分のやり方や手段に固執しないで、主を信頼し「ゆだねる」ならば、それは「ゆるぐことなく、堅く立ち、必ず実現する」のです。
しかし、主はヴィジョンをお持ちでしょうから、それを知ってそれに寄り添うと同時に、神のご計画における主の主権を認めて心を柔軟に保つことが必要なのでしょう。

 

●4節.主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。
新改訳は、「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。」です。

 

主はすべての物をおのおのそのご計画のために造り、それは、つまり、一つ一つの造られたものに意味があると言うことです。
悪しき人(逆らう者)をも災の日のために造られたのっです。

 

わたしたちが、結果を主にゆだねることは、神の主権を認めることです。
「逆らう者」、すなわち、神に反抗している悪者でさえも、御自分の目的のために神は用いられているのです。

 

しかし、悪を行う者は機械的にそのような悪を行なうように神に定められたのではありません。
神に逆らう者にも自由意思があり、主は、最後の最後まで悔い改めを求めておられます。

 

ところが、あらかじめすべてのことを知っておられる神は、彼らを怒りの器として用いられるのです。
なんともまあ、このような絶妙で、かつ測り知れない知恵を神は持っておられるのでしょう。

 

●5節.すべて高慢な心を主はいとわれる。子孫は罪なしとされることはない。
新改訳は、「主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。」です。

 

すべて心に高ぶる者は主に憎まれます。それは、その神の存在の重要な意味を悟らないからなのでしょう。その罪のために罰を受けるのです。
主は、高慢を忌み嫌われます。

 

高慢を「心おごる者」と書いてあります。
なお、高ぶりと驕りは似ていますが、驕りには、自分の地位や富に安住している側面があります。

 

●6節.慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。
新改訳は、「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。」です。

 

救われるためには、「恵みとまこと」、つまり恵みと信仰が必要です。
悔い改めは書いてないですが、新約聖書の使徒のメッセージには必ず、「悔い改めよ」という呼びかけがあります。

 

恵みとまことによって、私たちの罪は赦され、そして、主のものとされるとき悔い改めて、悪を離れます。
信仰と悔い改めは同時に行なわれるものでしょう。
そして、主を畏れることによって、人は悪を免れるのです。

 

●7節.主に喜ばれる道を歩む人を/主は敵と和解させてくださる。
新改訳は、「主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」です。

 

主が「人の行ないを喜ぶとき」ですから、人がその意味を悟り、人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和解させてくださるのです。

 

興味深い言葉ですが、意識している、していないにかかわらず、私たちにはいろいろな敵がいます。ある意味、それはわたしたちの性とも言えます。

 

主が私たちの行ないを喜ばれるときに、その敵をも和らがせる雰囲気を作ってくださるのです。

 

●8節.稼ぎが多くても正義に反するよりは/僅かなもので恵みの業をする方が幸い。
新改訳は、「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。」です。

 

何でも出てきましたが、実直さによって得た収益は確実であり、むなしいものによって得たものは災いをもたらし、またすぐなくなってしまいます。

 

「正義によって得た、わずかなもの」は、本当にごくわずかな小さなものでも、「不正によって得た多くの収穫」に勝るとしています。

 

●9節.人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
新改訳は、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」です。

 

人は心に自分の道を「思い巡らし」ますが、その結果は、すべて主の御手の中にあるのです。
この箇所は、これまでの事を総合して述べています。

 

●10節.王の唇には魔力がある。彼の口が裁きにおいて誤ることはない。
新改訳は、「王のくちびるには神の宣告がある。さばくときに、その口に誤りがない。」です。

 

「王のくちびるには」託された神の決定があります。
主が裁かれるときには、その口に誤りがないのです。
神は、たとえ間違った判断であっても、その言葉を用いて御自分の目的を果たされます。

 

聖書は上の者の権威に従えと言いますが、私たちは権威に従わなければいけないのです。自分たちに、そこから何の良いものがでるのか分からないのですが、従うのです。そうすると、主がその結果を用いて益にしてくださるのです。

 

●11節.公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの。
新改訳は、「正しいてんびんとはかりとは、主のもの。袋の中の重り石もみな、主が造られたもの。」です。

 

「正しいてんびんとはかりとは、主のもの。」です。「袋の中の重り石も」主が作られたものであることを知るべきです。
だからそのためには主に対する信頼が必要となります。

 

そうすれば、すべての出来事を主は良しとしてくださるのです。

 

●12節.神に逆らうことを王はいとわなければならない。神に従えば王座は堅く立つ。
新改訳は、「悪を行なうことは王たちの忌みきらうこと。王座は義によって堅く立つからだ。」です。

 

悪を行うことは王の憎むところです。悪を嫌う心が大切で、それを避けるのがよい行動と化すのです。そのように言えるのは、その位が正義によって堅く立っているからと言うことでしょう。

 

●13節.正しいことを語る唇を王は喜び迎え/正直に語る人を愛する。
新改訳は、「正しいことばは王たちの喜び。まっすぐに語る者は愛される。」です。

 

正しい唇は王を喜ばせる言葉を語る。すなわち、王たちは正しい事を言う者を愛する。それだけ正しい言葉というものは重みがあると言うことでしょう。

 

愚かな者はこの意味を悟らない。
私たちが住む国また政府は、義を行うように立てられているのです。
国または政府は、ある意味この役を担っている神の僕です。

 

●14節.王の怒りは死の使い。それをなだめるのは知恵ある人。
新改訳は、「王の憤りは死の使者である。しかし知恵のある人はそれをなだめる。」です。

 

王の怒りは、まさに死の使者です。
知恵ある人はこれをなだめることで、その怒りをとどめるのです。

 

●15節.王の顔の輝きは命を与える。彼の好意は春の雨をもたらす雲。
新改訳は、「王の顔の光にはいのちがある。彼のいつくしみは後の雨をもたらす雲のようだ。」です。

 

「王の顔の輝きは命を与える。」と言うのは、王は不義を行う者に怒りを表しますが、また慈しみをも示されますから、そのことを言っているのでしょう。

 

王は神の僕なのですから、王の顔の光には、人を諭す命があるのです。
王の慈しみは春雨(種まきの好機)をもたらす雲のよう、それは、「雨をもたらす雲のよう」ですから、その時に良き種をまけば、良き収穫があるからです。

 

●16節.知恵を得ることは金にまさり/分別を得ることは銀よりも望ましい。
新改訳は、「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい。」です。

 

ソロモンは、銀や金を石のように使ったほどの栄華を極めました。
その彼が、知恵を得ることのほうが黄金よりもはるかにまさる、と言っているのです。
それだけ、神に頂いた知恵というものは金銭では買えない貴重な悟りである、と言うことでしょぷ。

 

●17節.正しい人の道は悪を避けて通っている。魂を守る者はその道を守る。
新改訳は、「直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。」です。

 

「悪から離れ」ることは、「自分のいのちを守る者」で、その者は「自分の道を監視」しているので、それは正しい者の進むべき道となるのです。

 

●18節.痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。
新改訳は、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」です。

 

自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高く引き上げられる、という原則です。
これは自然界にある自然の法則のように、霊的法則としてこの地上に存在しているのです。

 

言い換えれば、高ぶりの心を抱いたところで、滅びに向かうだけです。誇る心も醜く、それは己を倒れさせる要因であるのです。

 

●19節.貧しい人と共に心を低くしている方が/傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。
新改訳は、「へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。」です。

 

へりくだって、己を低くし、その意味を受け入れて、貧しき者たちと共におることは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けることに勝るのです。
私たちは自己満足とか保身のために自分よりも力のある人のところに擦り寄りますが、知恵はその逆を行いなさいと言っています。

 

●20節.何事にも目覚めている人は恵みを得る。主に依り頼むことが彼の幸い。
新改訳は、「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」です。

 

「みことばに心を留める者」ですから、そのためには神の前にへりくだることが大切です。
そして、主を信頼し、主に寄り頼む者はさいわいであると言っています。

 

それは、神の有難さを知るからです。
何をもって幸いか、それはみことばに心を留めることと「主に依り頼むこと」です。
どちらも、子どものように無垢に信じていくことが必要なのです。

 

●21節.心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる。優しく語る唇は説得力を増す。
新改訳は「心に知恵のある者は悟りのある者ととなえられ、その快いことばは理解を増し加える。」です。

 

「心に知恵のある者」ですから、神と共におられる者の言葉には知恵がありますから、その者の言葉は、「聡明な人」ですから、人を慰め、励ましを与える言葉となり、人々を引き付ける言葉が生まれます。

 

「理解を増し加える。」というのは、その教えの意味を悟る者が多いと言うことでしょうか。

 

●22節.見識ある人にはその見識が命の泉となる。無知な者には無知が諭しとなる。
新改訳は、「思慮を持つ者にはいのちが泉となり、愚か者には愚かさが懲らしめとなる。」です。

 

「愚かさが懲らしめとなる。」と言うのは、やめたいと思ってもやめられない状態。またやってしまった後の自分の惨めな状態そのものが懲らしめ、ということでしょうか。

 

「思慮を持つ者」(見識ある人)の言葉、すなわち知恵は、(その信念により)固く保つ持つ者には命の泉となるが、その意味を悟らない愚か者には、その愚かなことが懲しめとなるのです。

 

●23節.知恵ある心は口の言葉を成功させその唇に説得力を加える。
新改訳は、「知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。」です。

 

「思慮のある者の心」(知恵ある心)から出る言葉は、「その口をさとし」ですから、知恵ある者の心はその言うところを賢くし、不動の言葉が出来上がるのです。

 

またそのくちびるから出る言葉は輝きを増すので人を説きつける力を増すのです。

 

●24節.親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。
新改訳は、「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」です。

 

「親切なことば」。すなわち、ここちよい言葉は蜂蜜のように、心に染みいれば甘く感じ、魂に甘く入り込み、からだを健やかにするのです。
健康を保つことの重要さを言っているのでしょう。

 

●25節.人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。
新改訳は、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」です。

 

「人の目にはまっすぐに見える道」と言うのは、人が見て自分で正しいとする道のことで、「その道の終わりは死の道」だと言っています。
人間がまっすぐだと思っていることが、実はまったく反対である、という厳しい現実を語っているのでしょう。

 

人が誠実であれば、その人は天国に行ける、と誰でも思うのですが、誠実であるがゆえにかえって間違えることも多いのです。
ですから自分の判断ではなく、主を恐れること、主に判断を任せることが大事なのだと言うことでしょう。

 

●26節.労苦する者を労苦させるのは欲望だ。口が彼を駆り立てる。
新改訳は、「働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ。」です。

 

ここには、なぜ仕事をするのかに対する単純な答えが記されています。
それは、「食欲のため」です。その欲望が、働く者を駆り立てるのです。

 

●27節.ならず者は災いの炉、その唇には燃えさかる火。
新改訳は、「よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。」です。

 

よこしまな人は、心の中に悪を企てる、その言葉には「焼き尽くす火」のようなものがあるのです。
口から生まれる言葉が、心の中の思いであり、神が共におられない「よこしまな者」(ならず者)の言葉は、常に悪言なのです。

 

●28節.暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。
新改訳は、「ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」です。

 

「ねじれ者」すなわち「暴言を吐く者」は争いを巻き起こし、私たちの信頼を引き裂くのは、きまって陰口です。

 

●29節.不法を行う者はその友を惑わして/良くない道を行かせる。
新改訳は、「暴虐の者は自分の隣人を惑わし、良くない道へ導く。」です。

 

「暴虐の者」(不法を行う者)はその隣り人を惑わし、良くない道に導く。
愚かな者の行動は、自分が悪事を行うだけでなく、隣人をも良くない道に導くのです。悪者と共に歩むなということです。

 

●30節.人は目を閉じて暴言を考え出し/悪を果たして口をすぼめる。
新改訳は、「目くばせする者はねじれごとをたくらみ、くちびるをすぼめている者は悪を成し遂げた者だ。」です。

 

悪事を企んでいる時は目配せをし、悪事が成し遂げたら、「くちびるをすぼめ」、つまり、だんまりを決め込むのです。
だから、「くちびるをすぼめている者」は、悪事を成し遂げた者なのです。

 

●31節.白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。
新改訳は、「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」です。

 

「しらがは光栄の冠、」ですから、年を取ることは、光栄なことだと言うことでしょう。
なぜ光栄かと言えば、それは「正義の道」、つまり、主と共にある道だからです。
正しく生きることによってそれが得られるのです。

 

●32節.忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。
新改訳は、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」です。

 

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、」は、怒りを抑えることの難しさを言っているのでしょう。
町を攻め取ることよりも、「自分の心を治める」方が、実は大変なのです。

 

この意味は、城を攻めることよりも心の掌握の方が良き支配(政治)ができるということでしょうか。

 

●33節.くじは膝の上に投げるが/ふさわしい定めはすべて主から与えられる。
新改訳は、「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」です。

 

「くじは、ひざに投げられる」と言うのは、人はその運命のくじを引くのですが、「その決定は、主からくる」ですから、当たりは生きる道、はずれは滅びの道で、要するに二つの道が用意されていると言うことでしょう。

 

人生の運命を握るのは神様です。生きる持ちを選ぶか滅びの道を選ぶかは、神様がすべてを決断すると言うことでしょう。

 

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